三省会

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宇佐晋一先生 講話


おめでたい日

 本日は新年の例会にふさわしく、皆さん方は非常に重要な事柄について言葉を工夫し、角度を変え取り上げていただき、大変うれしく思っております。皆さん方は今日どなたもが治らずに帰ることはできないことを申し上げる次第です。

 森田療法は説明を聞いて「分かりました」では本物とは言えません。なぜなら「分かる」という言葉は、「分からない」に相対し、そっちの考えよりこっちの考えの方が良い、というような議論がどうしてもつきまとってしまうからです。自己意識内(自分についてどう思うか、または他人が自分をどう見ているかという事柄)が、言葉という、自分を表現するのにはまったく不向きな手段を使って議論されると、自分の姿というものはことごとく虚構に過ぎなくなります。つまり自分で見た自分というものはまったく本物ではないということです。知性というものはあくまでも外向きに役立つ仕組みであって、自分を説明するということは、言葉の本来の働きからは脱線しているのです。

 ですから、言葉を外の事柄について使うことは大いに結構ですが、自分自身について、分かったとか分からないとか、これが自分だとか、違うとかいうような、言葉によるやり繰りはまったく無意味で、全治とは関係なく、きっぱりやめてしまってもいいものです。全治はどのようなものにも関係のないあり方で、ぶっつけに突然、今、このままにある状態をおいて他にはありません。どなたもがあるがままの外に出るということはできません。いつもあるがままの真っただ中にいらっしゃって、言葉を使って説明なさるより先にあるがままでいらっしゃるのです。これが全治の瞬間的な成立の特徴であります。

 今日のBさんのお話を聞きまして、いろんなお仕事に取り組まれると、こんなにたくさんのことをなさる方に変われるのかというぐらいに活動的でいらっしゃいます。大変重い責任を負いながらどんどん前進して行かれる姿は、それまでとはまったく目のつけ所が変わって、ことごとく自己意識ではなく、他者意識(外向きの意識)の中に目が開けて仕事を追いかけて行かれるというものです。これはかつての「治したい」という欲張りが大きく変化したものと言うこともできます。

 森田先生の「努力即幸福」という言葉がありますが、Bさんは、努力すれば幸福になるというのではなく努力しているその瞬間、瞬間が幸福なのだというお話をしてくださいました。私が瞬間的全治という話をいたしますが、これがいかにも奇をてらうようで突飛な話のように聞こえますが、森田先生の「努力即幸福」は瞬間的な幸福の成立を言っておられるので、同じことなのです。ですから、世間の人が、だんだん治って行くというような段階的な治り方を想定していらっしゃるのは、自己意識の内容を人間の知性で情報化して、こうすればこうなって行くに違いないという知的な心の探求ですので、森田療法からすると大きな間違いで、その情報のやり繰りで良い結末を招くことはあり得ません。

 世間では自分を情報化する材料として、外の情報を仕入れて来ていろいろ勉強される方が多いです。勉強というものは外向きの、例えば、仕事上、学問上でされるのは良いことですが、ご自分にとってという形でそれを応用しよう、自分に役立てようとなさると、その情報はまったく役立たないばかりかご自分を抜き差しならない状態へ導いてしまいます。勉強しただけ苦しみが増すというようなものであって、これが自分だ、これが心だ、これが症状だという種類の、内面的に組み立て構造化し、論理化して確かなものを作り上げようとすることは今日以降なさる必要はありません。

 会場から「恐怖突入」と「そのまま前進」は同じような意味ですかというご質問がありました。「恐怖突入」という言葉は森田先生の論文の中に「(恐怖症に)悩んでいる人を恐怖に突入せしめて」という文章がありまして、森田療法の理論学習で治すという立場の人たちがそれを大きく取り上げて、金科玉条きんかぎょくじょうのように使ったのです。ところが、森田先生から直接指導を受けられた鈴木知準先生がこれは森田先生の間違いであると、学会ではっきり発表され大きな反響を呼びました。つまり「恐怖突入」という言葉は使うべきものではなく、突入するのはその恐怖を起こさせる仕事の方なのです。恐怖を対象にして自分の怖さに突入するというように、怖さを引き起こす状態に突入するのが大事だとお思いでしたら、大間違いで、これは三聖病院ではまったく使わなかった言葉です。前の院長は「こわごわ、恐る恐る、ビクビクしながらやって行きなさい。本当の怖がりでいなさい」と言っておりました。

 「そのまま前進」は自分についてまったく概念化しない、恐怖という言葉も使わない、つまり考えに置き換えない具体的な行動をするということです。目の前のしなければならない、人に役立つ仕事に手を出した瞬間が全治そのものなのです。

   2017.1.8



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