三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


乗りかかった舟 



 はい。お待たせいたしました。それでは講話をいたします。

 今日はストーリーについて考えて、皆さんが当然のことながら、その話には論理があり筋が通っていて、わかる話という一つのまとまったものをお考えになりますでしょう。そういう、これが当たり前だと思っておられることの中では、悩みとか神経症とかの問題は、解決しませんのですね。

 そういうことを、きっぱりと今までこういう表現で申し上げたことがありませんでしたので、今日はとくとそれを噛み砕いて申し上げておきたいと存じます。

 神経症っていうのは医学的にみた表現ですし、悩みっていうのはより通俗的にいい古された言葉ですね。けれどもその成り立ち、メカニズムっていうものは、まったく同じからくりによるもので、皆さんこんな違うと思っていらっしゃったのに、同じというのはおかしいと思われるぐらいですが、解決が難しいっていうのは、解決に手を出されたその方々のすべてが感じられることがらです。悩みはそれを解こうという努力が必ずあり、ですね、神経症はそれを治そうという努力が必ず伴っているんですね。その共通したところが、もうおわかりのように自分のイメージ、自分っていうのは、皆イメージですが、ほんとにこの自分の生き生きした状態っていうものは、言葉で捉えにくいものでして、例えば、「これが心臓だ」とかね、「これが肝臓だ」とかいうふうに、解剖学で教わったそのイメージを自分に当てはめてそうお考えになってらっしゃるんですね。これは人間だけですけれども、そういう今は身体の内臓の話になりましたが、それを心という、なんかありそうに思っていらっしゃるものを相手に、「これが自分の心だ」とかですね、それをなんとかしようという、そういう形になっているのが悩みであり神経症でありまして、共通しているのは、①自分対自分というそのことと、②イメージを相手にしてそこに筋を通そう、つまりわかる話にしようということですね。

 今日最初にお話しました、ストーリーっていうのは、そのわかる話でありまして、ですね、まさかわからん話を聞くためにこの講話に期待をされるということはありませんですね。ところが、それが実は災いして、わかる話、例えば自分はわかり方が不十分である、まだ足りない、もっとよくわかればこんなもんなんでもない。というふうに見通しをつけていらっしゃる。それが間違いのもとでして、今日は皆さん方に、ストーリーのない世界をはっきりと打ち出して、つかむにつかめない、得ようにも得られない、わかろうにもわからないという、まるで雲をつかむような話、一色ひといろにしてお目にかけようとする、品物を使ってならばこれはマジックです。いろんなマジシャンたちが切れ味のいい、鮮やかな不思議を演出して見せるという、そんなところになるわけですけども、この講話をお聞きになっての皆さんのご感想が、わかったとかわからないとかということになるのでしたら、この試みは、まったく皆さんにご迷惑をかけただけになってしまうんですね。

 世の中に闇雲という言葉がありますけれども、あの闇はようわかりますね。雲っていうのは、富士山のようなところに雲がかかっている、その雲の中をいうのでしょうか。これはわかりませんけれども、とにかく、その闇雲の世界は、皆目とらえどころがないのだろうっていうことは、お察しのとおりです。しかしそれも科学が発達すれば、もちろんレーダーで雲のごときものは、なんの妨げにもならないですねえ。ちゃんと遠方の状況を察知することができます。そういうことをお話しているんではなくて、わかった途端に脱線する。わかった途端に失敗するというんですね。もっと極端にはっきりいえば、わかった途端に治らなくなるという。そういうことを申し上げようとしておりますので、まさにのるかそるかですね。もちろん皆さん方にはうまくのっていただきたいのであればこそこうやって申し上げていますので、話をわからなくしているという、意地の悪い魂胆ではありませんです。

 皆さんがあまりにも、わかるということに期待をかけすぎるっていうのも、絶対かけたらいかんわけですからねえ。望みをおかけになるのが、こちらからいたしますと、それは皆さんに同情して申し上げれば、かつての私のようだ。と、こういうふうになるんですね。つまり私も皆さんとご同様、もうちょっとわからないもんだろうかとか、そこがわかれば、ぱっとこの視野が開けて、もうなんの妨げもなく本物が見えるとかいう予測をたてておりましたんですね。ところがそれは大いに間違っておりまして、ですね、もう今や一生懸命皆さん方に、わかることから離れて生活なさる毎日をおすすめするばかりなんですね。

 で、そのいい反面教師とも申せますようなことが、ですね、この、私は皆さんと同じようにその席で、前の院長が講話をしますのをなるべく、なるべくというのは私、学生でしたですからね、そんな毎回聞けない、ことに今講話は夜とか日曜日にしてますけれども、そのころは全部昼間ですから、学生でしたら聞けないですね、日曜日もやってませんし、今は夜と日曜日でお勤めの方にも学生さんにも聞いていただける、そう変わっております。

 で、その講話を聞いておりますと、「理屈抜きです」この一言は、皆さん方にも、やっぱり理屈抜きでわかることがあるのではないかというご感想をいだかせることにならないでしょうか。この理屈っていうのは昔はね、若いもんはよく年取った人から、特に今から60年以上前ですと、「理屈をいうな」とですね、軍隊なんか特にそうですけども、ちょっと自分の別の意見をいおうとしたらもうぼろくそにいわれたり叩きのめされたりするわけですねえ。ですから「理屈抜き」っていうのは、ただハイハイというているだけの骨抜きみたいなものかと、こう思っておりますし、若いもんにとっては、そんなんは面白くないですねえ。しかし前の院長は、この講話で森田療法の神髄として、「理屈抜き」と申しておりましたんです。

 ところが第二次大戦後だんだん、今皆さんとても想像されませんでしょうが、先ほども入院しておられた時のことを回想されてですね、もう50人からの人が入院しておられた、今はどうですか。というようなことで、そのあまりの違いに驚いておられたんですけれど。実をいえば50人のところに50数人ですね、入ってもらったり、それはその私がやったんではなくて、なんとか廊下の片隅でも入院させてほしい。と、そういう言葉があったんですね、昔。それは決まり文句でただ一人の方がおっしゃったんでない。何人もの方が「廊下の片隅でも」とこうおっしゃったんですね。で、50人さんのところを50数人までですね、役所には怒られることですが、そういうことでようけ入院してもらったんです。そしたら監督官庁から「救急車で入院させてほしいというて飛び込んでこられた人も入院させてはいかん」と、そういう厳しいお達しがあったんです。そういわれんならんだけ入れたんですねえ。定員というのは守らんといかんと、それはそうなんです。それほどやったんですねえ。それが今10人さんほどというのはどうしたことか。その社会的な、あるいは医学的な原因が知りたいと、そういうお電話でありました。

 ただ、この寒い冬にもかかわらず、厳しいここの生活が嫌われるということがもちろん考えられますけど、皆さん方はたいへん修養にご熱心で、いらっしゃるんですねえ。たいへん結構なことで、これはもうその一言だけでも治らないでいらっしゃることはできませんのです、それは保証できます。どうしてこうも入院なさる方が減ったかというと、それはやっぱり人情の常として楽なのを求めるというそのことが、ちょっと抗不安剤という薬を飲みさえすれば、その場その場におきましては、望みがかなえられる、助かるわけですねえ。不安が消えるということは、もっけの幸いでありまして、もう不安が消えれば用事がないと思うのは、それはもう人間としてもっともなことですね。

 ところがこの講話は不安を消すのが目的ではありません。神経症が治る状態っていうのは不安で生活することのできる皆さん方に変わっていただくという、それでありますから、「これを飲んだら安心します」というような甘い言葉に誘われるということでは、ほんとうのいい完全な治り方には及びもつかないんですね。

 私は、その社会的な要因として、やはりそういう薬の普及によって、あたかも神経症治療の立役者という具合に、数えきれんほどの種類の抗不安剤が、弱いのから強いのまでいろいろできてくるという、このことに相当関係があろうと。それで京都でも病院でない精神神経科のクリニックが昨年10月1日に、70軒になりました。そういう便利な診療所が急増した。それでこの間、薬品会社の人に、そういうことでびっくりしていると私がそういう話をしました。向こうもびっくりするかとおもいましたら、さすがは商売、その売る方の専門家ですから、「なんの大阪では、もう200軒をこえているんですよ」と。これには驚きましたですねえ。大阪府全部か大阪市内か聞くのを忘れましたが、府全体でもこれはたいへんなことやなあと。増えるってことはそれだけそういう施設の需要があればのことです。つまりそれだけ薬で治そう、その場しのぎでやっていこうという人が増えたっていうことですね。しかも薬を飲んでますと、安心は得られますし、仕事はできます。勉強もできますですねえ。これは結構な話ですわ。そして病気だからということにすれば、薬を飲んでることおかしくないですねえ、ちょっとも。で、健康保険も使えますし、何が悪かろうというふうな、ちょっと錯覚に陥るんですねえ。ところがですねえ、心にも病気はあります。ほんとに病気はありますですねえ、間違ったりする病気があります。それと神経症とはまるっきり違うわけですねえ。

 神経症っていうのは、ひょっとしてこれ病気でないかと気にしはじめた、実に些細な調子の悪さ、あるいは考え、精神の方でいいますと、気になることですねえ、ちょっとした、こんなんはないはずのもんだと、健康な状態ならですねえ、そんなつまらんことに引っかからないはずだ、悩まないはずだ、あるいはもっとどんどん集中できるはずやと、勉強ですねえ、そう思うわけです。そうすると、この治そうとしても治せない邪魔な考え、嫌な調子、自分にとっての具合の悪い状態っていうものは病気でしかないと、こう考えられるんですね。病気であるとする方がわかりやすい。病気ならば薬を飲んで早く治した方が勝ちだ。とかですねえ、理屈が通ってるんです。よくわかる話で、それがまあ実に落とし穴なんですねえ。出発点において病気だとして、そこから対策を工夫していくわけですからねえ、それはもう一重に治そうという趣旨のスタートですね。ですからゴールは治りました。ということでなければならないんです。

 で、当たり前だと思われるでしょうけれども、なんと神経症は病気ではなかったんですねえ。自分で自分の状態に敏感な几帳面なお方が、厳密に自分の健康な心の状態、あるいは身体の調子、それらを振り返られてですね、これではいけないと。普通の人なら、呑気な人なら、それで済んでたかもしれないものを、これではいけないとですね、これはもう皆さん方が、もうまさにそうだと思われるでしょうが、本当のその健康ってのは、もっといいはずだというお考えがある。つまり過去に、なんにも気にならかった、元気な時があったという、あのイメージはですね、常に皆さん方の不健康感、あるいは不完全感、略して不全感といいますが、そういう自分の不十分さに満足しない、不満足の状態ですねえ、不満です。そういうものをもちやすくなる。それはその向こう側に、反対側に、神経質による理想像、理想の姿、森田先生はこれを神経質理想とよばれましたが、そういうものの高さがあるんですね。普通の世間一般の人が呑気だっていうのは、お手本の目指す高さが低いっていうことですね、皆さん方は高い。そういうのは世間一般の言葉で申しますと理想主義ですね、あるいは完全主義というてもいいです。そういう狙いの高さですね。そういう良い上にももっと良い、あるいは完全な良さっていうものを求め目指す方々においてはじめてその自分の欠点、弱さ、調子の悪さってものが敏感に、あれやこれやと見えてくるわけですね、それが第一段階です。これでもうそこにおもい至れば、病気でないものが病気になってしまうきっかけの、もう大部分はそこにあるんですね。そしてその今度は努力の段階ですね、そうしようという方向が決まれば、つまり治そうという努力が当然そこにおこってくるんですが、それがまた窮めてご熱心ですね、どなたもが。治すことにかけては、けっして人には負けないと。そういうところが人一倍ですね、つまり呑気の反対で、すべて呑気の反対ですねえ。ですから神経質とよばれるものの中身は、一つには、その、自分の不十分、不完全、不満足な状態が見えやすい。まっ、それを探しているような、アラ探しっていう言葉がありますけど、自分の中の具合が悪いところを一生懸命探しておられるようなものですねえ。それはもう理想主義的にいい完全な良い心の自分でありたいという願いが強いからですね。で、もう一つは二番目に、それはただではおかない、つまり、あくまでもその目標を目指して治すという努力で日日励まれるんですねえ。その努力、達成努力というものは、もう並々ならんものがありますですね。

 私がですねえ、入院の話なんにもしない段階で、ということは、こっちから是非入院しなさいとお勧めする言葉が出ないときに、まだ。もうその入院の話をしておられるというのは、しかしご自分のことおもわれたら、それ、そういう気持ちおありになるでしょう。こっちからまだ勧めてないのに、いやもう入院をしたい。中にはですねえ、まあ極端な話してますけどね、ある方が、その、学校休んでまでなにも入院なさらんで、春休みとか夏休みとか、ちょっとぐらいこう長い休みがある時にされたらどうかと、こっちはこう考えますですね。お勧めするのにも、いきなり入院入院というてるわけではないんですよ。いろいろこう考えてその人に合うようにお膳立てを考える。そうするともう入院します。とですね、なにも休みでもないのに。そういう方もおられるんですねえ、実際。

 で、この自分の不十分、不完全、不満足という状態を自己不全感といいますが、それがまことに敏感に強く、その方にはこたえているわけですねえ。で、ですからほっとけない。で、治すことに熱心な。ですからこの二つ分けて申しましたけれども、もちろん現れとしては一つです。

 それでもうついに私は神経症、特にこの森田神経質の方による神経症の成り立ちを、まるで治そうとすることそのものが病気のような、病気でないんです。もちろん病気でないんですけれども、"治そうとする病気" っていうのがあるというふうにおもい至るようになりましたのですね。

 で、そうしますと、悩みというものは、つまり神経症を離れて考えまして、それは、あっ、これは全部悩みを解こうとする努力によって生じていると、そういうふうにまた気がつくようになりましたのですね。ですから悩みってものは、解決しようという努力あっての悩みであると。そうすると、また逆に返ってきて神経症っていうものは、治そうとする努力あっての神経症であると、ここに到達したわけですねえ。

 そうしますと治すのはいたって簡単です。まさにその自己不全感でいること。つまり自分は、仮に弱いとか、ドジを踏むとかですねえ、集中ができないとか、他の人のようにさっさとこだわらずにできない、気になって気になって仕方がないと。そういう感じをすてないで、ですね、それをいわばやや逆説的になりますね、けれどもそれを薬として、症状を薬として飲みながら、すぐその場の、あるいは次の、皆さんから離れた仕事や勉強にすっとこう手を出すんですね、取りかかる。乗りかかった舟っていうのがありますでしょう、あの言葉はいいですねえ。乗ってしまいますと、すっとこう向こうにいってしまう、もう岸には戻れないと。

 韓国の扶余ぷよという西海岸でですねえ、名称があります。そこから日本に仏教が伝来したと。言い換えれば、そこから仏像が船に乗って日本にもたらされたと、いうんですねえ。そのあたりがクドリーという港で、それでその、ほんとはペクチェという国ですのに百済と、百済ひゃくさいと書いて百済というのは、あれなんとも読みようがないでんすねえ。あれもう絶対読めないわけです。なんで百済くだらっていうんだろうということの一つのこじつけかもしれませんけれども。そのクドリーから仏像を乗せてきたと、それがもとだろうといわれております。で、そこでですねえ、白い馬の江戸の江と書きましてね、白馬江はくばこう、まことにきれいな川が流れておりましてですねえ。その、百済の残党が日本からの援軍を待ちながら滅んだ。そういう場所なんですけども、そこから対岸へ船が渡る。それが、まっ、一つの観光ルートですねえ。その時も船頭がですねえ、もちろんエンジン付きの舟ですけども、船頭が岸に上がっているんですわ。それで、竿でね、舟をぐうーっとこう、私らが乗ってる舟をこう押すんですね。で、押して舟が離れかけたところに、ばあーっと竿を持って飛び乗って、それで客席のなかを前から後ろへ走ってですね、そこでエンジンかけて、ばあーっと出るんです。ものすごい離れ業ですねえ。あれ、実はこれはまことに乗りかかった舟だなあと、こうおもって見てましたです。おだやかなもんで、あれ飛び乗り損ねたら私ら船頭なしでペクマガンというというその白馬江を、ずうーっと下ったかもしれん。まことに危なっかしいことをやっている。というのはその、港のかっこうが、川岸ですね、かっこうがその普通の形で出られないんですね、ちょっとこう入り組んでまして、それでわざわざエンジンかけといて、グーッと押して、ぽんと飛び乗るという、そういうふうにして方向を変えるんですね。方向転換のためにそんなことやって。

 まことにその通りで、皆さんぱっと実際の生活の方に取り組まれましたらもうそれはしめたもんですね。そこに今日最初に申し上げましたストーリーがぜんぜん成り立たない、ということが起こるんですね。はじめからそれ申し上げてるわけですけれども、ストーリーがないっていうそのこと自体がストーリーにならないですから、わけがわからんですから、それで皆さんにちょっとはわかる方の失敗を先に申し上げてるんですね。わかる、ストーリーがこうだとできてることは、神経症や悩みの解決にならないという話をしているんです。こんな話めったにお聞きになることはできません。

 講演会でも研修会でも、それはもうみんなわかる話です。「あっ、今までわからなかった」「あっ、こういうことだったか」とですねえ。私はなるべく、もちろん医学的、精神医学的な話を欲張って聞いてまわることにしております。で今、医学的といいましたけど、どういうことかといいますと、一般医学ですね、精神医学ってのは、ちょっと毛色のかわった医学ですわ。一般医学の話も聞くんですねえ。ところでまあ医師ですから勉強を一生せないかんので、それでいいんですけれども、なんかいろんな点で役に立つ、精神医学のためにも役に立つ。その道の大家が、東京をはじめあちこち遠い大学から教授がこられますからね。そういう話はとっても役立つんですね、なるべく聞くようにしております。しかも前から必ず3番目以内の、まっ、1番前のこともありますけど、そこで聞く、遠慮せんとそこへいく、そうしないとスライドを映す人が多いですから、あの小さな字で、はい次はい次でやっておられたらもう読んでる間がないんですねえ。たくさんのスライドを用意してこられた方が全部映して帰ろうってなもんで、されますともう小さい字で読みにくい。ですからもう前にいって見るんです。はい、どうぞ皆さん方もスライドのときは、是非この日は遠い部屋からご覧にならずに、大きくしたのをご覧いただきたいんです。

 で、何が反面教師であったか、反面教師。つまり本当の狙いとはまったく逆なことがらがかえって役に立つという、下手な解説ですけれども、反対のことがらが自分に役に立つっていうのはどういうことかといいますと、森田療法は理論で治すと、そういう人たちが現れたんですねえ。で、森田先生もおっしゃってない森田理論というものを振り回して、「これを学習しましょうと、そうすると治ります」と、こういう。で、その頃からおかしいなあとこう思いだしたんです。さっきは前の院長が、「理屈抜き」という話をしました。そういうこと申し上げましたねえ。それがその戦争中の若い者の受けた教育からしますと、「理屈をいうな」とこう上からいわれた、軍人からいわれたりした、そういうこと思い出して、あんまり気持ちよくなかったんですねえ。ところが、いざ理屈、森田理論で治すというのが出てきますと、おやっと思ったわけですねえ、これはおかしいんじゃないかと。あまりにも違いますからね、ここは理屈抜きです。とこういうてるのに対して理屈でいきましようという。どっちかが本当だろう。まっ、それはそうです。どっちかが間違っているんだろう。それでつらつら吟味するようになったんですね。いや実にありがたいことで、まっ、別に悪口をいうてるわけやないんですが、森田療法をよく知る上には森田理論というものはたいへん役に立ちます。理論というものはですねえ、ものの説明に役立つんです。もう一つは理論というものは、将来を見通すことに役立ちますですね。

 これは私が夜往診しておりまして、ラジオでその時の番組を聞いてましてですね、高校通信、NHKの高校の講座ですわ。「理論というものは」とやってるんですねえ、先生が。ええこといわれるなあと思って、感心して、理論というものは、ものの説明に役立ちます。もう一つ理論というものは、ものの将来を見通すのに役立ちます。ははーっ、とこう思った。それでですね、森田理論というものをもってきた場合に、森田療法の説明に役立ちます。森田療法でどう治るかが、見通せるようになりますと。こういうことですわねえ、それがいけないんですわ。反面教師と申しましたのは、まさにそれなんですね。理論のいいところが逆に出てきている。どうして逆に出るかと申しますと、心であるからです。で、心は、これはもう毎回申し上げております通りですね、外の世界とまったく論理の異なる別の世界なんですね。外の論理がそのまま、自分対自分として見た場合の心には役立たないです、この世界に。

 それで森田先生の「あるがまま」っていうのが唯一、見事に心の問題を解決する素晴らしい道でありえますし、そう思ってみれば、鎌倉時代以降の日本の仏教、特にこの禅と念仏の方ですね、浄土真宗ですね、これはもう素晴らしいものでありまして、森田療法を真ん中にすえればですね、片っ方は禅に似てるなあと、片っ方は浄土真宗に似てるなあと。森田療法を真ん中に置きますと、禅と浄土系の思想っていうのがまるで違うと思っていたものが、森田療法を置いたばっかりによう似てくるんですねえ、よくわかる。たいへんありがたい立場、私のこというてるようですけど、皆さん方がそうですねえ。浄土真宗の方は禅なんてっていうのは、あんな自力で、あんなものでと思われます。それがこの森田療法を真ん中にすえたら、もうほんまに隣どうしですねえ、おんなじようなことをいう。また禅のお好きな方は、浄土真宗ってのは、もう南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とこういうて、そんな阿弥陀さんもういらんのと違うかとこう思っておられる。その森田療法を真ん中にすえたら、まったくそこに、「言葉のないあるがまま」という共通のものがよく見えていらっしゃるに違いないです。まさにこの言葉のない世界、論理の異なる世界。これこそが今日申し上げますストーリーのない世界なんですね。

 ですから、わかる話は神経症の治療には役立たないんですね。で、今日の講話はこういう話だったという、いくらかまとめて記憶しておこうとおもわれますのでしたら、それはまったく無駄な試みであると申し上げなければなりませんですね、まとめがいらないんです。まとめ、結論、要旨とかいいますね、サマリーとかね。まとめて、「こういうことだ」というふうにご理解くださることは、他の人に伝える上には役立ちますですね。けれども、ご自分の問題には何の役にも立ちませんのです。

 そうしますと、悩みとか神経症のこのつらさはですね、ご自分の問題を普通の論理で解決しよう。つまりストーリーを作って、それで治していこうとされた、という失敗だと見ることができますですねえ。これはもうほんとに誰もいうてないことですね。

 論理の点からこの神経症問題をいう人はおりませんので。しかし、なにも私が大発見したわけではなくて、森田先生がちゃんと、人の心の中で感情の世界っていうものは、「普通論理に従わぬものがある」と書いておられるんですねえ。普通のではなしに、普通論理に従わぬと。ですから、まったく論理が異なるという立派な見通しをたてていらっしゃったということがわかります。それですから、「あるがまま」ですね。

 神経症は人間の身体に最も近い頭の働きとしてはですねえ、精神よりも身体の方に密接に関係のある感情の世界。その感情の世界が、自分にとって面白くない、気に食わん、邪魔だ、とかいうところで、この人間の知的な賢い工夫をするところが、その感情の世界を、自分流に調整しようとするんですねえ、コントロールしようとする。まっ、例えば不安は感情の一つですねえ、不安感情といわないだけで。安心も感情ですわ、これ、そんなこというたら笑われますけども、安心感情といわないだけの話で、安心も感情。特にあれ穏やかに、ずうーっと続きますから、感情の中のムード、気分とよばれるものですね。感情もいろんなのがあるんですよ。この、ぱあーっと怒る人が、そういう衝動的な感情の現れですね。まっ、普通の気持ちの変化、日常の変化、そういうのは情動というんですね、情緒というたりしますね。その動きが目立たなくて、弱い感情がゆるく続いている状態が気分です、ムードですね、そういういろんな感情のあり方があるんですね。ひとまとめにして申しておりますが、その、自分の都合のいい状態ならいいんですけれども、都合の悪い状態になったら困るのは、考える方の頭でこれをなんとか穏やかにしようと。不安を安心にしようというような、そういうところで神経症的な悩みが起こってくるんですね。解決の努力があるのが神経症あるいは悩みです。

 そうしますと、賢い、自分に対するやり繰り工夫、つまり自分を調整しようとする、感情に立ち向かった皆さんの優れた頭の能力がですね、つまり無駄な、まったく相手にしてはいけないというたほうがいいですねえ、具合が悪い、あるいは勝ち目のない感情という相手に手出しをしてなんとか解決しようとしておられる。これはもう柱と相撲を取ってるようなもんですわ、それが神経症ですからね。ですからもうそれはそうしておいて、直ちに目の前の最も手近なのでよろしいですから、とりあえず何かに取り組んで、さっさと、あるいはぼちぼちとでもしぶしぶでもよろしいからとにかくやり始めるんですね。それが森田療法の極意です、ここの極意です。ですからストーリーはないんですね、なんにも。自分の方にはストーリーはない。

 で、今日ご覧いただいています、こんなはっきり読みやすいものはありませんですね。「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合わせて見る 此れ純なる心也」と昭和2年、1927年に森田先生がお書きになったものです。この驚くという字が今の漢字からすると間違いなんですねえ。で、こういう書き方があるのかとずいぶん気になりますから、漢和辞典でさがしてるんですけれども、どうもこう書いてあるのがないんですわ、実際間違いなのかもしれませんですねえ。まあ、その文字のことはまあ堪忍していただきまして、「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合わせて見る」という、それはまあ話ですよ、これはストーリーですねえ。ところが、「此れ純なる心也」っていうのは、ストーリーにならないんですわ。で、それのどこが純な心なのかですねえ。それで私は、もうこれはまともに皆さんにもお受け取りいただいて、「純な心」っていうのは、なんの関係もないものですと。そういうことを学会でも発表してきておりますです。ところが多くの日本人は、それではおさまらないんですねえ、わかる話でないといかんと考える人が大多数ですありますからですねえ、私みたいにこんなこというてんのは、ほんまのもう、ひょっとしたら一人きりかもしれんのです。お笑いください、どっちを笑っていただいても結構ですけども、私を笑っていただいても結構ですし。まっ、とにかく、そういう理屈のない「純な心」を強調してるのが、ここの森田療法ですねえ。

 で、「日本森田療法学会雑誌」という権威ある本があります。それから、「生活の発見」という生活の発見会の出している雑誌があります。6千部発行というたいへんなもんですね。どちらにも一昨年、日本森田療法学会が千葉県の幕張というところで開かれました時に、「純な心」についての話をされた生活の発見会の方のお話が、その今上げました二つの雑誌に出ております。同じものです。で、このごろ発表する方々の人数が増えたもんですから、とても三日間では収まりきらない、学会の発表数が増えますと時間がかかりますわねえ。それで、やむおえず二つの会場に分けてやるんです。そうしますと、A会場で私が聞いていたらB会場の発表が聞けないわけですね、同じ時間ですから。残念なことがいっぱいあります。で、実はその「純な心」についての発表を聞きそこねたんです。しかし幸い雑誌に発表されましたからそれを拝見しますと、はなはだ具合が悪いんです。で、森田先生がある時ですね、うさぎ小屋があったとみえる、まっ、そう書いてあるんですね。で、野良犬が入ってきて戸を開けてですね、うさぎをかみ殺したかなんかですね。で、あくる朝それに気がついた人が森田先生に、これはその檻ですね、うさぎを飼っているところの構造が悪い、作りが悪いというた。そしたら森田先生に非常に怒られて「なぜ可哀想だと思わないか」と、うさぎがですね。そうおっしゃったという、そのことがあるんですねえ。それを取り上げて「純な心」っていうのは共感性である。その可哀想なうさぎを見れば「可哀想だなあ」とこう思う共感性である。共に感ずるという、あの共感性ですねえ。で、構造が悪いから犬が入ってきたとかいうようなことを理屈っぽくいうのはだめだと。そんなふうにその話を受け取って、「純な心」は共感性だという説をとなえられた。それが書いてあるんですねえ。

 もう結論的にいいまして「純な心」っていうのは特定の心ではないんです。ある心、こういう時にはこういう心、ああいう時にはああいう心というなのではないのでして、あらゆる心のあらゆる変化ことごとくを含んで「あるがまま」「純な心」なんですね。ですからこの場合「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合わせて見る」ってのは前段階、これは一つの話題の提示なんですね。こういう状況、こういう場面というのを出して、で、それになんにも関係なく、その場の心が「純な心」ですと、こういうんです。その関係なくということが書いてないので、こうやってお皿を割って驚いて、はっとつぎ合わせて「あっ、しまった」と、こんなこと思っている、それかなあと、こう思いますわねえ。なんか、ほんとに自分もお皿が割れたら治るのにとかね、そんな思いますけれどもそんなんではない。その状況あるいは場面を設定して、そこに純な心が出てきますよ、というんではないんですねえ。まっ、とにかくそんな場面、それでもうその純な心は、いつもその時にその場で本人さんになにも関係なくあるわけですから、そこを見なければいけないんですね。と、今こうしてわかりにくい、いや絶対わからない話をしております、そういうのをお聞きくださる皆さん方も純な心の持ち主で。まっ、15人いらっしゃれば15通りの純な心をこの場でお持ちになっていらっしゃるんですね。

 そういうのは人間が自分で自分を振り返って心を問題にした場合に出てくる難しい問題。しかし、いつもいいお花を上手に活けていただきましてありがとうございますが。こういう花はですねえ、そんな、もうこうして、なんのためにというようなことがないわけですから、なんのためにっていうのはこの作品を創る人の意図ですね、こういうふうに組み立てる、作品を構成するときの意図、そこにはこういうふうに見せようというふうな、もちろん構想としておありになるんです。だいたい作品というのは人に見られるものなんです、本来。ですからいく通りもの批評を受ける性質のものですね、見られるものであるんですね。それで、花は一つ一つそういう趣旨にまったく無関係に咲いておりましてですね、人間だけが、とやかく褒めたりなんかしていろいろ批評する。美の批判ってのは、もうさまざまでよろしいんですが。ところが人間でもですねえ、まったくこの色と形を見るという、そのことは共通してどなたにも成り立っているんですが、美しいとかなんとかいろいろいう方に先に気がまわって、色と形をこのまま見ることがなくなったんですね、それがはなはだ惜しまれるのです。

 つまり神経症がそこで、まっ、治っているわけですわ。最初こう皆さんご覧になった瞬間というのは神経症が成り立たない。「驚きて之をつぎ合わせて見る」ところまでですから、別にこれ誤ちてどうっていうことでないんですけどね、この掛け軸の方からいきますと、はっとこう「どうしよう」と思っているのとおんなじような、なにもその意味を問うこともない状態ですね。もちろん皆さんでしたら、このお皿をつぎ合わせるよりも、接着剤をさがしにいかれてですねえ、早速それを引っ付けてしまわれるほうが賢いわけです。ほんとのこと、森田療法の神髄からいけば、なにもそのこうやって、じぃーっとこう見て、「純な心や」というてるよりもですねえ、どんどん接着剤つけて、こうやって合わせてですねえ、それでこうぴちっと着く、そのまま固定する方法なんか考えてる方がよっぽど賢いです。まっ、ずいぶんこれは誤解のあるもので、その誤解をとくためにも、これはとても役立つ掛け軸であるのです。

 はい。それでは今日の講話はこのへんで終わりといたします。

    2006.2.12



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