三省会


目次

宇佐先生の講話
(平成30年5月13日)

 本日は大勢の方々から素晴らしい体験談、ご意見を伺うことができ大変うれしく存じます。

 皆さん方は他の方の体験談を聞いていらっしゃるというこの瞬間、瞬間が全治そのものでありまして、改めて心がどうあるべきかということを論じないで進んでいるというだけで、非の打ち所のない全治の状態がいつも成り立っているのです。

 現代の宗教家が「しっかり自分を見つめなさい」とよく言いますが、江戸時代より古い宗教書の中でそういう言葉をいまだに見たことがありません。おそらく明治以降に言い出した人がいてそれが広がったのかもしれません。しかし自分というものをいくらうまくとらえようとしても、それはすべて脱線です。世間では自己意識の内容、つまり心、精神、自分について、言葉を使って概念化する傾向が強いですが、皆さん方はこれからはそれを言葉を使って表現することをやめて放っておくことで、見事に森田療法の神髄が現れて、これ以上のことはありません。

 それは「心に準備なし」とも言います。不安、恐怖などに対するとらわれ、つまり神経症のどうにもならない苦しさというのは、いわば自分自身に対する用心というところから発するもので、それが熱心に治そうという努力になっているわけです。その自己意識のところを言葉を使わず放っておいたままでいると、その良し悪しや自分がどうなってしまうのかについて何も答えを出さないでいるわけです。そうすると一挙に自分の問題、心の問題が解決してしまって、あとは日常生活上の他の皆さんへの十分な配慮のもとに、それこそ森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」とおっしゃったように、緊張したまま外への取り組みに熱心であれば、申し分のない全治の姿でいらっしゃると言ってよろしいのです。

 そして全治というのは瞬間的なもので経過がありません。こうすればこうなるということがありません。森田理論があろうがなかろうがそれとは無関係に今の骨折りで十分立派に成り立つというところです。これは非常に大事なことです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 鈴木大拙先生に関してのご質問です。先生は三聖病院によくいらっしゃいました。昭和27年にニューヨークの精神分析研究所の有力な所員でありましたカレイ・ホーナイという先生を連れて日本にやって来られ、その時に京都の都ホテルで大勢の学者を集めて、森田療法の実際を前の院長が講義するのを聞いてくださったのです。その翌年には三聖病院に来られました。それをきっかけに精神療法に興味を持たれ、その年アメリカに行かれて「禅と精神療法」という講演をニューヨークの精神分析研究所でしておられます。その後、メキシコでエーリッヒフロムという精神分析の大家、そして鈴木先生の弟子の一人であるデ・マルティーノという禅の心理学に造詣の深い方との三名で禅と精神分析についての長時間にわたる座談会を行い、それが日本でも本になっております。
 その時に thing-as-it-is-ness を「あるがまま」の英訳として使っておられます。ただそれは長すぎるので、is-ness 、そしてさらにもっと平たく such-ness という言葉を使っておられます。
 私が大谷大学で「鈴木大拙と精神療法」という記念講演をする機会がありました。アメリカ在住の先生のところに17歳の時からずっと秘書としてよく尽くされた岡村美穂子さんという方がおられ、現在は金沢市の鈴木大拙館の名誉館長をしていらっしゃいますが、その方も講演に来てくださっていて、私のその英訳の話に関して特に間違っているとはおっしゃってはいませんでした。

 次のご質問は「純な心は森田先生があらゆるとらわれから離れた状態として示されたもので、それに対して、とらわれた考えを悪智と呼んでおられました。誰しも森田先生の本を読まれたら、心の良い状態が純な心で、悪智は悪いものであるととらえられます。ですから悪智というものを気にすると、結局心をやりくりしているように感じますが、これについてはどう考えたら良いでしょうか」というものです。

 おっしゃるとおり悪智というものは自己意識内容に自分の考えをつぎ込んで良い心にしようという、つまり治そうとする努力を続けることそのものです。しかし、その場にふさわしい必要なことをどんどん緊張して進んでいらっしゃる状態は心の内容を問いません。自己意識内容がどうであろうと問いませんので、悪智も純な心もすべて区別なくその時の心はそれこそ真実、純な心なのです。そうしますと悪智と純な心を分けることがなくなってしまいますし、自分について自分で評価する必要がなくなるというわけです。

 次のご質問です。「自分を情報化してはいけないと教わったのですが、客観視と自分を見ることの違いが分かりません」というものです。

 これについてご説明いたします。客観視も自分を見るということもどちらも自己意識を対象にした考えでありますから、森田理論を勉強会のように学習しているという段階に留まりますと、熱心に自分を見るという脱線をどこまでも続けてしまい、いつまでも治らないのです。
 森田療法について、他の療法との違いなどをよく理解されることはそれなりに良いことなのですが、治るということの実際は、学習にまったく関係がありません。前の院長は大徳寺の僧堂に入る時に出身大学名を聞かれ、「早稲田大学を出て参りました」と返事するやいなや「その学校を捨てて来い」と言われ、それを実践しておりました。
 大徳寺の塔頭の一つである聚光院に利休のお墓があります。その隣が僧堂で、その間がつながっていて、修行僧は聚光院でお経を読んでから毎朝そこで食事をしていたようです。入門の時にその学校を捨てて来いと言われたのですが、これはもうとても大事なことで、自己意識内容を学問的に工夫することが一番愚かな脱線の始まりなのです。客観視も自分を見るということもどちらも自分を対象にしたやり繰りですから、今すぐおやめになって、外に対する緊張、ハラハラした応対、生活の仕方の方に重点を置いて進まれたら申し分ありません。  



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