三省会

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宇佐晋一先生 講話


根性についてはきめないこと  

 今日「色紙に『根性』と書いてほしい」という依頼が舞いこんだ。「自分には根性がないから困っている。その色紙を見てがんばりたい」とその人はいう。こういう自分の心に足らないものを見つけるのは森田神経質の人びとの大変得意とするところであって、自己意識内容に、なにより先に自分の、他人にくらべて不十分、不完全なところを発見して、その回復をはかろうとする。そういう自己不全感は不安そのものといってよい。さらに不安はあってはならないときめてしまう状況下では自己不全感は一層ひどく感ぜられるものである。

 戦争中のことを知る者として、ぜひ心にとめておいていただきたいことがある。それは敗色の一段と増した1945年1月には1km余り離れた京都市東山区馬町一帯が夜間爆撃を受け、大きな被害をこうむった。妙法院は臨時の救護所となった。翌朝そこを通って通学したが、市電の運転手は女性であり、車掌は小学生が切符を切っていた。「欲しがりません、勝つまでは」の合言葉のもとに皆が我慢をして、忍苦努力の生活を続けた。皆がそういうふうだったので、自己不全感は感じなかった。三聖病院の入院患者は日に日に減り、1945年1月には、大学生が1人だけとなり、前院長は青くなった。「僕が退院したら、病院が空っぽになるから、入院していてあげます」という健気けなげなその一言に励まされる思いで、皆なんとかがんばったのである。

 さて戦争がすんでみると、次第に入院希望者が増加し、1950年で戦前の状態に復し、それ以後は満床続きで、入院待ちという、かつて見たことのない賑やかさとなり、前院長は2度にわたり病舎の増改築をして、その増加に対応した。私は1950年に医師になり、昼間は京大精神科で研修したが、神経症増加の傾向は京大も同じであった。当時助教授のM先生は新聞にこの現象について「物が豊かになってもなかなか手に入らないため」というフラストレーション(欲求不満)理論からの見解を発表されたが、私は物の乏しい戦争中に、神経症が激減した三聖病院の実情から見て、それは少しおかしいと思った。実は上記の「根性」のように自己意識内をきめる概念化が神経症の原因なのである。

   2022.2.2



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