三省会

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宇佐晋一先生 講話


初心は忘れてもよい。他人のために役立とう  

 若い頃「初心忘ルべカラズ」と教わったのは忘れがたい修養の指針であった。18歳のとき敗戦で、精神的風土も一変し、規範性のない状態に開放感を味わったが、医学の勉強という国家試験につながる大変忙しい毎日の生活に身を置いていたこともあって、初心貫徹の標語は絶対のものであるという思いが強かった。しかしよく考えれば大事なのは実際に勉強することであって、標語はから念仏にも等しい、いわば掛け声に過ぎないものであることは病院長になってから、ようやく気がついた。それは森田療法が修養的もしくは求道的なおもむきをもった精神療法であり、その治療施設の責任者になったことが幸いして、週3回の講話にうかつな脱線は許されず、定期刊行物である「三省会報」を世に問う論説主幹の立場でもあった関係で、つねに新鮮な内容を鼓吹こすいする急先鋒の筆をふるわなければならなかった。これはまことにありがたいことで、期せずして「森田先生のお言葉主義」におちいる失敗をしないですんだのである。つまり責任ある行動をとっていれば初心は忘れてもかまわないことに気がついたのであった。

 ここからは森田神経質の人が本当に全治しているかどうかの話に移ろう。これは治療者である森田療法家の専門医師からいわれるのを待つまでもなく、堂々の全治宣言にも等しい行動で示される。ほかの精神療法と違って森田療法における全治とは医師 - 患者関係の消滅が見られることが要件である。三聖病院では看護師も世話をしない一般の社会人のふりをした。けっして「今日はどうですか」ともかないだけでなく、療法を守らない人には、まるで監視役のように厳しく実行を迫った。実はその実行こそが「いきなりの全治」の成立である。森田療法の第1期から第4期までの一貫した治療システムの経過が大事なのではなくて、各時期における、それぞれの課題のほかならぬ忠実な遵守じゅんしゅの行為こそがもうその場での全治の成立なのであった。症状は自己意識内容を論理化し、気がすむように筋を通そうとして生じたものという観点からすれば、「治そうとする努力そのもの」と見ることができ、それをやめて他者意識の面で療法を守り、実行することで瞬間的に全治し、その後の生活に立派な道が開かれる。それは病院外のどこでも、そしていつでも実現してやまないのである。

   2021.10.28



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