三省会


目次


三省会とは

三聖病院とは

森田療法の特徴

三省会例会の内容

今後の三省会例会の予定

宇佐先生の講話

令和元年5月12日

平成31年3月10日

平成31年1月13日

平成30年11月11日

平成30年9月9日

平成30年7月8日

平成30年5月13日

平成30年3月11日

平成30年1月14日

平成29年11月12日

平成29年9月10日

平成29年7月9日

平成29年5月14日

平成29年3月12日

平成29年1月8日

平成28年11月13日





三省会とは

 三省会は平成26年末まで京都市東山区で診療を行っていた三聖病院に入院あるいは通院していた修養生(患者)を中心に結成されている会です。2ヶ月に1回(年6回)、院長をされていた宇佐晋一先生をお迎えして例会を開催して会員の親睦と修養を図っています。かつては病院内で例会を開催していましたが、現在は京都市内の会議施設で行っています。

三聖病院とは

 神経症を治療する森田療法を実施していた病院で、宇佐晋一先生の先代の宇佐玄雄先生が昭和2年に創設され、昭和32年に晋一先生が引き継がれたものです。

森田療法の特徴

 一般的に森田療法は「あるがまま」という言葉で代表され、「症状をあるがままに受け入れる」療法だと思われていますが、実際の療法はそれとは違っていて、あくまでも作業が療法の中心です。そして神経症は病気ではなく、本人が病気と思い込んで、自分で治そうとして治らず、ますます病感が増大した状態に過ぎないととらえているのです。したがって三聖病院に入院した人は患者とは呼ばれず、修養生と呼ばれていました。

三省会例会の内容

 まず出席者の自己紹介を行い、そのあと予定されていた方による体験発表、出席者による質疑応答と続きます。休憩のあと再び質疑応答を行い、最後に宇佐先生が講話をしてくださいます。

今後の三省会例会の予定

9月例会
開催日: 令和元年9月8日(日曜)
会場 : メルパルク京都
(JR京都駅 烏丸中央口徒歩1分)
    4階 研修室1(茜)
会場費: 500円
受付時間: 午後1時~
開催時間: 午後1時30分~4時


11月例会
開催日: 令和元年11月10日(日曜)
会場 : メルパルク京都
(JR京都駅 烏丸中央口徒歩1分)
    4階 研修室1(茜)
会場費: 500円
受付時間: 午後1時~
開催時間: 午後1時30分~4時


 なお、三省会例会には会員以外の方も参加していただけます。

 諸事情により、このホームページの問い合わせ先は掲載いたしません。ご質問のある方は例会当日、会場にお越しください。


宇佐先生の講話
(令和元年5月12日)

 本日発表されたBさんは三聖病院に入院されて治ったのですが、どこがどう作用して治られたかと言いますと、入院中のまったく言葉のない環境で言われた通りのことを実行なさったという、そこが大きなきっかけになったわけです。ここのところが他の療法にはない宗教性です。

 会場から大阪のお寺の住職さんが結構なお話をされ、自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)という、正信偈の中の一句をお話くださいました。この自然じねんというその「おのずから」という働きが宗教性なのです。森田療法の中にそれが脈々と流れておりまして、いつでもどこでも皆さん方が全治なさるのはこの自然じねんということからなのです。 森田療法のみならず日本の精神医学としては非常に大事な宝物だということです。  

 思い出すのは、その住職さんが入院された昭和33、4年頃でしょうか、たいへん良い体験をされましたので、私からお願いして、体験談を詳しく書いていただいて、私は私なりに文章を書きまして、2人で三省会報の臨時特別号を出させていただきました。私はその時、「悩みを極めるもの」という題名で書かせてもらいました。この悩みをどう解決するかではなく、悩みに徹底し、その苦しみの真っ只中にいるということを書きました。  

 これが森田療法の中に流れる宗教性そのものであります。今この瞬間、その不安、気になること、あるいはどうにかならないかと悩んでいる事柄全部をひっくるめて持ったまま、今すべき仕事をなさり、他の方への奉仕活動をなさり、そして世間からの恩恵に対して十分感謝なさるなら、その瞬間が全治で、森田療法ほど早く治る精神療法はないのです。  

 薬など、神経症性障害の治療としてはまったく見当違いそのものでありますから、どうか効果のある新薬の出現を願われるのではなく、まさに症状を薬として飲んで、どんどん実生活に励まれることをお勧めします。  

 「症状が薬」というふうに申し上げましたが、実を言うと、これも不徹底でありまして、薬というものを媒体にして治るのではなく、症状そのものが全治なのです。「症状が薬」と申しましたのは便宜上森田療法らしく表現しただけで、症状も何もかもすべて持ったままが皆さん方の間違いない、ただ今の全治であります。  

 では会場からのご質問にお答えします。
 昭和57年と平成2年に診察を受けられた方からですが、「少しも心が成長していませんが、どうすれば成長するのでしょうか」というご質問です。

 

 心は成長しなければならないかと言いますと、決してそうではありません。皆さん方の意識としては、どういうふうに成長して行くかではなく、今、ぶっつけにこの通りというだけで十分なのです。ご自分の状態を言葉を使って描き出したり、他人が自分をどう見ているかということを言葉で描き出しますと、神経症性障害の領域になります。心の中に言葉を持ち込みさえしなければ、実に簡単にこの場で見事に全治なさるのです。段階的に治るのではなく、皆さん方が社会生活上、一歩一歩、周囲の状況に応じて着実に歩んで行かれること自体が見事な全治なのです。
 森田先生が、君はもっとハラハラしたまえ、とおっしゃったというのは、まさにこのことを上手に表現されたもので、周囲に対して緊張を高めてドキドキしながら、さあ、今、何をしなければならないかを常に考えているということで十分なのです。
 心の成長というのは皆さん方の工夫や研究によるものではなく、心が成長しようが、しまいがまったくほったらかしで、実際のお仕事、勉強に欲張っていただければ結構なのです。

 次は「森田理論を学習してそれを実践して行く方法は間違っているのでしょうか」というご質問です。

 私は昨年秋に東京で開催された森田療法学会に出席しましたが、多くの演者が治し方に熱心な発表をされていました。私は森田理論を学ぶことはいけないとか、本来の森田療法から外れているとは決して言ってはおりません。ただ、もっと良くなられます、あるいは理論を学習しているだけで治らないと言っている方がもっと良くなられます、と発表ごとに助言させていただきました。
 皆さん方も森田理論を学問として勉強することは大いに結構なことです。精神医学全般も勉強なさればなおよろしいかと思います。しかし、それだけでは森田療法の核心が抜けてしまいます。つまりその宗教性が抜けてしまいます。自然じねんおのずからというところで実は森田療法がとても生きて来るのです。おのずからという意識で、即座に皆さん方は治っていらっしゃるのです。ですから、昨今、世間で薬物療法が標準的な治療と見なされていることはまったく恥ずべきことと思います。

 本日は遠方からもたくさんの方が出席してくださり、その中に精神科の専門の先生もいらっしゃって大変うれしいことでございます。精神科の医師として、患者さんに、この神経症が主観的障害であることを見抜いてあげるということは、他の人にはできないことです。つまり、病気ではないにも関わらず自分が気になって、これではいけないと思い込み、治そうとして病感が増しているだけのことを見抜いてあげるというサービスをなさり、あとは実生活上の指導を次々になされば良いのです。

 一般の人にとって神経症は本当の病気に思えて仕方がありません。あらゆる病気に似た症状が次々に起こりますから、もう片っ端から治したい、あるいは予防したいということで一生懸命になられています。ですから精神科の先生が、それはまったく主観的な症状で、本当の病気ではないことをはっきり示してあげ、薬やその他の何らかの方法で症状がなくなりますよ、と言うのではなく、実生活にどんどん追い詰めてあげていただきたいのです。

 せっぱつまった、というのは治療としてはまったくすごいものです。自分のことはほったらかしのまま仕方なしに進んで行くという、森田療法の極意を皆さん方がおつかみになり、もう自分のことは自然じねんにほったらかしで、四方八方に気配りをして他の人のために骨折るという、社会性に富んだ生活ぶりをどんどん推し進めて行っていただきたいと願うばかりです。(第438回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成31年3月10日)

 本日は良いお話を実にたくさんお伺いしまして、皆さん方のご精進のほどがよく分かりました。では会場からのご質問にお答えします。
 まず、すばるクリニックの伊丹先生からです。

 末期のがん患者さんが担当医から死が近いと告知され、恐怖にさいなまれていますが、どのように対処すればよいでしょうか、というご質問です。

 私は昨年の秋に日本森田療法学会に出席し、そこで10数名のがん患者さんを治療した森田療法専門の方の発表を聞きました。その方はがん患者さんに、がんと仲良くするという治療を森田療法として行っている、と発表されたのです。私はそこで手を挙げて次のように申しました。その本人ががんと仲良くするというのは、対峙たいじした間柄ができることになるわけで、それは森田療法ではまったくあり得ないことです。全治には間柄というものはないのです。それは一見賢い治療の持って行き方のように思えますが、実は森田療法からすればおかしいのです。
 がんによって死が近いと告知されましたら、ぶっつけの不安のまま、それ以上何か言葉で心の持ち方を変える必要はまったくないということを話しました。

 次のご質問です。 
 私は対人恐怖があり、人と話をした後に、きっと嫌われてしまった、あんな話をしなければ良かったと後悔し、そのことが頭から離れなくなります。頭から離れないまま仕事に取り組んでもまた頭から離れなくなります。どうすれば良いでしょうか、というものです。

 これについては、その一瞬に治ることが間違いないのです。頭から離さないでおくわけです。要するに自分にとって賢いと思われる対処を一切しないことです。自分あるいは心、症状は放ったまま、外の状況の変化に敏感に対処していらっしゃる、そのままで満点です。森田療法は時間をかけていてはいけません。1秒でも2秒でもかけていては脱線します。あるがままとは何かと考える時間だけでもいけません。   

 次のご質問です。
 不安は放っておくというのは分かりましたが、現実的に対応しなければならない不安が含まれていたらと思うと、すべての不安を放っておいて良いのでしょうか、というものです。 

 外の問題つまり生活上、学問上の問題について質問を受けた場合は的確に回答しなければなりません。しかし、先ほどから問題にしているのは神経症や心の問題ですから、それに対して賢そうな答えを絶対持ち出そうとなさらないことです。はっきり言いますと、心はどうでも良いという事です。ご家庭のこと、お仕事上のこと、それを緻密にいろいろ考えながら対処して研究的に進められたらよろしいわけです。
 外向きの仕事というのは大きく二つに分けますと、一つは外向きに次々と問題に取り組んで対処して行くこと、つまり問題解決への取り組み、知的作業です。もう一つは外の問題を次々吸収する、勉強する、ニュースを聞く、そして人がしていることに対する協力です。自分なりに研究し協力することです。
 外のことを対象にした問題については、学問や今までに得た知識を大いに発揮して解決に進まれれば良いわけです。ところが森田療法で問題になりますのは、常に自己意識、つまり自分で見た自分という意識、あるいは他人が自分についてどう見ているか、という意識です。そこには絶対、自分の方から言葉や論理を持ち込んではいけません。
 禅の言葉で「絶言絶慮ぜつごんぜつりょ 処として通ぜざる無し」というものがあります。禅宗の三祖、鑑智禅師が信心に関する究極の言葉として信心銘に残したものです。これは前の院長がしていたことに通じるものです。
 つまり皆さん方は今すぐ、健康人として、あるいは健康人のふりをして、今しなければならない事柄を、大事な方から順にどんどん取り組んでいらっしゃるという、それだけでその時の全治が、治そうとしないまま立派に実現するのです。 (第437回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成31年1月13日)

 今日はBさんの大変結構なお話を始めとして、皆さんの日頃のご精進の実際をお知らせくださったことに対して、大変すばらしくうれしく存じます。
 Bさんが詩をお作りになって読んでくださったのは大変ありがたいことでした。Bさんは詩集を出されていて、普通の言い方をすれば詩人でいらっしゃいますが、詩人という職業があるわけではありません。歌人とか俳人とか申しまして、いかにもそういう職業の人であると思えるのですが、実際はBさんのように、しっかりと実際のお仕事を持って社会に尽くしておられ、それに加えて詩をお作りになるということは、生活、生きることの進展した状態でありまして、その作品はBさんのお人柄のさらに大きく発展した結構な状態と申し上げてよろしいです。

 では会場からのご質問にお答えいたします。

 私が言っております不問療法の不問とはどういうことですか、というご質問です。

 不問とはまさに宗教性そのものでありまして、言葉で自ら問うということがありません。言い換えますと、自分について、そして人が自分をどう考えているかについて、そこに考えによる答えを一切出さないというあり方です。
 神経症の範囲、つまり神経症がどういったところで成り立っているかということを厳密に見た場合、今日も皆さん方がお使いになっている自己意識というものが大変行き届いた表現であります。自分で見た自分だけでなく、他人が自分のことをどう見ているかというこの自己意識が神経症の範囲であることは間違いありません。それ以外のものは外、人、世間のことですから、他者意識ということです。
 ですから森田療法についても、その他者意識でいくら学習なさってもかまわないのですが、それを治療に使おうとしますと、自己意識の中をいじくることになりますので、大脱線です。そこのところに多くの方が気づいておられなくて非常に残念に存じております。そこで先程申しましたように、自己意識の範囲の中に言葉を絶対持ち込まないことが不問なのです。
 他人に対して緊張する、人から嫌われるのではないかという心配、不安が起こって来るというのは、言葉になる前のそういう感情的なものとしては、いくらでもあり得るわけです。ところがそれを明確に言葉で概念化、つまり考えに組み立て直すところから引っかかるわけです。「あるがまま」というのは自己概念というものをまったく組み立てない状態でありまして、これが宗教性に通じる独特のものなのです。

 次のご質問は、お孫さんが今16歳で、中学2年生の頃から不登校気味であるとのことです。その理由は、お孫さんが、周りの人からどう思われているかが気になって仕方がないことだそうです。親御さん達はその症状を治そうといろいろ工夫しておられ、本人さんも気にしないでおこう、あるいは平気になろうなどと随分苦心しているようですが、答えは非常にはっきりしていて、気になることは気になりっぱなしということです。気になって辛くてとても耐えられないと感じながら、次の勉強へすばやく取りかかるように指導なされば、すぐその場で治ってしまわれます。
 治すという手間を省いて治すことができるのがこの療法の大きな強みです。つまり、次の実行、次の生活、仕事、勉強に手をつけること自体が治った瞬間なのです。前の院長、宇佐玄雄は、すぐ健康人のふりをしなさいと言いました。それが治った状態そのもので、世間では神経症はだんだん治ると考えられていますが、それはまったく当たってはいないのです。あくまでもいきなり治るのです。日常生活を進めて行くその姿が全治ですから、心の内容の良し悪しは一切問わないのです。

 次のご質問は、神経症に陥った原因は、気持ちの良い快楽を求めたことによるのでしょうか、というものです。

 楽な感じ、あるいは幸福感を求めるということは神経症のさっそくの成立を招くことになるのです。快楽というのは、沸き起こる感情として、たとえば、うまく行ったなあという思いを感じましたら、そういう感情を結果的に味わっていらっしゃるだけでよろしいのです。求めてそれを得ようとやり繰りするといけないのです。治ることを求めることもだめです。自信を得ようとするのはなおさらいけません。自分に関することで、もっと付け足そう、もっと豊かにしようと求めることは、脱線するもとになります。
 では、森田療法で快楽の問題をどのように解決すれば良いかと申しますと、これが自分だというふうに言葉を自分に持ち込まないことです。つまり、快楽とは限らない、日常で必要な事柄にただ取り組むことです。即座にそれをなさることです。
 森田正馬先生は、道が2つあった場合、困難な方を選びなさいと言われ、前院長の宇佐玄雄は鉛筆が倒れた方を選びなさいと申しました。肝心なのは、とりあえずすぐやるということです。かつて神戸大学法学部の教授が三聖病院に入院されていて、先生が部屋でじっと考え込んでおられた時に、前院長がそれを見かけて、足ででもよろしいからちょっと布団のゆが んでいるのを直しなさい、と言ったところ、その先生はハッと気づかれたということです。足で布団を直すのは行儀が悪いですが、ちょっと何かすぐ用事をすること自体が大事なのです。

 次のご質問は、宗教が存在しないと自分にだまされると私が申しましたが、それはどういう意味でしょうか、というものです。

 宗教はその場を見事に解決し役立つ事を概念で決めないのです。つまり肝心な中心は決められないということです。それを「知らなさ、分からなさ」と表現してもよろしいのです。心の問題に関しては一切言葉で決めないことです。自分で考えた自分のことを本当だと決めないことです。思いっぱなしで外の状況に応じた肝心なことをして行くという、それでもうとらわれから見事に離れることができます。宗教がないとどうしても自分の考えに答えを出してしまいます。自分の考えを確かなものと思ってしまいます。そこにとらわれが生じます。自分の心の中を言葉で組み立てず、どんどん必要な仕事をされれば良いわけです。(第436回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成30年11月11日)

 今日は皆さん方のたいへん良い体験を聞かせていただき、ありがとうございました。症状があれば治るのは絶対間違いありません。しかしそこに人間が介在しますと、たとえば私ですが、そうしますと、治し方を聞きたくなり、私が何かお返事しますと、それがお役に立つような感じになりますから、非常に具合が悪いのです。介在するのが人間ではなく阿弥陀あみださんでしたら、阿弥陀あみださんがどうお考えになっておられるかが分かりませんから、さっそく治ってしまう、救われてしまうのです。それが宗教の見事さなのです。

 その素晴らしい治り方を今日、ここで皆さん方が体験したいと思われるのでしたら、私を間に挟まずに実際のこの場の他の皆様にお役に立ついろいろなことを工夫していかれる、そして発言されれば、それで立派な全治が現れるわけです。ぶっつけに今この瞬間にどなたもが治った人としての行動をお始めになるというそこに、見事な本物の全治が現れるということです。

 昭和25,6年のことですが、京都大学では毎年、哲学者の西田幾多郎博士をしのぶ会を開いておりました。そこへ禅の大家、鈴木大拙先生が来られて、「西田君と私」という講演をされました。難解な西田哲学を鈴木先生がどう説明されるのか、これは絶対に聞き逃せないと思い私は耳を澄ませておりますと、「西田君の哲学はこの頃流行らないそうだが」と前置きされ、「あの絶対矛盾的自己同一というのは、お経のようにゼッタイムジュンテキジコドウイツと唱えるべきなのです」とおっしゃいました。これにはあっけにとられましたが、今にして考えますとすばらしい名言でありまして、それは西田哲学のあの難解なものが全部解けると言っていいほどのものなのです。

 これは森田療法でも同じことで、前の院長、宇佐玄雄が「理屈抜きですよ」とはっきり言っておりました。それは言葉もなく、論理もなく、何かがあるのではないということです。それでどんどん仕事しなさいと言っているだけのことなのです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 「不安になった時に目の前の仕事を探して掃除や片付けをすると、そちらに意識が向き、気がついたら不安を忘れていることがあります。これで全治なのでしょうか」というご質問です。

 人間の意識というものは2つのことを同時に意識できないという決定的な事実がありますので、皆さん方がご自分の症状を問題にしていらっしゃる時は外のことが考えられないのです。逆に外のことに手を出して何とか工夫してやり始めましたら、途端に今度はご自分の長く苦しまれた症状が消えているのです。これが見事な意識の転換で、これは本当に立派な治り方なのです。自分の症状をどう持って行けば治るかという、症状対策、工夫というものはすべて具合が悪いのです。

 次は「日常の生活や仕事に没頭して生きる姿は多くの世間一般の人にあてはまりますが、そういう人と、悟っている人とは違いがあるのでしょうか」というご質問です。

 仕事に没頭しておれば立派なものですが、自分というものを考え出しますと、例えば心について論じたり、スポーツ選手がインタビューで「自信がつきました、強い心を持って頑張らなければ」と答えるのを聞きますと、気の毒なくらい心の問題をうまく卒業できていないのだなと思います。ところが悟った人である皆さん方は、もう今日以降ご自分のこと、心の問題について何もおっしゃる必要がありません。それは大変な違いです。その悟りというのは、自分というものを描かない、自分をどうするこうするという工夫がまったくない状態です。
 昭和36年に東京で日米精神医学会議が開かれた時に、鈴木大拙先生が特別講演で「悩みというものは人間が自分を概念化するところから起こる」ということをはっきりとおっしゃっていました。まったくその通りで、概念を組み立てる言葉や論理というものを自分に持ち込まなければ、もう絶対に悩みは起こりませんし、神経症はたちどころに治ってしまいます。

 次は「私にはパニック障害があり、薬をお守りとして常に持たなければパニック発作が恐ろしくてならないですが」というご質問です。

 パニック発作は非常に怖いものです。その恐ろしさは他人には理解してもらえません。それがどのように治るかと言いますと、ご自分が安心を求めること、つまり困った状態から早く抜け出ようとする、その治す工夫というものを抜きにして、実際その場でしなければならないことに調子を合わせていくのです。ですから、電車の中でパニック発作が起こった場合は、その場で周りの人に迷惑をかけないよう、ただじっとしているというだけのことです。

 次は「選択に迷ったら困難な方を選びなさいという指針は森田療法上どのような効果が期待できますか」というご質問です。

 このことは本には載っていないのですが、森田先生の次の教授でした高良武久先生が、福岡で国際森田療法学会があった時の懇親会の席で「今回はよほど出席をやめておこうかと思いましたが、道が2つあった場合は困難な方を選びなさいという師の教えに背くことができませんでした」とおっしゃったのです。このことにはどういう良いことがあるかと言いますと、必要な実生活にすぐ着手することができるということです。言い換えますと、その瞬間に全治しているということです。困難な場面を皆さん方の全治の場所とされれば間違いないのです。

 次は「あるがままとは自分で認識する前のもの、自分で自分を見る前のもの、というのは真実ですか」というご質問です。

 まさにその通りです。西田幾多郎博士の著書、「善の研究」の序文に、純粋経験をもとにして哲学を組み立てよう、という趣旨が書かれてあります。言葉で自分を説明した途端に自己意識がはっきり組み立てられてしまいますから具合が悪いのです。純粋経験というのは、皆さん方がまだ赤ん坊の時のような、言葉を習得する前の意識であります。

 次は「私は強迫性障害なのですが、10年ほど前に三聖病院にしばらく通院していて、宇佐先生がよく、知らなさ、分からなさ、決められなさ、と言われていましたが、そのことがよく分かりません」というご質問です。

 これは「よく分かりません」というのをやめましたらすぐに治ります。何かご助言いただければとおっしゃって、私が何か分かるお話をしますと治りません。全治というのは常にぶっつけでいきなりなものですから、最初は分かりにくいと思われるのです。(第435回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話) 



宇佐先生の講話
(平成30年9月9日)

 それでは皆さん方にはお礼を申し上げるとともに、気がついたいろいろなことを全般にわたってお答えしたいと存じます。

 まず、伊丹仁朗先生には、日本森田療法学会の理事として、先般高知市に出向かれ、森田先生の没後80年墓前祭にてご講演をいただきまして、誠にありがとうございました。その詳細を本日聞かせていただき、感謝に堪えません。感謝と申しましたが、これは伊丹先生に対する感謝であると同時に、集まられた皆さん方の森田先生への報恩、感謝の念の表われでもありまして、私の気持ちもそこにつながるわけです。

 先日東京で開催されました第36回日本森田療法学会に私も出席いたしましたが、今回の学会の会長さんは女性の先生で、女性患者さん達の苦悩や回復過程を視点においた研究をされて来られ、学会のテーマとして「やわらかに生きる」とされました。それはそれで結構だったのですが、会長講演の中で「自分らしい生き方の探索」という言葉を使われました。この「自分らしく」というのは自己意識を概念化していますから、それでは治らないのです。

 「あるがまま」というのは、言葉によって規制されない意識ですから、簡単に言えば言葉を使わなければすぐに実現できます。実に簡単であるだけでなく、それは瞬間的で、たとえば今日皆さん方とお話しているこの場で成り立ちます。皆さん方がどこにいらっしゃってもその場で成り立つのです。あるがままというその自己意識内容はご自分ではまったく分からない、知ったことではないというふうに、放ったままなのです。非連続的で、そして言葉で人に伝えることができない非伝達性を持っているのです。伝達不可能なのです。ですから森田理論学習では神経症を治すことはできないのです。自己意識内容を外からの言葉で変えることはできないからです。学会で発表を聞かせていただいて、そのことを分かっておられない方が実に多いと感じました。

 では会場からのご質問にお答えします。

 強迫性障害の方が何回も確認しないと気が済まない状態を、確認する回数を決めておけばうまく行くのでは、というご質問です。

 心の問題、精神内界、自己意識内に数字を持ち込みますと必ず失敗します。確認回数を決めればうまく行きそうなものですが、数字を自己意識内に持ち込まずに、ただひたすら他者意識、つまり外向きの意識に人間の知性を使って行くということです。
 自分の中に向けて知的な能力を発揮しようとすると、それはことごとく虚構に終わってしまい、森田先生はこれをよく屁理屈と批評されたものです。外への仕事、精神作業としての様々な勉強をすることは良いことです。例えば、森田理論を学習するのは結構で、森田療法学会で論争することも、それ自体は良いわけですが、それを自己意識内へ持ち込んで、自分の説明、自分の生活規範にしようとするともういけません。
 それで、強迫障害の方、森田神経質の方にとって確認回数を決めるなどの対策をとらないでいるというのは、自己意識内は中途半端で不完全な状態が残るのですが、そういう中途半端な感じのまま、すぐ仕事上の事柄に取り組むということです。ですからいつも不安、確かでない感じのまま、外の事柄への取り組みから始めて行き、他の皆さん方に十分役立つような仕事をするわけです。言い換えますと、自己意識を完全に放置しますから自己犠牲の極みであります。
 自己意識の中で森田療法を働かせようとすると途端に失敗します。努力の対象は必ず外向きであって、さっと、精神作業、勉強すればそれは治った状態であるわけです。その、すぐ治った状態であることを多くの方には分からないのです。ですから、だんだん長い時間がかかって治るものとばかり思っておられます。現在の多くの治療者もすぐ治るはずがないと思っておられます。しかし森田先生はこれは病気ではないと言われ、病気ではないということは、すぐに健康人としての生活を始めるのが一番賢明なわけです。ですから、先ほどの強迫性障害の方は自分の気持ちは中途半端で納得しないまま、まだまだ不安なまま仕事なり、勉強なり、人のためになる、目的が外に向いたその場のことをとりあえず始めたところがもう全治なのです。

 では次のご質問です。 

 仕事上、論理的、概念的な表現を要する発表、企画をしなければならない時、内向きに、心に向いている思考をどのように外向きに切り替えれば良いのでしょうか、というご質問です。

 これについては、その場その場が立派な全治でありますから、内向きの思考からの切り替えは一切必要がありません。内向きの思考は完全に放ったまま、自分の知ったことではないというのが、あるがままの表われです。切り替えという工夫はまったく要りません。次に何をするか、どう発表するか、困ったな、という、もうそれで治っているということです。(第434回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成30年7月8日)

 本日はどなた様も日常でのすばらしい精進の姿をご披露くださいまして、誠にありがとうございました。三省会にこうして参加してくださること自体が、飛躍的な真実への申し分のない徹底ということがこの場で実現します。

 皆さん方の中から「人間にはなぜ宗教が必要なのでしょうか」という非常に重要な点をお尋ねいただきましたので、これについてお話いたします。これは、宗教がなかったならどんなに困ったことが起こるかというふうにご質問を置き換えてもよろしいわけです。

 宗教がないと、自分というものについての考えを最初から信じてしまう傾向があります。言い換えますと、自分にだまされるというようなことです。そこからいろいろな気分の良くなることだけを求めて嫌なものを避けるという、選り好みが始まります。ここからは、その先どう考えを持って解決しようとしても、そこにはいろんな自分本位の考え、結論が出て、その方法探しに明け暮れすることになります。そこからは森田療法の本当の全治は出て来ないのです。

 では、どういうことで皆さん方がうまく治っていらっしゃるのかと言いますと、自己意識(自分で見た自分、あるいは他人が自分をどう見ているかという意識)に対してのみ森田療法のあるがままをしっかり生かして行かれれば、それでよろしいわけです。すなわち、自分、心というものは完全に放ったまま、心はどうであろうとまったく自由で良し悪しがないのです。ですから、心の持ち方というものはもともとありません。自分を言葉で決める必要がありません。

 これが宗教の現われでありまして、宗教がないと脱線してしまい、自分の考えにとらわれ、その良し悪しを思案してひっかかってしまうのです。結局は安心を求め、治そうとする神経症の状態に陥ってしまうのです。

 先日、皆さん方も熱狂されたロシアでのサッカーワールドカップの試合におきまして、テレビで批評家がいろいろコメントする内容に、精神面に話が行ってしまうということがよくありました。日本ではそういうことがありがちですが、その代表的な一つが、いかに平常心を保つかというものです。そういう心の安定が試合を左右するように言っている人がたくさんおりますが、これは大きな誤解です。平常心というのは、どんな心でもすべてありきたり、あるいはその場にあり合わせの状態を言いますので、特定の安定した心という意味ではありません。

 森田療法から申しますと、心の持ち方というものはありませんし、良し悪しもありません。どんな心でもそのままで、心の状態に関係なしに試合に一生懸命になって進めば、それで満点であったわけです。つまり心が決められていない、どうでもよろしいということが宗教の現われであり、皆さん方が生きる上で宗教が不可欠であることそのものであります。それはもう一切、自分、心などに言葉を使わなければ、この場でいきなり成り立ちます。

 一方、他者意識の方では、あれかこれかと必死になって考え、悩みながら、他の方々に少しでも役立つ事、あるいは世の中に幸せをもたらす事柄に向かって骨を折るということが精進でありまして、それは決して心がけの問題ではありません。どんどん実生活に取り組んで行くという簡単なことで、この療法の趣旨である「あるがまま」が自己意識の中に自ずと生きて来るわけです。

 そこの所を間違って「あるがまま」を求めないことです。自分についてはどうなろうと知ったことではない、自分の方からは何も求めて行かない、自分というものはこうだということを持ち出さないということです。

 浄土宗や浄土真宗では阿弥陀如来にすっかりお任せします。「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」の意味を解釈する必要はまったくありません。他者意識のことだけに気を配って、他の方々のために努力なさるということで満点です。自分にだまされることなく、自分が言わば主人公になってその場、その場の状況を判断して物事に対処していくことです。物事の選択に迷った時には、前の院長は、立てた鉛筆が倒れた方に進みなさいと言ったぐらいで、迷った所でもたもたせずにどんどんさっと目の前のものにとりあえず手を出して行くというところが、全治の偽らない見事な姿であるわけです。

 いきなり実生活での状況、その場、その場の複雑な環境の変化にすぐに応じて行くのです。それはつまり自分を客体化しないということです。自分で自分を治す対象にしないことです。考える対象は心ではなく、いつも外に、目の前にあるのです。

 森田療法というのはもちろん宗教ではなく、森田神経質の方に対する特殊療法ですが、他の治療法にはない、自分を決めない、自分を知ろうとしないというあるがままの特色は、まさに宗教そのもの、あるいは禅の現われと言ってよろしいのです。

 本物の森田療法を日常でいつも実現しようとしましたら、前の院長が申しておりましたが、机の上を見渡して行って、目についたものや手に触ったものが、皆さん方にとってなくてはならないもの、たとえばお茶碗にしろボールペンにしろ紙にしても、よくもこれほど便利なものを発明し作ってくれたものだと感謝することです。(第433回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成30年5月13日)

 本日は大勢の方々から素晴らしい体験談、ご意見を伺うことができ大変うれしく存じます。

 皆さん方は他の方の体験談を聞いていらっしゃるというこの瞬間、瞬間が全治そのものでありまして、改めて心がどうあるべきかということを論じないで進んでいるというだけで、非の打ち所のない全治の状態がいつも成り立っているのです。

 現代の宗教家が「しっかり自分を見つめなさい」とよく言いますが、江戸時代より古い宗教書の中でそういう言葉をいまだに見たことがありません。おそらく明治以降に言い出した人がいてそれが広がったのかもしれません。しかし自分というものをいくらうまくとらえようとしても、それはすべて脱線です。世間では自己意識の内容、つまり心、精神、自分について、言葉を使って概念化する傾向が強いですが、皆さん方はこれからはそれを言葉を使って表現することをやめて放っておくことで、見事に森田療法の神髄が現れて、これ以上のことはありません。

 それは「心に準備なし」とも言います。不安、恐怖などに対するとらわれ、つまり神経症のどうにもならない苦しさというのは、いわば自分自身に対する用心というところから発するもので、それが熱心に治そうという努力になっているわけです。その自己意識のところを言葉を使わず放っておいたままでいると、その良し悪しや自分がどうなってしまうのかについて何も答えを出さないでいるわけです。そうすると一挙に自分の問題、心の問題が解決してしまって、あとは日常生活上の他の皆さんへの十分な配慮のもとに、それこそ森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」とおっしゃったように、緊張したまま外への取り組みに熱心であれば、申し分のない全治の姿でいらっしゃると言ってよろしいのです。

 そして全治というのは瞬間的なもので経過がありません。こうすればこうなるということがありません。森田理論があろうがなかろうがそれとは無関係に今の骨折りで十分立派に成り立つというところです。これは非常に大事なことです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 鈴木大拙先生に関してのご質問です。先生は三聖病院によくいらっしゃいました。昭和27年にニューヨークの精神分析研究所の有力な所員でありましたカレイ・ホーナイという先生を連れて日本にやって来られ、その時に京都の都ホテルで大勢の学者を集めて、森田療法の実際を前の院長が講義するのを聞いてくださったのです。その翌年には三聖病院に来られました。それをきっかけに精神療法に興味を持たれ、その年アメリカに行かれて「禅と精神療法」という講演をニューヨークの精神分析研究所でしておられます。その後、メキシコでエーリッヒフロムという精神分析の大家、そして鈴木先生の弟子の1人であるデ・マルティーノという禅の心理学に造詣の深い方との3名で禅と精神分析についての長時間にわたる座談会を行い、それが日本でも本になっております。
 その時に thing-as-it-is-ness を「あるがまま」の英訳として使っておられます。ただそれは長すぎるので、is-ness 、そしてさらにもっと平たく such-ness という言葉を使っておられます。
 私が大谷大学で「鈴木大拙と精神療法」という記念講演をする機会がありました。アメリカ在住の先生のところに17歳の時からずっと秘書としてよく尽くされた岡村美穂子さんという方がおられ、現在は金沢市の鈴木大拙館の名誉館長をしていらっしゃいますが、その方も講演に来てくださっていて、私のその英訳の話に関して特に間違っているとはおっしゃってはいませんでした。

 次のご質問は「純な心は森田先生があらゆるとらわれから離れた状態として示されたもので、それに対して、とらわれた考えを悪智と呼んでおられました。誰しも森田先生の本を読まれたら、心の良い状態が純な心で、悪智は悪いものであるととらえられます。ですから悪智というものを気にすると、結局心をやりくりしているように感じますが、これについてはどう考えたら良いでしょうか」というものです。

 おっしゃるとおり悪智というものは自己意識内容に自分の考えをつぎ込んで良い心にしようという、つまり治そうとする努力を続けることそのものです。しかし、その場にふさわしい必要なことをどんどん緊張して進んでいらっしゃる状態は心の内容を問いません。自己意識内容がどうであろうと問いませんので、悪智も純な心もすべて区別なくその時の心はそれこそ真実、純な心なのです。そうしますと悪智と純な心を分けることがなくなってしまいますし、自分について自分で評価する必要がなくなるというわけです。

 次のご質問です。「自分を情報化してはいけないと教わったのですが、客観視と自分を見ることの違いが分かりません」というものです。

 これについてご説明いたします。客観視も自分を見るということもどちらも自己意識を対象にした考えでありますから、森田理論を勉強会のように学習しているという段階に留まりますと、熱心に自分を見るという脱線をどこまでも続けてしまい、いつまでも治らないのです。
 森田療法について、他の療法との違いなどをよく理解されることはそれなりに良いことなのですが、治るということの実際は、学習にまったく関係がありません。前の院長は大徳寺の僧堂に入る時に出身大学名を聞かれ、「早稲田大学を出て参りました」と返事するやいなや「その学校を捨てて来い」と言われ、それを実践しておりました。
 大徳寺の塔頭の一つである聚光院じゅこういんに利休のお墓があります。その隣が僧堂で、その間がつながっていて、修行僧は聚光院じゅこういんでお経を読んでから毎朝そこで食事をしていたようです。入門の時にその学校を捨てて来いと言われたのですが、これはもうとても大事なことで、自己意識内容を学問的に工夫することが一番愚かな脱線の始まりなのです。客観視も自分を見るということもどちらも自分を対象にしたやり繰りですから、今すぐおやめになって、外に対する緊張、ハラハラした応対、生活の仕方の方に重点を置いて進まれたら申し分ありません。(第432回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)  



宇佐先生の講話
(平成30年3月11日)

 本日は皆さん方の日頃の実際の生活面を中心とした、大変結構なお話をお伺いしてうれしく存じます。

 まず、治っている姿、医学的には治癒像と言いますが、それをはっきりさせたいと思います。症状へのとらわれは、基づくものがご自分の感覚や感情でありましょうとも、すべて知的な葛藤そのものなのです。知的にどう扱って行くかという皆さん方のご苦心は、今日のお話の中でたびたび出てきました「結論」という言葉で現れておりました。ところが治癒像というのは論理のまったくないものですから、「結論」という言葉を少しでも使いますと、それはもう本物ではありません。

 その論理を「別種の論理」という方々もおられて、みんなが分かる形で論じ合っています。私も若い頃はその「別種の論理」という論理があるのかと勘違いしまして、大変困ったことがあります。「別種の論理」というのは、普通の論理がまったく出てこない領域、言い換えますと、普通の論理を離れた領域を指しておりますので、別の考えという意味ではありません。このことを前の院長は簡単に、「それは理屈抜きです」というふうに申したわけで、筋の通らない妙なわけの分からないものでもあるわけです。それを鈴木大拙先生は、私が花園会館で伺った「東洋の心」という講演の中で「分かる分からなさ、分からぬ分かるさ」という巧みな表現でその理屈抜きの世界を表されました。また、かつてメキシコで禅と精神分析についての座談会が開催され、その内容の日本語訳が「禅と精神分析」という題名の本になって出ておりますが、そこで「宇宙的無意識」という言葉を鈴木先生が使われ、耳新しく感心させられたものです。そこで先生は、宇宙的無意識は精神分析で言うところの無意識とはまったく異なる種類の無意識であることをはっきり言われ、cosmic unconsciousness と英語で表現されました。つまり、分かることと分からないことが同時に存在しているのです。誰もが分かる姿に整えようと一生懸命筋を通そうとすることをやめて、ぶっつけに、まだ考えもまとまらない、筋の通らない状態の分からなさのままでいる、あるいは一部分かった状態でいるということなのです。

 治癒像とは、これはこうだという「結論」のない状態ですから、それとそれでないものが対立することがありません。例えば、不安と申しますと、すぐ対立概念として安心ということを思い浮かべ、どっちが良いかと言えば、それは安心の方が良いに決まっているということで、そこにとらわれてしまうのです。安心と不安が明確な形をとりますと、恐怖の対象がよりはっきり怖いものに見えてくるということは皆さん方がご経験の通りだと思います。その他、好きと嫌い、そして外の現象では、天気が良いのと悪いのとのように、何かを決めるとそれにすぐとらわれるのは、世間では対立概念という形で物事が捉えられるのが常だからです。

 治癒像は、どのようにも決められないということで、前の院長は「神経症にもなることもでき、治ることもできるのが本治りですよ」と表現しておりました。ということは、決めていない、決められていないということです。ただ、「神経症になる」という表現は「神経症になっている」と言ったほうが好ましいものです。「いる」とか「ある」でしたら、どなたもが満点で、どっちが本当だとか、どっちに向けて努力するべきだというようなことがありません。前の院長はまったく目標を示すことがありませんでしたので、それで治るということは極めて早いわけです。今、何をしなければならないかということを考えて取り掛かるところに、もう早速全治が現れるという、これほど早いものはないというほどの治り方を示しておりました。

 もう少し心が軽くなればとか、この症状がなくなれば、というような気持ちはあるでしょうが、それには手をつけないまま、実生活での仕事に取り掛かって行くというところが非常に肝心で、今日の治癒像の中心になっているものです。「あっ、分かった」とか「この要領だ、ピンときた」というふうにこの問題が解決したと思われたら、いつも答はそれではないというふうにお考えいただければ良いのです。いつもそれではない、あれでもない、それなら何かと探すこともないということです。どこまでも分からなさの中に入っている、入り込んだままでいるということで、難しいことは何もなく、非常に簡単です。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 自分の選択がはたして正しかったのだろうかなどと、将来に不安を感じた時にはどうすれば良いのかというご質問です。

 森田先生がかつて弟子の高良武久先生に「道が二つに分かれた時は困難な方を選べ」とおっしゃったそうです。前の院長は「鉛筆を立てて倒れた方に進みなさい」と申しました。つまり、自分の考えや意志の入らない決め方でその方向をはっきりさせるということを勧めておりました。もうお分かりのように、とにかく答えを出そうと努力するよりも、やり始めてしまうことが大事だからです。
 不安に思える環境には踏み出しにくいものです。そこで安心する道をつい考えることになるのですが、前の院長はこわごわ、びくびくしてやりなさいと申しました。昔、殿様の前で家来が「恐れながら」と言って話をしました。そのまさに恐れながらやって行くということです。

 次のご質問は、心身ともに健康になるためにはどうしたらよろしいか、というものです。

 これには面白いエピソードがあります。1961年に日米合同精神医学会議というものが東京ホテルオークラで開かれた時に、特別講演に招かれた鈴木大拙先生が講演されました。先生は明治の頃からアメリカでの生活が長く、流暢な英語で講演されました。その講演の中で、アメリカ人の聴衆がどっと笑ったのです。というのは、学会前にアメリカの知人から手紙が来て「今回は何とか東京へ行きたいと思ったけれど、心はそちらへ飛んでいるが、体が言うことを聞かないので行けない」というふうに書かれていたと先生が話されたからです。完全に心と体が分かれてしまっています。そんなことを話されて聴衆が笑ったのです。それから先生は、自分とか心とかを考えに置き換えることのない意識、概念化されない意識というものがあることを明確に述べられたのです。それは「禅と精神医学」という題でお話になりまして、悩みは概念化から起こる、考えに置き換えたところから起こるというふうにはっきりとおっしゃったのです。(第431回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成30年1月14日)

 広く世間に森田療法を理解してもらうために、あるいは学問的に明確に規定するために、かつて森田先生がいろいろ説明をされました。それは理論としてはもちろん必要なことでしたが、治療の実際から申しますと、その概念的に決めた事柄はことごとく治療の障害になります。

 そのため、前の院長、宇佐玄雄の講話と日頃の指導は、森田理論、学説を説明して理解してもらおうとするものではありませんでした。むしろまったく理屈抜きに、すぐその場に必要な事柄をとりあえず、いやいや手を出してやりなさい、ということに尽きるものでありました。ですから、他の森田療法の施設で行われていた森田療法との非常にはっきりした違いは、方法や理論的な説明というものが一切ないところであると、今では申し上げることができます。

 そうしますと、宙ぶらりんで頼りなく、元になる根拠がないというふうに思われるでしょうが、組み立てがない、あるいは理論的構成が前もってないという状態が究極のあるがままそのものでありますから、かえって治りが早いのです。

 私がまだ若い頃は、長年悩み苦しんだ神経症はやはりそれなりに時間、年月がかかるだろうと考えておりました。ところがそれは大きな間違いで、前の院長によりますと、まさに治るのは迅速かつ根治的だというのです。その頃の私にはとてもおかしな説明に思えました。ところが、その後、これはもう間違いなくその通りであって、これほど早く見事にきれいに治る治療法はないことを確信しました。

 「これが自分だ」というものはすべて本物ではなく、「これが自分だ」というところからすでに脱線なのです。考えた自分、考えた心、生きるということなど、それを最初から論じると、そこで止まってしまって、決して治ることがない、あるいは悟ることがない、という目のつけ所が前の院長の見方であったわけです。したがって説明を上手にすればするほど脱線してしまう、長くかかる、ということです。迅速根治というのは何かと申しますと、そのいきなりの、ぶっつけの、やにわにこうであるという状況をおいて他にありません。

 精神全体の見方からすれば、人間の知性というものは本来心の外側の仕組みであって、「知性は精神の外部機構」という表現も心理学の教科書にもしっかり記載されており、心の問題をとやかく言うのは脱線です。

 心のことを言う前に、あるいは「これが自分だ」という前にいきなり実際の生活をするということです。森田先生もパッと石を投げてくる人がいたら、サッとそれを上手に避けるというようなことを例として挙げておっしゃっていましたが、自分というものをどう対処するか、と考えるより先に全治の状態がその場で現れているのです。ですから、森田先生が、外へ向けて君はもっとハラハラしたまえ、とよくおっしゃったと聞きますが、それでもう満点なのです。落ち着こうとか、ゆったり構えようとか、気にしないでおこうとか、世間の人が考える心の落ち着いた状態というのは間違いなのです。とにかく外界のこと、外のことに対して敏感に次はどう対応するか、ということを野生動物のように常に構えているという、そこのところでもうすでに全治であるわけです。

 先ほど会場から、症状のことを忘れてしまったというお話が出ましたが、忘れようにも忘れられない、あるいは忘れたくても忘れられないという症状、悩み、自分のことなどは、一種のこだわりで、その事柄に止まってしまっているわけです。忘れてしまえればそれでいいですけれど、そのこだわった状態をどうするか、私が前の院長に質問したところ、こだわったまま行くと申しておりました。

 忘れられない問題を抱えながら悩みながらそのまま行くという、そこのところに、あるがままの意識を持ち込まないという素晴らしさがあるのです。あるがままは言葉にする前の状態ですから、嫌だなあ、何とかしたいなあ、という感情が出て来ても、その段階ですぐ外へ向かっての緊張を高めた行動があるばかりなのです。心に向かって、これを森田療法でどう治したらいいのかというような工夫は一切要りません。かえって脱線します。ですから、こだわったまますぐ次のことをするという瞬間的な生活ぶりが見事な全治であります。

 すべての答えが間違い、あるいはそれでない、あれでもない、これでもない、こうかと言うとそれでもない、とこうなって来ますから、どうしたらいいかとお考えになる必要がもうまったくないわけです。方法を考えたらすべてだめで、あれでもない、これでもないと言っているその事柄からも離れているのです。禅ではこういうもろもろの事柄を否定することを百の否定、百非ひゃっぴと申します。例えば坐禅でしたら、その場で坐るというのが仕事ですから、いろいろ気になりながら、ハラハラしながら坐っているということになるのです。(第430回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成29年11月12日)

 本日は貴重なお話をAさんから聞かせていただきました。大変結構なのは、全治が、こういうふうにしてというのではなく、突然のことだったと言われたことです。全治というのは、皆さん方のお考え、人の言葉、説明などによるものではなく、その時、その時の外への取り組みが突然の全治を実現させるのです。したがって外に向かっての、ハラハラというほどの緊張は、もうそれだけで全治の意識であると言ってよろしいのです。

 前院長は、秋の虫が長い触角を動かしている状態とか、眠っているように見える犬が寝そべっていても、耳だけは周囲の音に敏感に反応しているという見事な対応ぶりが、いきなりの間違いのない全治だと申しておりました。そして人間では自分の状態について、これで良いとか悪いとか、満足できるかどうかとか、自分のことについての考えをさしはさみがちだが、それはまったく無駄である、と続けて言っておりました。実は今年は前院長が亡くなって六十年に当たりますので、少しそういう思い出話をさせていただきました。

 前院長は患者に症状のことを決して言わせませんでした。「生活、仕事、勉強、人のお世話、何でもさっと、どんどんやりなさい」というところが生き生きとしておりまして、治す手間を省くのです。治ったらするというのではないのです。私が病院を引き継いだ時に、三省会で皆さん方に、ご自分の症状の説明をしている間は治りませんよ、と言いましたところ、皆さん方は黙ってしまって会が進みませんでした。そこで、私がまだ小学生の頃に入院されていて、三省会の役員をされていた方が、私たちは自分のことを聞いてもらいたくて来ているのですよ、やはり言わしてもらわないとね、と助言されたのです。そこで、三省会の席上だけはご自分の症状をお話になっても良いということにして、それが今日までずっと引き継がれているのです。

 前院長の治療の風格と言いますのは、学問を断絶する「絶学」と言えばよろしいのです。そのいきさつを申しますと、大正11年に大徳寺の専門道場に入門いたしまして、初めてそこの指導者である川島昭隠老師にご挨拶したところ、老師から「どこの学校を出てきた」と尋ねられたので、前院長が「早稲田大学を出て参りました」と返事するやいなや、「その学校を捨てて来い」と、変わった指示を与えられたのです。これが「絶学」でありまして、前院長はそこから禅の修行を始めたわけです。つまり、より良い判断、解釈をすること、あるいは結論を出すことがまったく要らないのです。

 皆さん方は、今日は良い話を聞いたと思われたら、いつもそれでないというところから出発されれば、全治は間違いありません。いつもそれでないというのは、経験的な判断や結論の出し方をする前に実際の生活をすぐ始めて行くということです。

 皆さん方は自分のあり方、心の問題というのは、これからはまったく取り上げなくてよろしいわけで、これが自分だ、心だというような自己像というものはすべて主観的な虚構に過ぎないのです。ご自分では自己像を絶対確信的にお持ちになっていらっしゃるでしょうが、それをあてにして良い確かなものではありませんので、「これが自分だ」と言っていること自体が脱線なのです。さっそく外の実際の問題に皆さん方が手を出していらっしゃれば、もう全治はそこで十分成り立ちますので、それは突然、意識がパッと外に明るくなるということで、どなたにも始まると言ってよろしいのです。

 では会場からご質問が来ていますので、お答えします。

 質問:森田先生のお話の中に、「感じから始まる」といったお話があったように思いますが、それはどういう意味ですか。

 お答:人間の自己意識には、痛いとか痒いとかの感覚が発生し、また、いろいろな感情も沸き起こります。これらはもうその通りでありまして、どうするというわけには行きません。それで次にすぐ、知性が働いて、その現象をまとめにかかったり、意味づけをする、あるいは価値判断をする、などというふうに組み立てて行くところからが脱線です。
 「感じから始める」と森田先生がおっしゃったのは、実に上手に言っておられます。その感覚から、次はもう実際の仕事での工夫をしていらっしゃれば、他の皆さんのために役立つことがたくさんできます。他人から欲張りな人と言われるのでしたら、そういう他の皆さんのためになることをどんどんなされば、その欲張りは見事なものです。

 質問:絵画作品を見て様々に感じることと、その作品の作者や来歴を知ることとは違いがあるのでしょうか。

 お答:絵というものは、視覚芸術ですから、色と形を見ること以外はあり得ないのです。美というのはそういう感覚的なものでしかあり得ませんので、由来の解釈、価値的な判断、真贋の問題などというものは美とは関係がありません。色と形を皆さん方がご覧になるというところに、その美が自ずから成り立っているということがあるだけなのです。それとは別に美術史として、作品の学問的な取り扱いはもちろんあるわけで、それがいろいろ興味のある事柄として人々の注意を惹くことはまったく別の問題なのです。(第429回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成29年9月10日)

 本日は高いレベルのお話をたくさんしていただきありがとうございました。森田療法のすばらしいところは、あらゆるとらわれから離れた生活がこの瞬間から始まるということです。そのあらゆるとらわれから離れているというのは、まさに森田先生の「あるがまま」なのです。

 皆さん方はそのあるがままを求めたくなりますが、私たちはこうしている瞬間にも、間違いなくすでにそのあるがままの中に浸っているのです。それがどうして長い間治らなかったのかというと、修養熱心であることがあだになり、ご自分の方に修養の努力を向けて来たというその長い歴史によるわけです。

 ですから、他の人にどのようにしてあげたらお役に立つかという、精神作業に重点がかかれば、それは途端にあるがままに他ならないのです。さっそく精神作業、あるいは実際の人助けに着手すればよろしいわけで、心を立て直すとか、ストレスを解消するとか、もっと良い気分になってからとかいう、ご自分の方に良いように努力を少しでも向けますと、もうさっぱりあるがままではなくなってしまうのです。

 そうしますと、他のあらゆる心理療法、精神療法とは異なって、森田療法はあるがままから始まっていると言えるのです。あるがままは決して結果ではありません。いくつもの手段を経てその結果として出て来るものではなく、いつもぶっつけのものですから、もうすでに治っているという全治の状態から皆さん方の生活が今この瞬間から始まると言ってよろしいのです。

 人間の意識というのは同時に二つのことを明るくすることはありません。つまり、皆さん方が何とか治らないだろうかと悩んでいらっしゃる時は、実生活のことには意識が十分行きません。反対に実生活のことに努力していらっしゃる時にはご自分の問題は立ち消えになっているのです。森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」とおっしゃったのは、実生活上しなければならない仕事に対していつも緊張していなさいということで、外のことに対して意識が明るくなっているわけです。

 それでは自分の症状や悩みの解決はできないのではないかと思われるでしょうが、人間の持っている知的能力というものは、まったく外向きの仕組みですので、自分のために役立てようという努力のことごとくがとらわれになってしまいます。皆さん方はこれまでは、自分で描いた自己像を元にして生活をなさって来たかもしれませんが、そういう、頭で考えた自分というものが本物ではないということがはっきりしますと、より良い自分というものを求めることが必要なく、しんどいまま、悩ましいまま、憂鬱なまま、さっそく現実の問題解決に進まれればもうそれが申し分のない立派な全治に他ならないのです。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 質問:会社で上司から頻繁に叱責され、うつ状態になり、不安で仕事がほとんど手につきません。生活を前進させられるようアドバイスをください。

 お答:質問の方は何をやっても間違っているのではないかというふうに思えて不安で仕事が手につかないとおっしゃっているわけですね。よく世間では、自分を否定的にとらえるネガティブな考え方をやめて、ポジティブな考え方で行きましょうと言われますが、そういう、自己像、自己イメージを明るくするとか強くするというふうなことはまったく要りません。私どもはいつでもビクビクで足りるのです。あるがままというのは、その時のまったくぶっつけの意識ですから、先に自分を中から変えてしまおうというのはおかしいのです。
 前の院長が、犬がべたーっと座って休んでいるように見えても、耳だけがパッと動くということをめておりました。つまり一見ゆったりと落ち着いた状態に見えても実はそうではないのです。いつもビクビクで精神作業として緊張しているというところが前の院長の治療上の表現であったわけです。
 皆さん方は森田療法を受けても意識としては何も変わってはいないのですが、いつも気を病んでいるというほどビクビクしていて、そしてここぞとという隙があればパッと必要なことに手を出すという、それくらいいつも外のことに狙いを定めているというふうには変わっています。この油断なく周囲に気を配っているというそれがもう立派な精神作業で、しかもさっそくの今の全治に他なりません。
 そういうことですから、怒られて、何をやっても間違っているのではないかと心の中ではビクビクしながら、その気分を治そう、明るい気持ちにしよう、あるいは間違っていない、大丈夫だと自分に言い聞かせようとすることは治療の本筋からはずれた、自己意識の中の無駄なやり繰りです。ご自分を分かる形、つまり言葉でとらえるということはやめて、それはそのままほったらかしで、ぶっつけのあるがままで今の困難な状況に対処していらっしゃればよろしいのです。(第428回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成29年7月9日)

 森田療法はご存じのように、経験より前、あるいは人から聞いたり人に伝えたりする前のところで全治が成り立ちますので、Aさんの理論を中心としたお話の後、会場からそういう点をご指摘になったというふうに私には思えました。この、人から聞いたということとまったく関係なく全治が成り立っているというのは、そのままがあるがままであり、いきなり実際の今の生活をお始めになれば、もう満点です。それが本物の全治、真実の姿であって、考えた自分、見つめた自分、分かった自分というのは、すべて自己意識であり、それをご自分で扱おうとする限り脱線するしかないというのがこの療法の趣旨です。

 森田療法関連雑誌の7月号の中に、治るとはどういうことかというテーマで、ほとんど一冊様々な方が文章を書かれています。しかし、治るというのは事柄ではないのです。ですから、治るとはこういうことだと言った途端に脱線してしまって、本当のものが体得できないのです。つまり、こういうことだという分かり方の前のところに本物の皆さん方の今日の見事な全治があるのです。すなわち皆さん方は治らずにはいられないのです。

 それでは会場からいくつかご質問が来ていますので、それぞれに対してお答えします。

 質問:日々の生活では症状をそのままにして目の前のことに取り組んでいますが、しばらくするとまた脱線し、症状にとらわれてしまって困っています。何か脱線しない方法をアドバイスしていただけないでしょうか。

 お答:脱線したらしたまま、次の今大事なことを始めてしまうということでよろしいわけです。では、症状にとらわれたらどうしたらいいかと言いますと、そのとらわれた心をとらわれない状態にしたいという気持ちが沸いて出て来るままに、今のとりあえずの仕事をどんどんやって行くのです。それで心の状況がどのようであったにしても、全治は確実に成り立つのです。
 よく世間では、特に宗教家が「心を整える」という言い方をしますが、それはまったく見当はずれなことです。もう少し落ち着くようにしようとか、もっと良い心の在り方に変えようとすることはまったく必要ありません。前の院長が「どんどんやりなさい」と申しましたが、このどんどんというところが値打ちものなのです。とらわれたらとらわれたまま、どんどんやって行くということです。

 質問:お釈迦様の悟りの内容はどういうものだったのでしょうか。

 お答:それは言葉に表す前の皆さん方の今の状態そのものなのです。三聖病院の洗面所の上に長らく「如々真にょにょしん」という額が掛けてありました。これは高野山の町長さんが入院されていた時に、前の院長の講話を聞かれて、その言葉を達筆な字で板に彫刻され、退院の時に置いて行かれたものを掛けてあったものです。この「如々にょにょ」は「そのまま、そのまま」という意味で、これをおいて他に真実というものはないというのが、お釈迦様の悟りなのです。つまり「こういうものが悟りだ」というような、言葉で伝えられるような、あるいは考えに置き換えられるものではなく、このとおりという、まさに「如々にょにょ」そのものなのです。
 会場から「自分らしく生きる」という話をされましたが、考えた自分、これが自分だ、というのは明らかに脱線で、それはどうでもいいことなのです。ですから、自分らしく生きるというのは、お釈迦様の悟りにはまったく関係ないということです。

 質問:今通訳ガイドを目指して実習を受けていますが、外国人観光客に禅について説明する機会が多く、素人の私にそれを説明する資格があるでしょうか。  

 お答:禅はこのとおりという、先程の如々真にょにょしん、お釈迦様の悟りそのものですから、皆さん方が禅の僧堂で修行をなさらないからと言って、真実に生きることができないかというと、まったくそうではなく、どなたも真実の真っ只中にいらっしゃるのです。そのままあるがまま、実際の生活に骨折って、他の皆さんに役立つたくさんのことを欲張って計画されるところに禅本来の大事な点があるわけですから、この方が外国人観光客に禅について説明なさる時は、言葉を使うことなしに、そういう姿そのものをお見せするのが良いかと思います。また、禅のお坊さんのような修行もしないで悟りが開けるものですかと聞かれましたら、言葉で心の変化を説明しがちですが、そうではなく、いきなり生活面に努力されればその場で悟られると答えるのが良いわけです。
 皆さん方がご存じの江戸時代前期のお坊さん、白隠禅師は「衆生しゅじょう本来仏なり」という素晴らしい言葉を残してくださっているのです。それも外国の方々に、言葉を使わない真実のあり方を、それをやむを得ず言葉を使って説明してくだされば結構です。
 全治は経験以前にあるものです。そして人から伝達を受ける以前のところで成り立っているのです。ですから、治るとはどういうことか、という議論からは決して治って来ないわけです。皆さん方におかれましては、寝ても覚めてもいきなりその場で、しっかりとあるがままの真実が成り立っている、ということを改めて申し上げておきます。(第427回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)  



宇佐先生の講話
(平成29年5月14日)

 今日は大変高級なお話をBさんのご体験からお伺いすることができました。あるがままという森田療法の究極のものは思想ではありません。何らかの経験に基づいた考えでもありません。まさにこの通り、という言葉のない世界における事実そのものです。これが森田先生が一番はっきり治療の本質として示されたものです。

 これで良いのだという肯定とか、これではまだいけないという否定とか、皆さんのお考えに対する批評というものは何もありません。即刻、私どもが今直面している現実世界での皆さん方のやり繰りをおいて他にはありません。それを心の問題として取り上げますと、むしろ脱線で、例えば皆さん方が今日この三省会においでいただいてお話を聞いていらっしゃる、この瞬間、瞬間がどなたにおかれましてもまぎれもない全治でいらっしゃるのです。

 三聖病院が閉院になる時に、京都新聞がそれを取り上げて記事にしてくれました。そこに京都大学の新宮一成教授が談話として、精神療法が宗教と関係があることを示す病院であった、という評価を書いておられました。まさにその通りでありまして、三聖病院の森田療法は宗教も踏まえておりまして、それがなかったなら早速の全治ということはあり得ないわけです。自分についての考え、それをこだわりと言ってよろしいのですが、その中に悩みというものをくみ上げ、組み立てられるわけですが、何か理由がある、あるいは根拠があるというあるがままではなく、いきなりのぶっつけのあるがままが究極の状態であるわけです。ですから、ご自分でこの病気をどうしたらいいかと考えていらっしゃった方々にとりましては拍子抜けしてしまうような感じでしょうが、そういう、今まで宗教として考えられてきたものも十分、この森田療法の中に含まれているわけです。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 質問:最近集中して仕事をうまくこなすことができません。上司から休職を勧められましたが、どうすればよいでしょうか。

 お答:ご自分の調子の悪さを中から何とかしようという、自分対自分の努力をさっそくおやめになることです。とりあえず仕方なしにやるべき仕事をやって行くこと、そしてそのやり方の工夫に全力を傾けて行くということです。前院長も、仕方なしに行きなさい、と何とも情けないようなことを申しましたが、これは非常に的確な指導なのです。前院長はまた、全治というものを段階的に考える必要はない、落ちているごみをちょっと拾うこと自体が全治そのもの、と申しておりました。そして精神作業のことをやかましく言っておりました。精神作業とは何かと言いますと、たとえば私がここでこうしてお茶をいただいて感謝をいたしますが、皆さん方も周りを見回して片っ端から感謝することで全治なのです。精神作業で外向きに頭を使っていらっしゃるのはすべてその場で全治でありまして、皆さん方は治らずにはいられないのです。ですから、ご質問の方は仕方なしにやるべき仕事を工夫しながらお勤めになるということで治っているということですから、どうぞそのままお続けください。

 質問:将来のことが不安でたまりません。たとえばもし自分に子供ができたら、その子が神経症になるのではないかという不安があります。

 お答:いろいろああでもない、こうでもないと不安だらけというのは、本当の森田療法では良し悪しがないのです。いつもその時の心でもう充分、ということなのです。子供が神経症になるのではないかという不安があって、そういうことはその時になってみなくては分かりません、という答えを出してはいけません。 前院長は本当の怖がりでいなさい、と申しておりました。不安のままでいなさいということです。同じような苦しみを子供には味あわせたくないというお気持ちを持っておられるのは、親の立場としてはごもっともなことですが、自分あるいは自分の子供に関する内側の問題につきまして、楽観視するべきかあるいは悲観的にとらえるべきかというような、論理的な解釈は一切加えないことです。
 内面の事柄に対して言葉を使わないことです。内側の世界は心理学的に言えば感覚と感情の湧き出るままです。つまり、人間が最も人間らしい、考えを組み立てるという能力は常に外側の事柄が相手で、内側は感覚と感情だけの世界にしておくということです。そこにあるがままの素晴らしさが開けているわけです。大自然というのは一般的には外のことについて使われますが、内側の内発的、自発的に出てくるものもまさに大自然の現われで、禅の大家である鈴木大拙先生の晩年の言葉を使えば「宇宙的無意識」です。
 私は前院長から心の持ち方とか、良い心のあり方とか、心理学的にこれが良いというようなことは一切教えてもらっておりません。つまり心には用事がなかったのです。(第426回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成29年3月12日)

 本日の例会では宇佐先生は講話として、会場の出席者からの質問に一つずつ答えられるという形で進められました。

 質問:三聖病院の作業室に「忍耐」という言葉が掛けてあったと思うのですが、これは世間的な意味ではなく、何か仏教的な教えを意味するものですか。

 お答:このことについては前の院長が、最初は辛抱だ、我慢だと言いますが、実はそうではなく、症状や気になることに対して何もしない、そのままです、と申しておりました。それはただの「あるがまま」ということに他ならないことを申し上げておきます。

 質問:宗教は必要でしょうか。

 お答:宗教がなかったら自分をどうしていいか分からなくなるのです。神経症の症状がまさにそれの最たるものでして、自分の扱い、あるいは心をどうしたらいいかということについて、あらゆる手を尽くしてもうまくいかなくて困り果ててしまうのです。ところが宗教はその答えをまったく必要としない状況で、一瞬にして解決する働きがあるのです。実際の生活ぶりそのものが信仰であります。宗教と言うと世間では、何宗であるとか、何派であるとか、それぞれ説教の内容が違うというように、頭で考えた世界ととらえられがちですが、実際は考えに関係なしの心の状態、変化のままの姿ですから、これはもう一瞬にして言葉なしで解決してしまうのです。

 質問:先輩方のアドバイス通りに実生活をしていく必要のあることは分かっているのですが、いざ行動に移すことができずに困っております。

 お答:これは不安神経症の方ならまさにその通りだと思いますが、今日発表されたAさんのように、大勢の皆さん方から見られている、ということで十分であります。それはまるでテレビドラマに出演して非常な緊張を伴って役をこなしている状況です。それであるがままはひとりでに勝手にできてしまいます。心をどうのこうのと取り上げる必要はまったく要りません。

 質問:私は強迫神経症のせいで気になって字が書けません。誰かとしゃべっていても自分の発言の中身が気になり、内心もやもやでいっぱいになります。そしてそのようなことが不安となって積み重なって眠れなくなります。

 お答:これについては私自身が皆さん方にお話しする時は内心もやもやで、筋を通して話をする余裕もないです。ですから、まったく出たとこ勝負、肝心な表現だけを工夫しながら皆さん方に分かっていただけるように申し上げるということです。内心というのは、心が整っているとか、落ち着いているとか、不安がないとかということを目指す必要はありません。
 また、心の問題では積み重ねというようなことを何もお考えになる必要はありません。雪が降り続いて屋根やひさしが潰れる危険性を考えるのと同じように、不安が積み重なって心が潰れないだろうかと思われがちですが、そういうことは決して起こらず、まったく放っておいたらいいのです。

 質問:メールで送った文字が間違っていないか、送った内容で相手を傷つけたりしないか気になって仕方がないのです。

 お答:私自身も依頼原稿の発送を月一回行っていますが、見直し、書き直し、あとからの追加、変更を何度も繰り返しています。これは読む相手がある場合は特に十分気をつけなければなりません。ですからどんどん文章を書いていらっしゃって、そこに表現の仕方の工夫をさらに加えながら、そこで悩んでいらっしゃればよろしいのです。それを自分の心の中の悩みを解決する方向へ持ち込んではいけません。自己意識の中というのは言葉はまったく無力で守備範囲を超えております。つまり心の中、自分の中に言葉でしっかりしたものを作り上げるという受け止め方をする必要はありません。

 質問:なかなかやる気が起きず困っています。環境を変えた方が良いこともあるのでしょうか。それとも森田療法ではモチベーションさえ要らないということでしょうか。

 お答:この方が今おかれた立場で、最も急がれ、最も必要なこととされている社会的な役割、骨折りをどんどんおやりになることです。その瞬間から、モチベーションがどうのこうのというような問題ではなく、社会的な難問に真剣に取り組んでいらっしゃる姿が他ならない全治の状態ですので、やる気というものを準備する必要はまったくありません。やる気が起こっているかどうか、あるかないかと振り返った瞬間に脱線します。
 前の院長は森田療法の極意として具体的な話をしなかったのですが、ただ一つ、長野市にある善光寺の本堂の床下に「戒壇かいだんめぐり」という真っ暗な曲がりくねった道が作ってありまして、そこに入ったら神経症はいっぺんに治ります、あるいは極意ですと言っておりました。私もそこへ入ってみましたが、一曲り二曲りしたら本当の真っ暗でした。手探り足探りで進むしかありません。つまり賢い見当づけというもののまったくなしに、ただその状況を打開する骨折りがあるばかりなのです。(第425回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成29年1月8日)

 本日は新年の例会にふさわしく、皆さん方は非常に重要な事柄について言葉を工夫し、角度を変え取り上げていただき、大変うれしく思っております。皆さん方は今日どなたもが治らずに帰ることはできないことを申し上げる次第です。

 森田療法は説明を聞いて「分かりました」では本物とは言えません。なぜなら「分かる」という言葉は、「分からない」に相対し、そっちの考えよりこっちの考えの方が良い、というような議論がどうしてもつきまとってしまうからです。自己意識内(自分についてどう思うか、または他人が自分をどう見ているかという事柄)が、言葉という、自分を表現するのにはまったく不向きな手段を使って議論されると、自分の姿というものはことごとく虚構に過ぎなくなります。つまり自分で見た自分というものはまったく本物ではないということです。知性というものはあくまでも外向きに役立つ仕組みであって、自分を説明するということは、言葉の本来の働きからは脱線しているのです。

 ですから、言葉を外の事柄について使うことは大いに結構ですが、自分自身について、分かったとか分からないとか、これが自分だとか、違うとかいうような、言葉によるやり繰りはまったく無意味で、全治とは関係なく、きっぱりやめてしまってもいいものです。全治はどのようなものにも関係のないあり方で、ぶっつけに突然、今、このままにある状態をおいて他にはありません。どなたもがあるがままの外に出るということはできません。いつもあるがままの真っただ中にいらっしゃって、言葉を使って説明なさるより先にあるがままでいらっしゃるのです。これが全治の瞬間的な成立の特徴であります。

 今日のBさんのお話を聞きまして、いろんなお仕事に取り組まれると、こんなにたくさんのことをなさる方に変われるのかというぐらいに活動的でいらっしゃいます。大変重い責任を負いながらどんどん前進して行かれる姿は、それまでとはまったく目のつけ所が変わって、ことごとく自己意識ではなく、他者意識(外向きの意識)の中に目が開けて仕事を追いかけて行かれるというものです。これはかつての「治したい」という欲張りが大きく変化したものと言うこともできます。

 森田先生の「努力即幸福」という言葉がありますが、Bさんは、努力すれば幸福になるというのではなく努力しているその瞬間、瞬間が幸福なのだというお話をしてくださいました。私が瞬間的全治という話をいたしますが、これがいかにも奇をてらうようで突飛な話のように聞こえますが、森田先生の「努力即幸福」は瞬間的な幸福の成立を言っておられるので、同じことなのです。ですから、世間の人が、だんだん治って行くというような段階的な治り方を想定していらっしゃるのは、自己意識の内容を人間の知性で情報化して、こうすればこうなって行くに違いないという知的な心の探求ですので、森田療法からすると大きな間違いで、その情報のやり繰りで良い結末を招くことはあり得ません。

 世間では自分を情報化する材料として、外の情報を仕入れて来ていろいろ勉強される方が多いです。勉強というものは外向きの、例えば、仕事上、学問上でされるのは良いことですが、ご自分にとってという形でそれを応用しよう、自分に役立てようとなさると、その情報はまったく役立たないばかりかご自分を抜き差しならない状態へ導いてしまいます。勉強しただけ苦しみが増すというようなものであって、これが自分だ、これが心だ、これが症状だという種類の、内面的に組み立て構造化し、論理化して確かなものを作り上げようとすることは今日以降なさる必要はありません。

 会場から「恐怖突入」と「そのまま前進」は同じような意味ですかというご質問がありました。「恐怖突入」という言葉は森田先生の論文の中に「(恐怖症に)悩んでいる人を恐怖に突入せしめて」という文章がありまして、森田療法の理論学習で治すという立場の人たちがそれを大きく取り上げて、金科玉条きんかぎょくじょうのように使ったのです。ところが、森田先生から直接指導を受けられた鈴木知準先生がこれは森田先生の間違いであると、学会ではっきり発表され大きな反響を呼びました。つまり「恐怖突入」という言葉は使うべきものではなく、突入するのはその恐怖を起こさせる仕事の方なのです。恐怖を対象にして自分の怖さに突入するというように、怖さを引き起こす状態に突入するのが大事だとお思いでしたら、大間違いで、これは三聖病院ではまったく使わなかった言葉です。前の院長は「こわごわ、恐る恐る、ビクビクしながらやって行きなさい。本当の怖がりでいなさい」と言っておりました。

 「そのまま前進」は自分についてまったく概念化しない、恐怖という言葉も使わない、つまり考えに置き換えない具体的な行動をするということです。目の前のしなければならない、人に役立つ仕事に手を出した瞬間が全治そのものなのです。(第424回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



宇佐先生の講話
(平成28年11月13日)

 肝心な事柄は、皆さん方がなるほどそうかと了解されることが実は邪魔になっていることです。本物というのは、こうしたからこうなるというようなことから離れて、まったく論理、理屈のない、概念化されない、自分を振り返ることのない、今この瞬間の現実生活に対処している姿そのものなのです。そのことが皆さん方のお話の中によく伺われたことが大いにうれしく存じます。

 前の院長、宇佐玄雄が自慢にしていたのは、森田療法を受けられた人の方が、禅の修行僧よりもちゃんとした本物が身につくということです。森田療法の方が十分大事なものが身につくことを保証しておりました。それは何かと言いますと、ただ “理屈抜き”ということです。

 つまり、これが自分の症状だとか、これが自分の状態だとか、自分を対象にして、考える自分と考えられる自分という二分した描き方、これは昨今の心理療法や精神療法によくあるものですが、それらはことごとく具合の悪いもので、皆さん方はご自分を対象化する前のところですでに立派に治っていらっしゃるのですと、前の院長はよく言っておりました。

 それから今日是非とも申し上げたいことですですが、この前の9月の例会で体験発表されたBさんと、今日発表されたAさんとで全治の状態で違いがあるかと言いますと、まったく同じなのです。日常経験という点では、もちろん年上のBさんの方が長いかもしれませんが、森田療法では経験の長い短い、多い少ない、浅い深いとかにまったく関係なくどなたもが同じでいらっしゃるということです。

 一般の人は、一人一人の人間が同じ意識でいるということは、絶対にあり得ないと考えます。それはあくまでも物事に対する考えのことで、それは当然のことなのですが、それとはまったく別にどなたもが異なることのないものが、分かる前の意識です。それが働いて、今日初めて森田療法のことを聞く方もBさんと同様に全治なさるわけです。その質、内容に良し悪しがあるわけではまったくありません。

 分かる前の意識というものは、経験を超える、あるいは体験を超える、言い換えればさらに歴史を超えるというふうに申してもよろしいことです。ところが、このようにしてやっとこの境地に到達したというのは、まだまだ不十分なのです。世間一般では目標として到達すべき境地というものがあるように思われていますが、実はそれを極めて行こうという段階的な努力よりも前に、ぶっつけに今のこの状態で、もうそれは立派にどなたにも現れているのです。治す前に全治の状態がいつもそこに現れていますので、森田療法ほど早いよい治り方をする治療はありません。

 経験を超えるというのは、今に始まったことではありません。鎌倉時代の終わり頃、京都の大徳寺の開山である大燈国師というお坊さんが「不伝ふでん妙道みょうどう」という言葉を残しています。不伝ふでん妙道みょうどうとは、伝わらない、あるいは伝えられないものを伝えることについて、理解することのまったくない、「無理会むりえのところに向かってきわめ来たりきわめ去るべし」と言い残しているのです。

 私は最初は受け取り方が間違っておりまして、分からないからそれが分かるまでしっかり努力せよと言っているのかと思っておりました。しかしそうではなく、初めから分からなさに向かってどこまでも突っ込んで行きなさいということなのです。皆さん方にはおなじみの「知らなさ、分からなさ、決められなさ」です。説明もできない、つかむこともできない、伝えることもできない、そのままどこまでも分からないままです。この分からなさの真っ只中がいつも全治でありまして、森田先生が「僕の療法は不問療法だ」と言われて、今日の森田療法のようなああいう詳しい説明をまったくされなかったのです。「僕の言うことは信じなくてよろしい。ただ言われたことを実行しなさい」とおっしゃったのは実にすばらしいことで、分かってから実行しなさい、ではないのです。

 会場から「症状やその他気になっていることをそのままにしていると、脳の中で何かがつぶれていく感覚が起こるのですが、これは私だけに起こる特殊なものでしょうか」という質問がありました。この自分で見た自分というのは、まったくお一人お一人違っておりまして、これをそのまま味わうということで瞬間的に治ります。「私だけでしょうか」と尋ねられるということは、一般的にはどうなのかということを気にしておられ、器質的な病気と同じように考えておられるわけで、これを治療しようとすると結局だめになってしまいます。神経症というのは病気ではないのです。自分にとってはこれほど辛い、苦しいものはないとお考えでしょうが、まったく虚構のものなのです。 

 つまり、自分の中に引き起こされた状態を、考えた理想的な自分というものの方向へ向かって熱心に努力するという、まじめで良心的な人間的素質をお持ちになった方々だけに起こる架空の、病気のような状態に過ぎないのです。ですからこれを一般化なさらずに、それぞれの方の独特な感じを味わわれ、とにかく症状には負けていくのです。どこまでも精神内界の事実に無条件降伏なのです。(第423回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)







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