三省会

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宇佐晋一先生 講話


心、症状、自分については いわずに働く  

 心の問題を取り扱うことが抜けている議論は、教養がないように思われた時代が長く続いた。しかし今もそうである。『心を整える』という本が数万部も売れ、京都府と京都市がそれにあやかって、秋の文化行事の共通のテーマにそれを選んだことも記憶にある。この売れ行きに気をよくした出版元のG社の編集部の女性から「心の問題について、今度は弊社から本を書かないか」と勧誘の手紙が来た。そこで「心は整えてはいけない」という本でよければ書く。と返事したら、それきりになった。

 いうまでもなく森田神経質の人が思いどおりに心を整えようとしたところに、神経症性疾障害という病的なとらわれの症状の発端がある。整えようとして手出しをしなければ、これはただちに止むのである。それで私たちは「インスタントに全治する」といい、前院長 宇佐玄雄はそのことを「迅速根治」といったのである。

 森田療法家でも、森田先生のいわれた「お言葉」を治療に使ったり、森田理論の学習を治療の中心に据える人は、かえってすぐに治ることを経験上、疑っているのではないかと思われるふしがある。それは無理もないことで、病院での作業が中心でなくなった現今では、どうしても "森田先生のお言葉主義" に陥りやすい。なかなかそれを否定することは難しいので、気がついた先輩が上手に導かないと、容易には改まらない。

 そこで思い出されるのは日本森田療法学会の壇上で、鈴木知準先生が「森田先生の "恐怖突入は間違いだ" 」と発言され、皆を驚かせられたことである。これはたしかに「あるがまま」の意識からすれば、自己意識を概念化された脱線に属することがらである。これが宇佐玄雄の場合では、まったく取り合わないか、取り合っても「こわごわ行きなさい」になる。とにかく重要なのは、ただひたすらな仕事、精神作業、他者への善意の支援などの取りくみのみであって、自ら全治したかどうかさえも問うことがない。心や症状、自分のことなどについては、もういう必要はまったくないのである。

   2022.6.8



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