民芸と河井寛次郎
大和大路四条下る1筋目東入る約50mで左折の鍵善良房ZENBI(美術館)で「鍵善良房コレクション河井寛次郎とその系譜」展が開かれている。(12月17日まで)
河井寛次郎(1890〜1966)は1920年、現在河井寛次郎記念館が建つ五条坂に住居と陶房を構え、1924年に柳宗悦(1889〜1961)と出会って以降、民芸運動の中心的人物として数々の名作を世に送り出した。
学生の頃、柳宗悦の戦争中の著書『茶と美』を、友人が「これは絶対に読むべき本だ」といって貸してくれたおかげで、民芸の趣旨は会得していた。しかし1948年6月に三条通御幸町の大毎会館(現1928ビル、武田五一京大名誉教授設計)で柳と、河井寛次郎の話を直接聞くことができて感動もひとしおであった。
イギリスのウィリアム・モリス(1834〜1896)が、17世紀にはじまる産業革命の影響として、工業デザインや製品の粗悪化を招いたことに危惧を唱え、多方面の活動を通じて、優美で重厚な、使い勝手のよい健全なアートの創造を目指して制作をした。それはまた当時流行しはじめていたアールヌーボーの作品への批判も含むものであった。
この説に感心した柳は茶碗に注目した。彼は中世以降の茶人たちが、李氏朝鮮王朝(1392〜1907)の陶工たちの、名声にとらわれることなく作り上げた茶碗に健康な美を見出したことを讃え、その制作の目的が日常の用にあったことによると見抜いた。彼はそれを「用の美」と名付け、茶人の見識の高さを示すものとした。それは朝鮮の陶窯のみならず、沖縄をはじめ、日本各地の窯場の伝統的な陶芸の中にも健康な美のあることを見つけて回り、それらを民衆工芸、略して「民芸」と呼んだのである。
1920年代中頃の若い日に、今の鳥羽街道団地にあった京都市立陶磁器試験場で釉薬の研究をしていた河井寛次郎と浜田庄司(1892〜1974)が柳の熱意に陶芸家として共鳴し、民芸運動の中心となった。そのようにして工芸家黒田辰秋らの協力のもとに1948年6月には京都民芸協会を設立した。私が聞いた柳と河井の講演はそれを記念するものであった。
私は1967年6月に沖縄本島の西約90kmの久米島に朝鮮の高麗時代の造瓦法が受け継がれて存在しているのを調査に行って、仲泊の旅館で偶然浜田と出合い、幸いにも村の教育委員会の主催する浜田の「民芸について」の講演会に参加することができた。彼が栃木県の陶器の硫酸瓶の製造の盛んな益子(ましこ)の地を仕事場に選んだのは、あくまでも名声にとらわれない制作を目ざしたからだ、とのことであった。
河井博次は養嗣子で、豪放。「寛次郎が2人いてたまるか」といった。河井武一は甥、透はその息子であり、よい伝統の中に生きた人たちである。
2023.10.9
[参考文献ならびに写真の出典]
鍵屋良房Z E N B I「鍵善良房コレクション河井寛次郎とその系譜」展覧会案内書 2023