三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


鳥のさえずりを聞いている 



 はい、今晩は、どうもお待たせをいたしました。

 講話を聴いてからその効果が出てくるのは、少なくとも1時間ぐらいして後であろうと、そういうふうに合理的にお考えになっている方に申し上げますけれども、ですね、心の問題は横から心理学者が、もちろん心の科学としての心理学ですから客観的にとらえて論じてはおりますけれども、ここで問題になってるのは、すべてどなたも自分対自分の問題ですからこの世界だけは別なんですね。ですからいくら皆さんが心理学さらには精神医学を勉強されましても、それが専門家でないからという理由でなしに、学と名のつくものは、どの学問でもそれを持ち込んで自分を楽にするとか治すとかですねえ、いい状態、あるいは健康にしようという目的でお使いになりますかぎり、ですね、これはうまくいきませんのです。

 神経症が非常に治りにくいというのは、説明は外から客観的に上手にしてもらえて、いかにももっともだと思われる話もあるでしょうけれども、ところが自分を考えの中にとらえて、それにやり繰り工夫を加えるという形では、これはもうほんとのこと申しますと絶対にそこから先は治らないので、治った治ったというてるのは本治りではありませんのです。

 この「自分の問題を自分で解決し」というところで脱線してしまいますから、ですね、その目的は残念ながら達せられないのです。自助っていうのは、自ら助けると書きます。それは欧米のセルフ(self)そしてヘルプ(help)ですね、自分、マイセルフ(myself)のそれ、自分ですね、そして助けるセルフヘルピング(self-helping)という、その言葉の訳でありまして、ですね、聞くからにいい話のように思えますけれども、自分を先に「こういう自分だ」というふうにもうきめているわけで、それを危なっかしいから、あるいはつらいから助けるというのも自分であってみれば、ですね、その自助という言葉にもうすでに土台救いがたい矛盾が含まれているんですね。

 ですから、治す努力に皆さん方が人一倍ご熱心であるのはよくわかりますけれども、そのためにこの問題を離れようにも離れられない。という構造は、ですね、どんなにいい、もっともらしい方法を思いつかれ、また人から教わられたにいたしましても、そこの先に、ですね、まっ、例えばテーブルでいいますと、ここでテーブル終わりですけれども、これ、ずうーっと延長したらその先にいい場所がある。つまりこう行けば治る。というふうなことではないのでして、早々と今晩、今にもそれをおやめになって、そして他人である私の、いや、私でなくても鳥の声でも、ですね、そのさえずりをお聞きになりますと、もうそれで満点と、こうなるんですね。

 いや不思議な、だれもわからないんですけれども、奈良時代に大陸から舞楽というものが伝わってきて、雅楽の演奏、これはよくお聴きになりますでしょう。それによって踊ります。舞いますですねえ。その時に陵王、正しくは蘭陵王という4世紀の中国の武将、蘭陵王 長恭をモデルにした舞があるんですねえ。これはもうほんとに余談のようですけれども、この武将は顔がやさ男で、ですね、ようするに無骨な、強そうな、怖そうな顔をしていなかったんですね。敵にあなどられるといけないと思って怖い面をつけていた、その面が龍の面であったというふうに伝えられているんですねえ。その面をつけて舞いますからこれを蘭陵王の舞という。日本では多く蘭を省いて陵王という名前で呼ばれております。ところがその途中でですねえ、ぱっとその雅楽がやむ。とたんにその舞っている人は、伴奏なしで踊るだけになるんですねえ。「あれなんや」と、その連れて行ってもらった友だちに聞きましたら、「あれはさえずりです」と、こういうんですねえ。さえずりって、鳥が囀る。こんな字を書きますけど鳥が鳴いてるならわかります。人もなんか歌ってるならわかりますけども全然それがない。と、しばらくそんなんが続きますと急にまた伴奏がはじまって、その音楽に合わせて舞を続けていくというような中に不思議な、そうですねえ2、3分の時間があるんです。これはその、確かにもとは中国語でなんか言葉をいう部分があったんだろうと、想像ですけど。ところがそれが外国語ですからまともに伝えられなくて、いつしか忘れられ、それでもう省いてしまったんだろうというのが、雅楽も舞楽もよくわかっている友人の、私に教えてくれた想像論なんですねえ。ただ想像ですから当たってないかもしれませんけれども、このてんという字を書いてる以上は、やっぱり言葉があったんだろうと、ですね。

 で、余談ですが、そういうふうに外の問題について皆さんがお考えになる、あるいはご覧になるという、もう見ているだけで、聞いてるでけで、それが音がなく、しーんとしているものでありましょうとも、外のものが対象になっているという以上は、そこに同時に自分に向かう意識というものは成り立ちませんですね。

 基本的に意識は自己意識、自分対自分、ここで問題になってるのは皆それです。それと外のものを意識する他者意識と同時に成り立つことはありませんのです。そんなばかなことはないと。皆さん始終、自分のことを考えたり、外のこと、作業を考えたり、また症状を考えたりしておられますから、同時に考えてるように思っておられますでしょうけれども、ほんとは同時には、そこに思い浮かばないんですね。ですから、それは例えばテレビのニュースで、全体でいうたらどうですか、只今お知らせするニュースの10項目を、といいながら、ずらっと朝非常に早いニュースでは、そういうことやりますですねえ。10項目、それがころころころころかわっていくというのを、けっこう意識が戸惑うことなく受け入れて、見たり聞いたりしますのは、ですね、意識が切りかわったら、前のはもう飛んでしまうわけですねえ。皆さんがチャンネルをかえられるのもそうですね。前のが残ってたら大変なことで、ごっちゃごちゃになるところを、ぱっ、ぱっ、ぱっと切りかえて、それがうまくいきますのは、意識っていうものは今のに限られるんですね。

 ということで、もうおわかりのように作業一筋でもうよろしいんですね。で、健康人としてのふりをすると前の院長はいい、また森田先生が1934年、昭和9年に「健康人として扱えば容易に治るのであります」と、こう古い録音でおっしゃってるのは、ですね、そういうふうに、けっして「自分はこうです」いいかえれば「たいへんつらい思いをしている人間です」という表明、あるいは表現、行動様式、そういうものを絶対してはいけません。ということなんですね。ですからどこまでも、その場その場に世間の人以上に素晴らしい社会人としての働きを発揮なさるということが、それこそ第3期、第4期の大事な皆さん方のここでの課題なんですね。

 今日、よその先生からの注文で、ですね、10日間でしてほしい。私とこは40日、皆さんにもそう申し上げてますですねえ。それに10日間という期間限定というと、まっ、皆さんお笑いになる。ようするに限定してある。その下請けといった、まるでそういう感じでお引き受けしたのが、今日おめでたく退院されました方なんですね。それは皆さん方でもそうですわ、40日が普通なら自分は20日でとおっしゃりたいでしょう。それは絶対無理なことはない。前の院長は、せいぜい短くしてどんなもんかという話をしてました時に、まず20日間であるというふうに申しておりましたです。ところが10日間という、その先生のご依頼で引き受けたと。それはどこがどうよくてどう足りないのか、といいますと、すぐ現実生活に復帰していただくという点でよろしいんですねえ。これで10日たって家に帰ってちょっと3日ぐらい一服してそれからお仕事に、というふうな段取りを、その向こうの先生がお考えになったらこれは具合が悪いです。

 皆さん方も退院して2、3日ちょっと家でゆっくりして、というのは、これは体の病気の場合は、ごく当たり前のことですけれども、この論理の異なる神経症の場合は、けっしてそうやってはいけませんのですね。つまり自分っていうもののあり方を、ちょっとこの2日、3日で調整する。つまり社会生活へ向けて、病院での入院生活との間に少しその移行する、移り変わる期間というものを設けたらいいんじゃないかというのは常識的ですね。ところが心の問題の解決には一切、常識的なものが入ったらいけませんので、それは、まっ、難しいといえば、皆さん優秀な方々のですね、社会常識としては立派にお持ちになっていることが役立たない、心の問題の解決に戸惑われるところであるんですね。ですから、はじめからもう心の問題は常識的でない扱いというふうにされたら、とても今後はうまくいきます。

 つまり、ちょっとその自分で考えてからにします、といわれますねえ。まるで心に相談するようなおっしゃりようの方もおられますね。「ちょっと考えます」と、あれはいけませんですね。自分で自分の計画を立てる。外の計画はいいんですけども、自分の心の整理をする、などという種類の計画は、必ず合理的なやり方に決まっておりますから、これはうまくいきませんです。で、皆さんはもうなにが難しいかといって、ですねえ、合理的でない考え方をなさることぐらい、どなたにとっても難しいものはないのです。これは日曜日の三省会に特に申し上げたいと、この間から考えているところですが、まっ、皆さん方には、ちょっと先に今日申し上げたいんですね。

 つまりどうしようかっていうところに出てくる答えは、頭の働きというのは合理的に判断するに決まってますから、これはこうしたらこうなるだろうという予測のもとに、今しなければならない心のあり方の調整などをお考えになるでしょう。ところが外の問題は十分計画を立ててお考えになって、これまでの経験を、また人のやってこられた経験も聞かしてもらって、ですね、そこに今までの学びとられたものを理論化して、「そんなつもりはありません」とおっしゃっても、しておられることは皆んな大なり小なり理論化して、その筋道に従ってやっておられるんで、つまり、こうすればこうなるっていうことで、もうなんでもがうまくいってますでしょう、作業がそうですね。こうしたら失敗するはずだっていうことは避けておられる。こうすればこうなる。ところが心の問題は、一切それを入れたらいかんのですね。こうすれば治るというのがもう絶対いかんわけですから、そういうふうにして合理的に、納得のいく、わかる話を作ったんでは心の問題は処理できません。完全に解決はできませんですね。

 で、皆さん方それに納得なさらず、「どうしてですか」と、そういうふうに聞かれます。それはそうですねえ、ほかの世界、世間、この世のことはすべて科学的に皆さんが判断なさって間違いなかったんですね。その科学でもなおわからないことが多々ある。というふうな中でも、身の回りのことは全部よくわかっておられるはずであるんですね。ところが中、一度ひとたび心の問題となりますと、その方式ではうまくいかなかったというところに、この神経症ならびに悩み一般、どれもこれもがですね、そう簡単に解けないなあという難しい問題が拡がってくるんですね。難しいというのは、やり方によってはもうちょっとましな結果が出るだろうという予測を生みますから、これは表現としては好ましくないんですね。むしろそれは全部失敗に終わります。というのが、ここで皆さんに常々申し上げていますところで、その失敗に気が付かないのは世間の人々、あるいはこれまでの歴史上の人々でありまして、ですね、どうしてその考えと自分が脱線するのかっていうことを、いろいろはっきりさせる方法があるわけです。

 一つには、ですね、皆さんは優秀な頭脳で、頭でご自分を考えておられますのは、ですね、考えてる方の自分は全然意識にのぼらない、ですね、このように自分は見える、あるいはおもえるっていうことですね。考えてる方、見てる方のほうがよっぽど複雑で、部分的にいって大きいかもしれないですね。見えた自分というのは、ほんの小さいものかもしれないのですけども、見てる方がわからないんですね。そういう点で見逃しがあってなおわからない。前の院長は、自分はこうおもっている。自分のことは自分が一番よく知っている。とこうおもいがちですが、他人が見た自分の方がよっぽど正しいです。と、確かですということですねえ。他人が見てくれている、つまり客観的な捉え方の方がよっぽど確かだと、いうたことがあります。それは皆さん方の全体、お人柄全体を他人は見ているんですね。ご自分では半分見ている、半分っていうのは、そんな2分の1というわけではないんですが、見えている自分だけ、おもってる自分だけを自分というていらっしゃるに過ぎないですね。そういう部分的なものを見て他の部分を見逃してしまっている。こういうことですねえ。

 2番目に、ご自分の説明をなさるのは主として日本語です。それはもちろん英語でも中国語でもいいんですけどねえ。

 この間もう全然、私わからない話がありましてですねえ、中華人民共和国の3分の2は日本語です。と、これ皆さんそんなおかしなことはないと思われるでしょう。私もなんぼ考えてもわからんですね。中華人民共和国の3分の2は日本語です。なんのことやろうと。その番組が終わるまで、まっ、結局答えが出るんですけど、答えが出るまで全然わからなかったと。もう先に申し上げればですねえ。中華っていうことは中国の、当然中国の人が考えた思想から出てきた言葉なんですね。これはもう間違いない。それが3分の1である。あとの3分の2は人民と共和国ですねえ。人民というのは、中国語になかった言葉を江戸時代の終わりから明治にかけましてですねえ、中国の漢字を学びながら日本人が、ヨーロッパの本を訳すのにいろんな新しい漢語、つまり漢字を使った言葉をつくり出したというんですね。その中に人民という日本製の言葉があって、さらに共和国、リパブリック(Republic)というのは、それも、ですね、全然その中国語になかったのを日本人が大急ぎでつくったというんですね。それを使って便利であるということから今度は中国の人がそれを受け入れて、ですね、まあいうたら逆輸入、そしてそれを今度はまた便利だというて使っているという、向こうが、そうすると、この3分の2は日本語ですというのは、日本製の中国語です、という意味ですね、それでやっとわかりました。そういうのはもう多々あるんですね、科学とか、哲学とかね。ちょうどその日に新聞の下の新刊の本がずらっと並んでるところに、幕末から明治にかけての日本でつくった漢語の本が出てましてですねえ、2万何千円というそんなちょっとした言葉にそれだけの本の内容が盛り込まれる、内容としてもそれだけあるだろうかと思いますねえ。ところが、なんとそのテレビの時間で、千、1千語を超えるというんですねえ。日本製の中国語が、漢語がですねえ、いやもの凄いもんですねえ。西にし あまねとかね、郵政事業をやった西 周。それからねえ、この1万円札の彼ですとかですねえ、それからもう一人いましたねえ。まあそういう面々が中国語をもとにして新しい訳語をつくったという、まっ、その話をちょっと皆さんにも申し上げておこうと思ったんです。

 で、そういうふうにこう、文字に置き換えた皆さんご自身であるんですね。ところがそれは限りがありますから、ですねえ、日本語、中国語、漢字でも到底いいきれない、表現しえないものは、皆さんは英語とかフランス語などをお使いになりますし、補って上手に表現しておられますけれども、それは言葉に置き換えられた皆さん方であると、つまり曰く言い難しというほど、その言葉としての皆さん方は、隅々、つまり完全に細かいところまでは言語化、つまり言葉に表すことはできません、とですね。

 それから3番目に、どうしてもその、言葉、何語によらず、ですね、記号でありますから、きめる働きをもっているんですねえ。そうしますと、心のように流動的で、ほんといえば一瞬たりとも一定の形をとり得ない意識内容を言葉できめていること自体がおかしい。つまり正しくない。正確でない。言葉で限定するということの脱線。つまり本物でない。

 そして皆さん方は、もっと遡って言葉そのものではありませんですねえ。もっと生き生きした生命体として、あっ、いつもいいお花をありがとうございます。このぱっとご覧になればですねえ、言葉によらず、考えによらずこれが、かくも生き生きと見えるんですねえ。このほうをご覧になるだけで目がこれの美をつくり出す。言葉はあとからついてくるんですねえ。皆さんが生まれたてでいらっしゃった赤ちゃんのころ、言葉なしの生活が、もうずいぶん長いこと続くわけですね。認識という、つまりこれがお母さん。というようなことは認識しますけども、それはチンパンジーの認識と同じであるわけですね。つまり言語化していない、そういう生き生きしたもの、それは目の働きによく現れておりまして、ですね、言葉なしの人間の生活が、日本では古墳時代は間違いなくそうです。ですから縄文、弥生の昔はもちろんのこと、とにかく文字が今問題になりますのは、古墳時代の中での特殊な人々に用いられたかどうか、そこのところでありまして、ですね、はっきりと文字で書かれた資料が出てくのはもう7世紀に入ってからですからねえ。まっ、とにかく、そういう私たちはもう言葉、文字あるいは考えではない。もっと生き生きした生命的なものをいつも持っている。目のように、ということですねえ、4番目。

 で、5番目に、ですねえ、思い込みのない自分の見方はないわけです。これは普通、主観的といわれて、じゃあ客観的なのはいいかと、これが当てにならないのですねえ。自分を客観的に見ることが、せいぜいできたとしても主観のないことはまぬがれない。主観というものは、どこまでも入り込むんですねえ。ですから自分で自分のことをいうている人ほど当てにならんものはないんです、本当は。そうすると「こんなに苦しい」「こんなに辛い」という、あれはそれだけのものがあるのかというと、それもあやしい。「痛い、痛い」という人よりも、ですね、「痛い、痛い、痛い」という人の方が、一番やはり痛いかというと、それはわからんです。ほんとそのわからんですね。まっ、とにかく主観的である。

 そして6番目にですねえ、これはもうおもいのほか自分に騙される。人に騙されないぞ。と、いくら頑張っておられても自分に騙されるんですねえ。その主観的なものが度を過ごして、針小棒大という言葉のようなもんで、自己暗示、暗示はAの人からBの人にかける、とかですね、直接かけなくてもマインドコントロールという言葉のように、それとなくおもわせておいて、ころりと引っかかるようにさせる。とかね、暗示現象ですが、自分で自分のおもいによって自分を騙すという、自己暗示。これはね、もうほんとに日常的にあるわけです。そんなん絶対引っかかりません。と、そうおっしゃりたいでしょうけれども、日常の会話のなかでずいぶん引っかかっているんですねえ。ずいぶん騙され、自分で「そうだ」という思い込みが倍増しているようなもんですね。思い込みというのは主観的とさっき申しましたが、それが何倍にもなるというのは暗示の現象ですね。釣り落とした鯛は大きいというようなふうですね。後悔しきりというときには、釣り落とした鯛はものすごく大きかったというふうにおもえてならないんですねえ。この人の話、あの人この人いろいろこう聞いているうちに、やっぱりそうだったか、いやてっきりそうだとおもったとかいうようなふうに拡がりますでしょう。そういう中にこの暗示現象っていうものは、かなり働いているんですね、日常的に。で、その、皆さん方の日常的な辛さ、治りにくさの中にどう働いてるかというと、その、治るはずであるんですねえ。森田療法の本には治ると書いてある。それにもかかわらずこうも治りにくいのは、自分が特別である。つまり自分のがたちが悪いとかですねえ、特に難しい症状、あるいは神経質でないかもしれない。そういうような思い込みに発展するんですね。

 もっとあるかもしれませんけれども、以上六つあげましたものの、たとえ一つだけでも考えによって自分を正しく、あるいは正確に認識することは不可能ですね。認識したために実際からずれてしまう。見当外れに終わってしまう。そこで「自分はこうなんです」といっている人の、賢そうに見えて実は不見識であるということが、皆さん方にはよくおわかりになりますでしょう。ですから、自分のことは自分が一番よく知っているという種類の、いかにもその人が、よくわかっていそうに見えるのですけれども、それ自体が脱線に気がついていない。という不見識さの表明であるんですねえ。絶対その自分というものについて語ることは無益であり、そういうことがあってはなりませんのですね。ここで、もうけっして自分というものの心の問題にもとづいた、心の状況がこうだからという行動を、皆さんがおとりにならないですね。それはもう大変立派なことです。世間の人は皆、自分の心によって動いているんですねえ。心をどう処理するか、ぐらいなことです。いいところ外の問題と自分の問題との調和ぐらいです。森田先生でも外と内の調和っていうようなことをいっておられる。そら世間的な考え方ですね。

 もうここでは前の院長は禅僧、禅の修行をした僧侶ですから、そこは非常にきっぱりしていて、一切理屈ぬきと。この理屈ぬきというのは私その、よく大人がですねえ、若い人に「理屈いうな」と昔、今はどうか知りませんけれども、まっ、戦争中に育った私らとしては「理屈いうな」と、学校でもいわれ、家庭でもいわれるっていうようなもんですねえ。ですからそういうもんかと思った。理屈いうなっていうのは反論するなとかね、文句いうなとか、そういうことをいうてるのかと思いましたけれども、この、前の院長の「理屈ぬき」っていうのは、論理化するなっていうことです。さっきの常識的にいうなっていうことですね。これでもう一切が今晩解決します。世間の人が絶対気がつかないのは考えてるからです。自分のことを自分で考えて、どれがほんとだろうか。とかいうようなことをやってますから、到底肝心なそのところに気がつかないんですね。これで、まっ、皆さん方は、もう絶対ご自分のどのような状態も、今日以後はきめようとはなさらなくなります。自分をきめるために日本語その他の外国語も使わないんですねえ。それはもう地球上ほんのひと握りの人ぐらいのもんですね。この自分を言葉で捉えない。そういうことをまともにやっていくんですね。

 あの今から2千500年前ほど前に、ギリシャのソクラテスという哲学者が、ですね、今、デルフィーといってますが、昔、デルフォイといったそうで、そこの神殿に、ですね、「汝自身を知れ」という文字を、たぶん彫刻してあった、かけていたというんですねえ。ソクラテスがかけてもらったのか、偉い人の言葉だからかけようか、ということになったのか、それは知りませんし、どのへんにかけてありましたか、といわれて、私それがもう返答に窮した。だいたいかけてあったのか、建物にきちっとひっついていたのか、それもわからんのです。ただ、そこにあったんですね。「汝自身を知れ」と書いてあった。

 そうしますとねえ、多かれ少なかれヨーロッパの哲学っていうものは、ご存知でしょうけれども、ギリシャ哲学を祖とする、そこからの流れなんですねえ。考えた自分を問題にしない哲学なんてありようがない。そういうことなんです。大変な問題ですねえ。

 ここで皆さんがはっきりと習得なさるのは、「自分というものを知ることがない」言葉を使わないんですから、そして、「こうだ」とわかることがない。それは了解ですね。認知することと了解、知る、あるいは分かるという、どっちもない。そうしますと「自分はこういう人間だ」ときめられない、限定できないですねえ。これを日々実行していただいてるんです。

 どう実行するかというと、皆さんから外の人、それからこういう物ですねえ、そして事柄、それは数字を扱う出納の方だけに限らず日記をお書きになる皆さん方、それは文字本来の、言葉本来のものを活用しておられるんですねえ。ですから本来のものでない自分の心を日記にお書きになるということは、言葉とか考えの使い間違いであるんですね。したがって記録、ここでは見たものしたことに日記の内容は限られると申し上げておりますが、そのほかの使い方としては、文芸ですね、それは詩とか俳句、いろんなうたなどももちろん含まれるのですが、いろんな創作ですねえ、皆さんが小説その他、文芸作品をお書きになる。そういうことは作業といっしょです。外へ創り出しているんですね、芸術なんです。それと実際の事柄、歴史上の事柄と混同したらいけないんですねえ。文芸作品の中に登場する人物のモデルは、きっと自分に違いない、っていうような人が出てきますね、時々うったえたりします。それはそっくりに書かれているかは知れませんけれども、文芸作品っていうものは誰かを誹謗中傷するために陥れようとして書くわけではない、作品でありまして、ですね、もう芸術でありますから、いくらルポルタージュとかドキュメンタルなものである、というふうに現実を見聞きし、あるいはその記録的な作品として書かれたものであったにしましても、これはもう芸術なんですね。

 で、おそらく皆さんここでの数10日の生活の中で、今まで以上に芸術っていうものが、よくおわかりになりますでしょう。芸術はわかることと関係ないっていうことが、わかっていただいたら私はうれしいですね。スライドの時間っていうのは、下手な私の説明がなければならないのではないのですね。私は次々いろんな作品をお目にかけて、はじめから終わりまで黙ってて、もうなにも悪いことはない。16世紀ルネサンスの美術をお目にかけますゆうてこう黙ってご覧いただくという、それでもう悪いことないんですねえ。

 ところが多くの人はそれでは物足りない。なんかちょっと説明してもらえませんかという気持ちでいらっしゃるんですね。まっ、そこです。で、そこは切り離して勉強として皆さんに、勉強というよりも情報というふうに言い換えれば、ですね、こういう次第ですと。そういうことをお聞かせする。そうするとこれは別の興味なんですねえ。認知、知ることの興味なんです。「ああ、そういうもんか」というようなもんですね。その、よくもっと今まで勉強しといたら、どの美術を見ても興味が湧いただろうと、よくいわれるのですね、日記の中で、けっしてそういうことはないんですね。どの美術館へいらっしゃろうと、博物館で古いものをご覧になりましょうと、ですね、それは知ることと、まったく別に、その美っというものが、皆さんがご覧になる途端に生まれている、生じているんですね、成り立っているんです。花をご覧になるのと一緒なんですね。ただ博物館にあるものは歴史的な物語がついています、時代も。そこに現代美術の作品を皆さんが美術館でご覧になるのと、わけの違うものがあるんですね、その分だけ、これは数々の話がひっついております。ほんとか嘘かわかりませんけどもいっぱいひっついている。そういうものは興味の対象になりますね。けれども見ることの世界は興味に関係なしです。だからこの花を活けてくださった方のご好意によりまして、こういうふうに見せていただくことができますのは、ですね、皆さんのご興味をかきたてるものでもなんでもないんです。このようである。ということなんです。

 これを美学では「観照」と、観るという字と照らすという、こう書きまして、ぱあーっとこう観てることなんですね。それに対してこの下に書きました、鑑という字と賞品の賞ですね、「鑑賞」これはもう一般によく使われる言葉で、これは「けっこうですねえ」とか「なんとよくできてますねえ」「何ともいいようのない微妙な表現ですね」とかなんかいろいろいう、そういうあの味わいの方です。この二つは別のものでありながら、同時に成り立っているんですね。だから、ぱっと目を開いてこの活花作品を皆さんがご覧になるのは、まぎれもない上の観ることそのものです。やがてそれは、それ独特の美っというものを感じないわけにはいきませんから、ほかのにない美っというものを味わわれますですね、それが下の鑑賞です。普通はそんなん分けませんから、はじめから「いや、けっこうでございます」とこういうんですね。褒めようがなかったら、ですね、「これは上手に活けてあります」「はなはだけっこうなお作でございます」とかですねえ、もうそれは言葉っていうのはいろいろと工夫しなければなりませんですねえ。

 ついさっきも、こと私どものように、まったくこれ外科系統反対の精神医学をしてる人間のところへ飛んで来られるというのは、やっぱり私ら、その言葉の上でのいろんな工夫をしますから。そういうことがお役に立つのかもしれないんですね。まっ、皆さんはこれから、いろいろ言葉については、その表現の仕方に一段と工夫を加えた、日記でもそうですね、そういうふうになさるとよろしいです。

 で、もう聞いてて一般にいえることですけれども、その人が思っている結論に、相手である私が、「そうですねえ」とかですね、「よう聞かしていただきました」「ごもっともです」と。こういう種類のことをどなたも期待しておられるということです。これはもう長年の、ほんとに私、医師になりまして1950年なんですから57年ですねえ。いや、こんなにその言葉っていうものが、たいへんな働きをするもんかということを、しみじみと身にしみてわかりましたが、若いころっていうのは、いろいろこうそれなりに考えて、きっぱりしている方がいいと思ってみたりねえ、する。歯切れのいいのがいいかと思ってみたりもしますけれども、はなはだそのあいまいで、こう割り切れん、相手にしてみたら、もうちょっとはっきりいうてもらえんだろうか、というふうなこともあったりするでしょうけれども。

 今申し上げていますのは、「承認欲求」というんですねえ。自分が思っている、心配している、不安がっているというのを「ああそうですねえ」とこう聞いてほしいという気持ちがあるんですねえ。ぼんっと、その、すげなく反発するよりは、それはそれなりに聞き入れて、それで今なすべきことこそ、皆さん方に申し上げるんですね。それが私どもの精神療法、最も瞬間的、この今におきまして効果を発揮する道であるんですね。

 ですから心の中へ入って、さっき申しました自分対自分の問題に、ちょっと皆さんをお助けしようというので、皆さんの心の中に入るような言葉をお膳立てして使いますと、これはみな失敗に終わりますですね。ところが世の中のカウンセリングっていうのはどうでしょうか、まるでそれ自体が芸術であるかのように、こう言葉でなんかをつくり上げてるみたいに見えないこともないんですね。ほんとはカウンセリングっていうのは聴く一方なんですね。どこまでも聴く一方なんですね。それはそうあるべきでありましょう。

 そうしますと、ですね、「こうすれば治ります」っていうのは、なんか親切なようで全部脱線してることがおわかりですね。それよりは、なにがなんでも皆さん方が現実生活にすぐ取り組んで、すぐ次、すぐ次というふうになさるという道を、同じ方を向いて、ですね、つまりこう向かい合ったお説教、向かい合って話し合うとこれお説教になりますですね。意見を戦わす、見解の相違が明らかになるっていうのはそういうことですね。そうでなしに、おんなじ方を向いて、この仕事、次はこれ、そしてこれは急ぎますと、そういうふうに同じ方を向いていろいろと、皆さん方が協力しあっておられるというそれが、もうなにより素晴らしいんですねえ。

 七夕が近づきまして、ですね、NHKのスタジオにも大きな笹が持ち込まれて、まだ当日まで続けますというておりますが、視聴者からですね、いっぱい短冊が送られてきているんですね。そういうものを、アップして「私のお兄さんがほしい」とかね、そんな、ちょっと今からお兄さんが、ちょっと難しいと思いますけど、まあ、そういう、いろんなその、いうても仕方がないような望みもいっぱいこう、ぶら下がってるんですねえ。で、そういうのはなかなかその情趣性、つまり味のある願いの表現ですねえ。

 で、ここで「祈り」というものを、一切皆さん方に申し上げることがありませんが、それは「願い」ってものはこれは、何をどう願っておられてようとかまわないんです。人が持ってるのに自分だけないという、これはジェラシーという嫉妬ですねえ。みんなが持っているというのは非常に自分だけないのは心細いし、ただうらやましいというだけでなしに、しまいに人が恨めしいとかいうことになったりいたしますですねえ。嫉妬っていうのはそういうもんですわ。人のが普通で自分だけがないというんですね。そういうその、で、ここの森田療法からしますと心はまったくご自由なんです。こんな心がよろしいとか、こういうのはあきませんと、そういうことは申しません。心はすべてご自由、満点。そして今何をしなければならないかという、皆さんから離れたものに最大の注意を向けられますと、これはもう他者意識ですから、まぎれもなく、まごうかたなき他者意識、外のものですね。目的が外にあると。こういうことなんですね。ですからあの人が無事にどこかに着かれますように、途中の無事を祈るようなことですねえ。祈るというのは自分のできないことを神仏、絶対者の力をたのむことなんですね。それは他者、なんかその心を助けてくれるものっていうものを想定することになりますが、それに比べますと願いっていうのは、こうありたい、ああいうふうにもなりたい、という願望ですから、これはもうそれこそ豊にお持ちになって、空想の中にどんな宮殿を描かれようとかまわないんですね。ただ、すぐその場その場の大事なことに重点を置いた、生活上、仕事上の取り組み、勉強もそうなんです。それをゆるがせになさらない。っていうことが、この場、今晩の、ここでのとらわれを見事に脱しきった真実に生きる姿なんですね。ちょっと長ったらしいですけれども、とらわれを脱しきった、あるいは離脱した真実に生きる姿です。

 昔はもう簡単に、全治とか、根治とかいうてましたけれども、どうもその「治」という、治るという言葉が皆さん方を騙しているみたいな、騙す、よけい引っかかってしまわれるようにもっていく言葉のようになるんですね。ですから「治る」という言葉は、もうほんとに使わない方が賢明、皆さんご自身も、そういう言葉をお使いにならずに、ですね、もともと病気でない、まったく主観的な性格による障害、性格でとらわれるというそれは、健康人としての生活をなさった途端に解消するわけですから、今日繰り返し申しました「これが自分だ」という描かれた自分の姿から離れて、ですね、心に関係ないことを今始められる、そこが見事にとらわれから離れた真実に生きる姿。昔では全治と。こう申しました、それなんですね、そういうことです。

 はい。じゃあ今日はこのへんで講話を終わります。

    2007.7.4



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