三省会

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宇佐晋一先生 講話


縄文時代を駆け抜ける

 縄文土器など縁がなかったが、昭和14年(1939)中学1年の初めての勤労奉仕に橿原神宮公苑の造成工事に行くと、ザクザクと土器が出ていた。翌年の紀元2600年(1940)記念事業としての工事に行ったので、土器などお構いなしだった。(後で知ったのだが縄文時代を草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けた場合の晩期の中頃に該当するのもであった。)

 昭和22年(1947)京大医学部のなかも畑が作られていた。私は何気なく小児科病棟の南側の畑で縄文時代の磨製石斧の折れたのを見つけて、文学部考古学教室へ持っていったら、小林行雄先生が立ち上がり「本学医学部で、磨製石斧出土」と声高に叫ばれ、にわかに色めきだって、ぞろぞろとついてこられたが、土器などは見つからなかった。近年京大が作った縄文人の京都での活動範囲を示す地図を見せてもらったが、私の報告の地点は範囲外で、記されていなくて、指摘しておいた。それで少し南西に拡がった事になる。

 今春、京大総合博物館で「比叡山麓の縄文の世界」という特別展が開催されている。私の学生の頃に比べて、広く一乗寺から吉田まで調査が行われている。主に京大の構内に一致しているのは、事前調査による発見から調査まで考古学的な眼が行き届いていたことによる。しかし古くは江戸時代に藤貞幹がその著『好古目録』に「岡崎村出土の土器」として中期の縄文土器の口縁部の図を載せているのは周知の事実であって、吉田にとどまらず、南へは岡崎に及んでいたのである。

 比叡山から大文字山までの間の約6kmの地域は低くなっているが、古生代から中生代にはチャート(珪岩)に取り巻かれていた。中生代後半の白亜紀に新たにマグマがせり上がってきて地下で冷えて花崗岩となり、上の土砂が押し流されて露出した花崗岩が砕けて白川水系に流され、美しい砂地の扇状地ができた。この上に縄文草創期(京都市側では約10000年前)から連綿と縄文文化が花開いたのである。私は一乗寺里の前遺跡調査に参加した。

 比叡山東麓(滋賀県側)では石山寺門前の駐車場の石山貝塚が断然古く草創期(西側より古く約11000前)から始まり、早期が主体である。

 1950年夏に応援に行った時は約12m四方が約2m掘り下げられていて、深い所まで一面真白な瀬田しじみの層であった。縄文人が数百年間食べた跡である。そこにちらほらと出てくる土器の小片は皆東海地方の編年表に照らして呼び分けられていた。それはまだ近畿では草創期や早期の標準遺跡による編年表ができていなかったためである。

 その次に滋賀里遺跡の調査にその開始から手伝った。こちらは晩期の中頃のものであった。

 こうして縄文人の捨てた土器や石器を通じて、彼らの生活にかかわってきたので、縄文文化の父と呼ばれる東大の山内清男先生を乗せて京の街を走ったり、拙宅の伊賀市の土器をご覧いただいたりするようになった。上記のこれらが身をもって縄文の歴史のなかに生きるということであった。


   2024.4.10



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