三省会

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宇佐晋一先生 講話


心は豊かなのがよいか  

 「こうすれば心が豊かになる」というキャンペーンを見た。「心の貧しいものは幸いである」というキリスト教の聖書のことばと正反対である。どちらが正しいのだろうか。この問題をきっかけにして、はっきりと申し上げておきたい。そうでないと世の中の人は判断に迷うばかりで、あまりにも気の毒である。森田療法の立場からすれば答は明白で、迷うことは少しもない。心という自己意識の世界は普通論理の通用しない所なので、どのような答をもって来ても主観的な虚構にすぎない。したがって「どうでもよい」といってよいし、逆に「今のそのままが満点だ」といっても間違ってはいない。どちらにしても大事なのは、そこにとどまっていてはいけないということである。

 こうして「心のよいあり方というものがきまっていないのだ」ということがはっきりすれば、どんどん仕事や勉強、生活のほうに早速前進を始めて、後顧こうこの憂いはない。世間一般に心を大事にして、よい状態にもっていこうとして努力しているのは、結局無駄骨折りであったことがはっきりすると、森田神経質の人ならずとも、心を清らかに保とうとしたり、不安をなくそうとしたり、ストレスのあることから逃れようとしたり、心に癒しを求めたりなど大変な努力に明け暮れしたこれまでの大きな自己意識内の負担があっさり消え去るので、もう自分というものにとらわれることがなくなり、治すという対象が消えて、ひたすら用事に打ちこむことができることに驚くのである。

 ご時勢で自宅にいる時間が長いならば、周囲をなめまわすように観察して、探し出し見つけた用事にとりあえず手をつけながら、さらに一層の改善のための工夫に明け暮れするのが賢明である。その研究対象が家族1人ひとりについてのことから他人に及べば至極しごく上等で、せっせと近所を美しくしてまわり、つねに「これでよいか」と反省して、精進に欲ばるならば立派なものである。後で気がついたら、意識は自己意識はまったくいらなくて、他者意識の世界に骨折っているだけでよいことがはっきりしてくるであろう。これは実に大きな人生上の飛躍なのである。

   2021.12.10



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