三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


他者意識に生きていく 

 皆さん方の体験からにじみ出る良いお話を承りまして誠にうれしゅうございます。三聖病院が平成27年3月を持ちましてなくなりましたものですから、入院森田療法の重要な絶対臥褥期間がありません。そのために患者さんはご自分の症状をなくすために、役に立ちそうな本を読んだり、他人に聞いたりと動き回ってしまわれるのです。それが治りにくくしている一つの原因です。東京で森田療法をされていた鈴木知準先生は10代の頃に森田先生のところに入院しましたが、先生からも奥様からもまったくほったらかしにされて、やむを得ず寝ているというような状況でありました。一週間、森田先生は一度もお顔を見せられなかった、と言っておられました。完全に一人ぼっちで寝ているだけだというのは非常に貴重な体験です。それが私どもからしますと、もう、全治の状態なのです。その場で必要なことをしているというのは、すでに立派な全治でありまして、治すことを目的にあれこれ工夫するとことごとく失敗します。

 第2期に入りますと、植物や動物、その他いろんな無生物でもいいのですが、それを詳しく観察するというのは明らかに自分を見ずに外のものを見ているわけです。私どもはそういう外向きのことに意識が始まるというのが治療上欠くことのできないことと見ております。

 私は、今日もご出席のY先生の三聖病院でのご研究に刺激されて、自己意識というものが自分に役立つものなのかということを私の前半生に関して追究しましたところ、はっきり申し上げて、これが自分だ、これが心だ、これが人生だ、というものは成立しないということが分かりました。それで、皆さん方の外にある、人、物、事柄つまり他者意識から始めていらっしゃれば、いつもかもどこにいらっしゃってもことごとく全治であるのです。他者意識の中に生きて行くというのは非常に重要なのです。

 前の院長はちり紙一枚折っても治る、鉛筆一本削っても治ると申しました。これはどうも安っぽく聞こえるかもしれませんが、まさにインスタントに全治するということです。それはまぎれもなく他者意識での行動であったわけです。

 このお正月に2回にわたってNHK教育テレビで10人のお寺のお坊さんの説教を聞く番組がありました。全部聞かせてもらったのですが、ほとんど自己意識の内容でした。自己意識を問題にして解決しようとしておられます。その中にお一人だけ他人に対して7つのサービスができるとおっしゃいました。たとえば、皆さん方全員マスクを着けていますが、まずげん布施と和顔わげん布施と言って、マスクを着けていても目だけで人の心を和ませるような表情ができますよ、と言われました。そういう内容を一生懸命語っておられました。他者意識の世界を強調されたのです。

 つまり端的に申しますと、森田療法では皆さん方は今すぐ他者意識の中に生きていらっしゃるだけでもう全治なのです。禅とどういう関係があるかというような論理的な思想的な考えというのは持ち込まなくてもよろしいのです。

 1952年に鈴木大拙博士がアメリカから精神分析の学者であるカレン・ホーナイさんを連れて来日された折に、私の父、宇佐玄雄が京都ホテルに招かれて対談を致しました。その時にホーナイさんが父に「森田療法と禅とはどんな関係があるのですか」と学者らしい質問をされました。それに対して父はとっさに「何の関係もありません」と答えたのです。父はあとで私に「関係あります、禅そのものです」と答えておけば良かったと言っておりました。内容的には禅と深くつながるものを持っておりますが、森田療法は精神療法として、森田先生がご自分で工夫されたものですから、とっさには「関係ありません」と答えたのだと思います。

 そして先ほどからお話に出ておりますように、平田精耕老師が三聖病院に来られた折に「森田療法はどういうものですか」とお尋ねになり、私が「安心、不安に関係なく、必要なことをする療法です」と答えたところ、老師は「禅と同じことだ、ただし禅は言葉を使わずにやる」とおっしゃいました。そして「禅を花にたとえれば森田療法は造花である」と厳しく批判されたのです。それで私としては一切、自己意識内容につきましては、知らなさ、分からなさ、決められなさ、というように、徹底して言葉を持ち込まないあり方を森田療法の主軸にして、大勢の皆さん方にこういうふうに良くなっていただいたのです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 「森田療法と宗教あるいは信仰は両立するのかをお教えください」というご質問です。

 私は宗教がなぜ必要なのかということを今日発表されたAさんがお話の中で取り上げられた本の中に書いております。それは自己中心性を打破するからです。一切、自己意識内容を取り上げないという点が宗教の良いところです。それはどの宗教、宗派でも同じことで、例えば仏教では、南無阿弥陀仏というのは自己意識に向きかける心を阿弥陀あみださんのほうへぱっと向けます。南無というのはすっかりおまかせする、どうぞよろしくお願いしますという、心を外向きにする巧みな唱えごとです。阿弥陀さんにすっかりおまかせするということから始まって、生活が常に進んで行きましたら、それはもう間違いなく全治です。「両立するのか」というと、根本的に宗教の大事なものを森田療法では皆さん方はすでに身に着けていらっしゃる、ということでお分かりになります。

 次は、私自身が死ということについてどのように考えていますか、というご質問です。

 私は4年半前にガンを宣告されて少なからずショックを受けました。それから私は治療上こうしなさいと言われるとおりにやり、検査成績が非常に良くなり、今ではガンであることを忘れて活動しております。
 生と死とを区別して、生きている建前で死をどうとらえるかということは、まったく答えの要らない事柄です。かつて三聖病院に入院された皆さんが、就寝時に木槌で打ってお知らせするための木板がありました。そこには「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人」と書かれてありました。おそらく中国の僧堂に書いてあったものを引用したものだと思います。三聖病院に高校生の時に入院していた方がそれを「生死のことは一大事、移り変わりが速いので、皆、しっかり目を覚ましなまけていてはいけないぞ」と非常に分かりやすく訳されました。生が死よりも良いということではなく、生も死もどちらも同じように見ているのです。そして現実の生活によく骨折って尽くしなさいということを勧めているのです。

   2022.1.9 



目次