三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


心のもち方より緊張の生活を  

 森田療法では心のありよう(自己意識内容)をやかましくいわない。それではいささかたよりなく思われるかもしれない。それとも、心については当然重要なので、わざわざいうまでもないだけなのであろうか。今回はそこをはっきりさせて皆さんのお役にたちたい。

 森田療法の全治は特定の「こういう状態である」と定義づけられたものではない。それを真正面から表現すると、「どのようにもことばで限定することのない "きめられないもの" 」である。したがってそれは「知る対象になりえない」ということもできる。知ることのないものはまた「わからなさ」そのものである。そんなものが現実にありうるであろうか。

 どこまでも尾を引く不安が、森田神経質の人びとの「これで安心」という目標を、あくまでも求めて悩んだ一番のもとにあったことを思うとき、全治の状態は「求めるということのありえない」不思議な、なんともいいようのない今の姿である。

 ことばがなければ、当然論理がない。まったく説明のしようがない。この考えられないおかしな状態の真只中にあって、まったくの "あるがまま" が突然に、十分にしかも自動的に現われるのだから手間のかからないことこれに過ぎるものはない。ふと我にかえって、自己意識が明るくなると、追求することから離れていたことに気がつく。その間は安心の追求がなかったのである。

 森田神経質の、病気ではないのに背負いきれないほどの病苦におしつぶされそうになっていた、あの過去の姿が、必死になって求めた自分のなかの安心追求という目標をもったことに由来することが明らかとなる。それらはすべて自己意識が明るく前景に出たことから起こるので、これからは最初から他者意識の明るい外界の仕事にとりあえず手を出すことである。それは他人の仕事の手助けのような喜ばれるものなら、責任の重いものほどよい。他人への気配りはそれ自体難しいものである。自分の思いどおりにしてよいわけではなく、他人の意向をその周囲の状況からよく察して、心情を汲みとりながら応援するのであるから、世間でいう「その人に寄りそって」ということばの中身は大変深いものがある。自分が直接にその場にいなくても、たとえば救急業務の司令室の間断ない緊迫感をテレビを通じてでも思ってみるとよい。その場の共感のすべてが他者意識を明るくしてくれる。そのあと、あの「火事ですか、救急車ですか」の電話応対の声がいつまでも脳裏にひびくであろう。こういうハラハラも全治なのである。

   2022.10.12



目次