三省会

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宇佐晋一先生 講話


「自分らしく」は間違い  

 メンタルの問題として、そのあり方が問われるのは古くからのことである。1964年の東京オリンピックの頃から目立っているけれども、日本ではそれ以前から、修行の究極は心の問題であると言うのは、長い伝統をもって “道” と呼ばれるものに明瞭に存在したことであった。しかし、その内容や実現方法は秘伝中の秘事として公開を拒んで来た。ということは厳しい修行のうちに自ら体得すべきものであるという言外の意味が仄めかされている。

 人間誰しもが希求してやまない安楽の境地に至ることとは、従来世界各地の宗教の中心課題として一致するものであった。なかでも仏教は、現在のネパールのマガタ国のカビラ城の皇太子シッタールタの、世間を見て、民衆のさまざまな苦しみを目のあたりにして実感した自らの苦悩からの脱却の方法の追及の結果、6年にしてようやく到達した、解脱の体験を伝えようとして始まったものであった。それが後に仏教教学の興隆とともに分派し、その理解に到達しないと奥義が得られないという傾向を生んで、最初に悟りをえたゴータマ・ブッダ(釈尊)の真意は伝わりにくくなってしまった。

 しかし、ゴータマ・ブッダの教えたかった真意は霊鷲山(りょうじゅせん)の説法で、黙って花を見せたことで示される。聴衆のなかでマハー・カーシャパ 1人が微笑んで会得したのを見て、釈尊が「私のすばらしい解脱の道を、マハー・カーシャパに授ける」といったのである。

 3月に文部科学省が教科書の心の指導要綱を示したものに「男や女という格式ばったものを廃し、自分らしさを尊ばせること」とある。こういう心のあり方を説く言葉では真実は伝わらないので、間違いである。先の霊鷲山のお説教はまるで森田療法の『ことばのない “あるがまま” 』とそっくりではないか。

   2023.4.2



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