三省会

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宇佐晋一先生 講話


わかる話にはご用心  

 1950年に精神科医となった私は京大病院精神科で研修を積んでいた。大学では診察のたびに相手の悩みを詳しく訊くことが求められた。ところが家に帰ると、三聖病院ではそれはまったく正反対で、初診の後では症状を訊くと叱られた。長らく私にはその理由がわからなかった。ようやくその世間の常識に逆行するようなやり方の趣旨がわかりかけたのは1957年2月に父の没後に院長になってからであった。

 1962に元入院者Oさんが来られて体験談をしてくださった。その方が入院して第2期になって間もない頃、森田正馬先生が来られて講話をされる機会にめぐり合わせた。その時ある人が質問をして「私は近いうちに退院しようと考えていますが、どうしても不安がとれなくて困っております。どうしたらよろしいでしょうか」といった。森田先生はしばらく黙っておられたが、やがて質問の答とは関係のないような、次のような話をされた。「皆さんはお釈迦様が悟りを開かれたというが、どんな悟りを開かれたと思いますか?」と逆に一同に質問をされたのである。しかしだれも答える人がなかったので、先生みずからその答をいわれた。「それは不安というものは無くならないものだ、という悟りを開かれたのです」という意外なものであった。皆の後で小さくなって聞いていたOさんは思いもよらぬこのお話に感動し、涙がこぼれるのを抑えることができなかったという。

 ところが当時、希望して正眼短大教授(禅宗史)から三聖病院の生活指導員に転職して来られた高橋純道師は「あの話はいけませんです」と異議を申し出られた。この方は南禅寺と妙心寺の各僧堂で雲水として長い間修行生活を送られた禅僧であった。今から考えれば、その全面否定的な批判はもっともな話なのであったが、その頃の私は森田先生のお話にもかかわることなので、驚いてことばも出なかった。私はOさんの話にきっと感心してもらえるだろうと期待していたからである。

 こういう経験を経て私が教えられたのは、自己意識内容についてはことばと論理で概念化してはならないという大事なことである。一般に何気なく使っている「心」とか「自分」についてのどの話も、すべて主観的で虚構に満ちたものであり、そこに考えを持ちこんでは悩みに終るほかないのである。認知行動療法が盛んな現代において、そもそも認知ということが主役であっては、治るものも治らなくなってしまうことを忘れてはならない。

   2022.2.17



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