三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


今の心で十分足ります 



 はい、今晩は、お待ちどうさまでした。

 はい、じゃあ講話ですけども、何べん聞いてもわからんと、もしおもわれるならですね、後になるほどわかるはずであるであるということが間違っておりましてですね、簡単に申しますと、自分で見た自分、これが自分だとか、自分のことは自分が一番よく知っているとかっていうことから完全に離れる状態を全治とするわけですねえ。ですから、わかったというのは描いた自分が先にありましてですね、いくらかそれを考え方を変えて、こうすれば講話でいうていることに近くなるというふうな、少しわかったとかですねえ、だいたいわかったとかっていうふうな線が出てくるわけですね。ですからやっぱりそれはわかってないわけでして、ほんとに皆さんがこのようによくわかってくださっていらっしゃるとすれば、それはもう描いたご自分のイメージというものをきれいに離れて、その場その場、ほっとけない大事な今の仕事に取り組んでおられるという、その生活の場面そのものなんですね。

 それについてわかっていることは関係ありませんから、したがってだんだんわかる、そしてだんだん治る、だんだん、例えば安心が増えてくるというふうに、次第に量的に少なかったものが増えるとか、小さいものが大きくなるとかですね、なんか測定してわかるような種類の捉え方はことごとく脱線ですね。

 ですから、日に日に安心が増えてきたと、この分やったら近いうちに退院できるやろうと、これは絶対間違った見当付けでして、自分を見て、近い将来ですねえ、退院が最初の予定通りかどうかっていうことが大体わかるなどというている間は治ってないわけですからね。考えがいっぺん自分の状態を見てから外の人とかものとか事柄とかですね、外界の用事に取り組むというその1と2という順番がありますと、もうそれだけで大失敗ですね。ですからはっきり申しますとですね、まず1というそれだけです。外の皆さんの作業、その他のお仕事が1でありましてですねえ、2とか3とかがない。言い換えたら順番がないんですね。皆さんはよう振り返ってご覧になりますと、順番があったということですね。まず1は自分であって、その自分を見た上で、例えば自信があるとかないとかで、できるとかできんとかが予測されると。そういう見通しというものを非常に大事にしてこられたのは、一般の社会人もまったく同じことですから、考え方で神経症がおこるというのは間違いです。

 で、多くの若い先生方がですねえ、精神科の専門であるにもかかわらず、考え方で神経症がおこっているように、多くの人が理解しているというのはおかしいですねえ。考え方の問題ではないんです。ただ自分に熱心に取り組むという、そこのところを忘れてはいけませんですねえ。

 で、熱心に取り組んだ結果がこのとおりであると、ですねえ。また今日もしご自分に熱心に取り組んでいらっしゃる、例えばそれは治そうという熱心な努力であるにもかかわらず、この自分を、というですね、てにおはでいいますと、「を」とか「に」とか「へ」とかは必ず対象、目的、あるいは方向などを表しているんですねえ。そういうものが自分に引っ付いてくるともう抜け出せんようになりますねえ。治らんようになります。一切、皆さんご自分のイメージに対しましてはですねえ、「に」とか「を」とか「へ」とか、そういう言葉を引っ付けてはいけません。そういうのはことごとく助詞といいますねえ。そういう目的とか方向を示す助詞を自分いついては使わない、とですね。ですからそういう言葉、てにおはも皆さんの外にあるものにいきなり使えばよろしいんですね。この作業をすると。こういう製品を作り上げると。ですねえ、こういうふうにできないといけないんですね。

 外はいっぱい規則あるいは条件ですね、こうでないといかんというものがいっぱいあるわけでして、それに合格しないと製品として、まっ、皆さんもすぐ商品を期待どおり完成して納めておられるわけですから、もうすぐそれが社会で使われているんですね。

 天竜寺という嵐山の有名な禅のお寺がありますけど、そこを見学に三省会から行きましたら、ですね、皆さんから「ドラサーヤ」っていうようなお菓子作っておられたそれを、そのそばで売ってるとかいうそれを感激して買うておられましたですけども、そういう実際に売られている場所に行くと、「はっ、これがそうか」っていうようなもんですねえ。

 そういうようなのがよろしんですね。真似事ではいけないんです。皆さんに包丁で、まっ、例えば料理をしていただくとか、お漬物を切っていただくということはありません。これはどこの病院でもそうですねえ。直接料理に関わっていただくということは、衛生行政の方では禁止しているのです。

 ですけども森田療法で有名でした大学でですねえ、入院中の人に食事を作らせると自慢げに書いている、あれは森田療法ではけっこうなんですけども、役所にはあれでは通らないと私は密かに思って、書評をたのまれてですねえ、ほんとにそれ褒めるに褒められなくて困りましたですねえ。ここではこういうことが今許されている。という、ちょっと皮肉めいた書き方をしてお茶を濁したわけですが、実際はですね、ほんとのこと申しますと皆さんにおかずやらほかのご馳走を作っていただきたいんですねえ。まっ、何をいうてるかと思われるでしょう。役所からいうたら厚生労働省からいうたらそれはいかんですね。けれども森田療法からいうたら皆さんがお上がりになる、他の方のご馳走もおつくりになるという、これはもう非常にけっこうなことなんです。

 で、まっ、笑い話がありましてですねえ、ここでそんなお漬物切ったりすようなことしたらいけませんと役所からいうてきた。指導にみえた人がですね。それで前の院長がたいへん残念がりましてですね、それで私を連れて役所へ、京都府衛生部ってなところへ、そのころ、今は名前がかわってますけどねえ。そういうところへ行ってこういう治療ではこうでないといかんのですと、陳情。情を陳べるですから陳情ですね、に行きましたです。そしたら返事はどうかゆうたら、そんなら別の場所つまり調理場、調理室、給食室から離れたところでお漬物を切るとですね、ならよろしい。と、こういうてきたんです。「まるでままごとではないか」というて前の院長が、まあ笑ったわけですが、もちろんそれは切るだけの話で食べる方へまわしてはいかんわけですねえ。そんな昔のことを今、急に思い出しましたです。

 そういうことの厳しい指導は病院だからです。そういう医院がありますが昔は病院やったんですねえ。そしたらその前院長、まっ、私のちょっと二つばかり年下の人ですけども、まっ、「病院やめたらこんなに楽なもんかとおもいましたわ」と、こういうているんです。ですから病院ていうのは、がんじがらめにいっぱいこう縛られているんですねえ。まあ、その、逆にいえばですねえ、一般の医院とかクリニックとかいうているところは、なんにもそういう縛りがないんですね。ですからおもいのままにやってて別におかしくはないんですね。

 ですから私が院長になりましたころは、あちこちの森田療法施設を見学に参りました時に、東京ではですね、入院してる人が、入院て20人以上が病院なんですね。ですから19人までは病院といわなくて入院してる人がおられてもいいわけです。はい。

 で、ちらし寿司を作っておられる現場を見せてもらいました。これは誰々さん退院される方がおられたんで、それでこんなご馳走になりました。というような、そういう説明を聞きましたですが、ほんとはそういうほうが望ましいんですね。実際にほかの方がお上がりになるものは手抜きができません。ええ加減に作るわけにいきませんですね。前の院長はそれをやかましくいうてたわけです。

 で、病院ということになりますとねえ、まっ、ついでにこの向かいのあの何百人という実際の病気の人が入院しておられる、その病院を取り締まる規則とおんなじ規則を適用されているんですね。ここは小さいし、ちょっと軽く、ええ加減に見ておきましょうと、例えば大目に見ましょうとかいう言葉がありますねえ。そいうことになってるかというと、そうではないんです。医療監視という厳しい、ちゃんと決められた通りにやってるかどうかを調べる人が来る時があるわけですねえ。で、それで調べる基準になってるものが、あの大病院とこの小病院とおんなじ基準でいくわけですから、そらたまったものではないですねえ。

 で、ここも最初は、皆さん今三聖病院と呼んでくださってますが、本来は三聖さんしょう病院でして、で、その昭和2年にそういう名称になります前、大正の末ごろ三聖さんしょう医院であって、しかも入院の人が数名おられたわけです。

 で、この神経質というというのは、一般の人を普通のいい方をすれば健康人とみる、あるいは病気のない人とかですね、そういうふうな分け方をして、そういう神経質な性格の方だから神経症になられるという、その普通の説明でいきますとなんにも不思議とはおもえないですねえ。ところが実際はその説明にもうたいへんな思い違いがありましてですね、考え方は、まっ、実はいっしょで、ただその取り組みが違うんですね、熱心さ、という点でご自分の問題をあくまでもより完全に解決しておきたい。そういう皆さん方の治すことへの熱心さですね、それによって神経症が支えられている。あるいは成り立っているんですね。ですからどこがいかんゆうことがなにも心の方で指摘されるものはない。

 よく若い先生が、「そんなん気にしすぎだ」皆さんもひょっとしたらそういうことを他の先生とかカウンセラーとかからいわれて、苦いおもいをされたかもしれませんですねえ、気にし過ぎている。これは多くは敏感さ、仮にですねえ、そういうことの程度の差のようにおもわれているんですね。ところが実際はそうではないのでして、気にになるということが、後でわかりますけれども、なんにも悪いことはないんですね。皆さんが今日、今晩この場で治られるのですけれども、気になっているということが邪魔になって治りにくいって、そんなことはないんで、気になりっぱなしという状況で見事全治なんですね。なにがいけなかったかといいますと、世間の人がいい加減にしている、自分の生きる姿ですね。それを良い生きる姿をお手本に、あるいは標準にして、そうならないといけないという自分のいわば理想主義、完全主義ですね、これでやっと本当の人間らしい生き方ができるんだ。などというふうにストーリィをつくってしまわれて、そっちへそっちへご自分の状態を変えようとされるんですねえ。ですから今の自分を変えるということから神経症が生じるといういい方にしてもよろしいわけで、このままということがものすごく嫌ですわね。こんな自分が、自分が可愛そうやという人もありますねえ。自分のこんな、まっ、一生こんなんかと思うとそら惨めですわそら。で、皆さん治られたら見通しっていうものが全然いらんです。ところが今悩んでおられる苦しい時は見通しが暗いわけですねえ。見通しが明るくなったらちょっとは治る方に近づくかと思われるんですけれども、全然見通しに関係ないのが全治の姿ですね。

 あの自信ということを世間でも比較的よく取り上げるのは、これは自分の能力についての批判の結果ですね。かなり高く批判することができた場合に見通しが明るくなります。反対でしたら、まあできんやろうとですね、できないし、なんとかせんならんと、これは非常に見通しが暗い。で、自信があるという方が良いと考えられている世間一般のことからしますと、そいうふうに向けていきたい。世間の評価っていうものは、今苦しんでいらっしゃる現在ですと、相当皆さん方に重荷になりますねえ、人の批評っていうものは。けれども治られますと何にもそれ関係なくなるわけです。人がどう思おうと、このままというその今の自分を好きだとか嫌いだとかいわない。ただこのとおりというだけですねえ。

 自分というもの、ものって、ものは実際ないんですけど、自分を描いた時にですね、さあ森田先生はどうおっしゃっているだろう。というふうなことをこう考えて、これでよいというて下さるかどうかですね、考えてみますとそんなことではいかん。と、こういわれないかと、どこか欠点を指摘されないかとこう思われますね。ところが今それは描いた自分についての批判であったわけです。森田先生が今おられたらこういわれないだろうかということですねえ。描いた自己像、自分のイメージについての話であったんですねえ。それに似たことがいっぱいあるわけですわ。ところが治ってみられますと、自己像がどうであろうとまったく良し悪しがない。治ることに関係なかったんですねえ。そこで自己像に関係ないもの、これは世間ではまったくといってよいほど気がつかないんですね、わからないんです。

 で、その自己像に関してこの前は、スライドの時にお目にかけましたですねえ。デルフィの神殿にソクラテスの「汝自身を知れ」という言葉がかけてあった、掲げてあったと。それがもうどうでもよくなってくるわけです。治るまではそれが気になりますねえ。けれども治ったらもう全然そういうことは関係がないんですね。むしろどう知ってみたところでそれは知りぞこないでありましてですね、知ったおかげでみな脱線するわけです。世間の人はそういうところを繰り返し、またしても脱線というようなことを続けているわけですが、ただ救われているのは、日常の仕事が忙しいですから、自分の答えがほんとはあんまりようないと思っていながら仕事の方へまた行ってしまうんですねえ。それで健康なように見えるだけの話で、皆さん方が治られた時に自分っていうものを批評するものが一切ないという、その、まあ、いかにもからっとした、ですねえ、すきっとした、もうただこのとおりという、そういうようなものは世間の人はまだまだ身につかないです。

 ですからいったん病気とおもえるぐらいこの難問にぶつかってですねえ、どうしてこれを解決しようかと、もう悩みぬいているというような状況ですね。これ解決されない、答えのない状態ですから、皆さんそれを答えを出そうという熱心さで、とらわれがひどかったわけですねえ。ところがもう今晩から答えを出す必要がないと。答えを出すより前に実際の作業をなさり、勉強なさり、生活に骨折っていらっしゃる、その時点でそれが全治なんですから、答えを出した方が失敗してしまうんですね、脱線してしまう。

 世間の人はまだこれから悩んで、これから神経症になって、それからなんとか解決しようとして、いろいろ自分についての考えをあれかこれかとかえている。というようなことがあって、それは失敗、どうにもならんという状況で、まっ、ここに来られればいいですが、そうはいかんもんですからいわばお手上げのかっこうでただ仕事をしているというようなものなんですね。

 ですからそこで、この自分についてわからん、自分についてどうにもつかめない、どうしても解決できない、というその状況が真実です。と、こうはっきりいうてくれる人がないと、どこまでもどこまでも自分を解決しようとしていくことになってしまうんですね。まっ、そういうことです。

 つらいおもいを他の人よりも早く体験された皆さん方は、それだけ悩みが多かったとはいうものの、悩みを持っていること自体が病気なのではなくて、考え方が病気なのではなくて、そのとらわれ、それがなんとか自分にとって、すかっと解決されますように。とこう努力されていらっしゃっる、それを今晩放棄されれば、やめてしまわたらですね、見事この場で全治されるんですね。そこのところがこの森田療法のあるがままの素晴らしさ、見事さなんですね。

 宿題を残したままで仕事をしている、というような中途半端な入院生活、治療生活であるというふうにおもっておられるとすれば、それは合理的に考えておられるからです。普通の病気を治すのと同じ態度でここの治療を受けてくださっているという、はじめの頃の難しさっていうものは、ですね、あれはもう合理的な考え方で自分を解決しようとおもわれたからですね。簡単に申しますと自分を非合理、世間的な言葉では不合理ですね、理屈に合わん、筋の通らない、でたらめな、そういう見方で捉えるにも捉えようがない、結論を出そうにも出せないですねえ。そんな状態の宙ぶらりんで、次、わかることよりも仕事をするの方を先にすれば、もうとたんに治るんですね。でもいったん悩みますとその解決が急務であるんですね。優先的なことがらである。というふうに人情としておもえますから、世間の人が、皆さんが今病気であるとご自分でそういわれたら、世間の人はそうおもってしまうわけですねえ。で、自分らは健康やと、こうおもっているんですねえ。ところが実際は、人間というものは、なにかで悩めば、それを自分の力で解決しようとして引っかかることはもう間違いないですから、そういう将来がないとはいいきれませんのですね。神経症になる前の状態っていうのは一見健康なようですけれども、それは絶対、将来にわたって神経症にならない予防ができる、というふうなものではけっしてないわけですから、早かれ遅かれ大きな問題にぶつかれば、そこで問題の解決をするでしょうが、ですね、外の問題の解決をする一方で、自分でどうしょうとおもいますわね、そこなんですね。

 まっ、大地震でも、突如として大きく揺れるという、そのびっくりの気持ちはですね、そのたいへんな状況に、どうその場を逃げるかあるいは安全な場所へ身を隠すかですね、そういうことで手一杯ですわね。ですからそのちょっと後で、「あー怖かった」ゆうて自分の方をなんとかしたくなってきますですね。そこを申しますわけで、その最初の「たいへんだ」っていうところで、どんどんどんどんどん皆さんが逃げて、まっ、今は逃げる話なんで、とにかくその建物から脱出されるということですねえ。それはそれでまあきれいな外の状況の変化に応じた姿です。

 で、普通は問題にしませんけれども、一度それを振り返ったときにですね、たいへんな恐怖というものは、自分を見た場合の自分にも、いわば外の問題でしたのが、自分を見たそっちにも出てきますからね。「あー怖かった」というもうそこからは自分の心の問題になりましてですね、その記憶、思い出というものが災いして、そんなの簡単に忘れられるものではありませんので、心的外傷後ストレス障害という名前のもとにですね、それは年単位、例えば10年たったらもういいかげん阪神淡路大震災のことは忘れたらどうですかと。そんなことはいえたものではないですね。10年たってもものすごく怖いです。と、そういわれる方が、まあそれは本当ですわ。

 で、まっ、そのように心の問題を、だから病気だというふうにいうのは、まったく人がよそ目に見てそういうてるだけのことで、なんのことはない森田療法からしますと、本人さんの人知れず悩み苦しんでいる状態、それを今の真実としますわけですから、すぐ次に実際の生活をはじめるというところに特徴があるんですね。

 ですから心を先に解決しなければならんというのは合理的な考え方で、そういう順番があってはいかんのですね、ですからもう一番はいつも外と。

 で、この前、去年の秋ぐらいに「次、外」とですね、 "鬼は外" やない、 "次は外" と「次、外」といいましたら、えらいうまくいきましたと喜んでもろたことがあります。皆さんご自分でお考えになったらいいんですね。「一番は外」でもいいわけで「次、外」でもいいんですね。

 次自分ということになりますと、これ薬がいるわと、こう思ったりするんですね。あの経験というのは、まっ、お考えになって思い出も経験、うれしかったというのも経験ですが、どっちがいいということはないんですからね。うれしいことよりも悲しい思い出が多かったと、なんにもそれ悪いことでもなんでもない。みんな自分の都合で理屈つけてるだけで、それはみんな合理的な判断によるんです。

 外は、例えばですねえ、外のことは合理的でいいんですね。昨日人から聞いたんですけど、京都盆地でですねえ、京都から北西の方へ向かって、地震の話ですけども、人間が体に感じないですね、感じない、それほど小さな地震が無数に起こって増えているという、それが大地震に関連してくるのかどうかは知りませんけれど、そういうその事実は事実としてですねえ、京大の地震学の専門家がそいうこと発表しているということでですねえ、それはそれなりにこう聞いている。外の問題っていうのは客観的に科学的にとらえて合理的な判断をしなければなりません。その過去の地震の記録というものが大きく今日の地震の予測に役立つんですねえ。皆さんおわかりのように。今は東海地震、東南海地震、そして南海地震ていうのがこの21世紀の前半に起こってもおかしくないといわれている大地震の予測されるものですね。で、ところがそれよりも細かい地震からいくと、京都の北西の方に微細な群発地震が数多くあるとこういえば、それは今なにをお話しているかといいますと、客観的にとらえた事柄です。

 ところが、それはもうそこまでにしまして、心の問題は自分の経験ですぐ対策を立ててしまいます。これはまったくそこで理屈が違いますので、論理の異なる心の世界に、ほんの少しもわけのわかる話を持ち込んではいけませんですね、常識的というときましょう。常識的な解決をはかろうとしてはいけませんと。ですから全治は、皆さん方どういうもんだろうと、いろいろお考えになりますが、なんのことはない過去の経験に関係なく現れるものなんですね。経験にもとづく全治の予測は必ず当たらないわけですからね。そういうことを先回りして申し上げておいたら皆さんのお役に立つでしょう。

 いわゆるヒントと違うんですね。ヒントっていうのは、皆さんが経験されたことからお考えになってるのを助けるもう一つ外からの考えですねえ。考えを、人の考えも足して考えていくと結論が出しやすい。そういうときがヒントですから外のものについてはいろんなクイズがあります。そのヒントがあってよろしいんですねえ。ところが心の問題の解決、ここで一番の問題ですね。この部屋で一番皆さんがはっきりとつかみたいと思っていらっしゃる心の問題の解決は、常識的ではいけません。あるいは科学的ではいけません。それはなぜかというと、心理学というのはいかにも心の問題を自分が解決してみせる。といわんばかりにこう出てくるんですね、臨床心理学と。それは学問の世界でそれだけは成り立っている。その学問としては成り立っているんで、いかんことはないんですけども、それを自分の心に当てはめようと皆さんが思われますと、そこで脱線するわけです。ですから心理学の話がこの講話で出てこないわけですねえ。もっと神経症とはどういうもんかと、いろいろ話をしてくれたら参考になるだろうと、そう期待される皆さんもいらっしゃるでしょうけれども、実はそうではないんですねえ。今なにを申し上げようとしているかが、だんだんわかってきていただいたかとおもうんですね。世間の話、神経症に関するいろんな学説、びっくりするほどたくさんある治療法。まっ、皆さんいっぱい知ってますとおっしゃるかも知れませんけど無茶苦茶に多いわけですねえ。で、それのどれを採用なさろうと皆さんのご自由、そう申し上げたいですわね。ほんとはご自由であるわけですが、ところがですね、どう見てもその心の中の、自分の心の中の理屈に合わない状況をよく見抜いた精神療法はまずないですね。

 で、森田療法だけ理屈のない状況を今晩つくり出そうとしているわけです。それははっきり申しましたら、ぶっつけに、知らなさ、あるいはわからなさ、ですね、どうにもこうにも決められなさと。これで足りるんです。もういっぱい申し上げたいことがありますけれども、このあるがままというものが一つあれば心の問題全部解けます。解けて解けて一生使い切れませんのですねえ。

 そのくらいのものですから、なんか私がいるのとですね、私がおらないのとおんなじことなんですわ。ここまで申し上げたらようわかっていただけるでしょう。とにかくね、私がいたらなんかヒントを上手に皆さんに差し上げる。ところがいなかったらヒントなしになりますねえ。えらい違いだろうと、こう思っておられると本治りは遠い、なかなか治らないんですねえ。私がいるのといないのとちょっともかわらないんですね。それはヒントがあったら邪魔になるんです。全治というのはヒントなしのものなんですねえ。

 もう私もだいぶ先を急いで皆さんには全部申し上げておこうと、こう常日ごろ考えてまして、出し惜しみを一切いたしませんから、もうあれもこれも申し上げたいと、そんなんがいっぱいあるんですね。書いといたらどやって、それはほんとはそうなんですわ。いっぱい書いときたいんですけども、幸い録音していただいておりますのでね。

 それで、それもね、筋の通った話でしたら、はじめから終わりまで全部聞いていただかなければなりませんね、1時間お聞きいただいて最後に、「ああー、おぼろげながらわかった」とかね。ところが5分しかお聞きにならなかった方は、これだけではちょっとわからんなあと、そう思われるかもしれない。ところがこの講話は5分お聞きになっても治りますからね。5分というつまり長さに関係なくお聞きになるそばから治りますんです。こんなうまい話はないんですね。ところが外の話はそうはいきませんですよ。もうものすごく説明してもらわないととてもわからんというのはいっぱいありますね。その録音していただくのでも、その技術的ないろんな面が、マニュアルもあったり親切な方が手ほどきしてくださってやっとこの伝達されていくと、そういうふうに外の問題は十分な準備が必要ですし、立派に理解されなければなりません。

 ところが心の問題は、けっして伝達されてはならないんですね。これが特徴です。「あるがまま」っていうのは、ものではないですから、伝達されるっていうのはありえないんですわね。空気でもね、なんにもないようですけど、これ伝達されてる、何が伝達されてるかというと、この室内の温度はエアコンの働きもありますけれども、均一、まず同じ状態ですねえ、ですから空気を例にするだけでもうだめです。一切伝わらないんですねえ。むしろ皆さんが心の問題、神経症の問題は心の問題ですが、ここで治すということについて聞かないんですねえ。それはもう私聞こえませんと。なんかそんな言葉、昔ありますねえ。そんないろいろいうてもらってますけど、私には聞こえませんと。そういうこう、ちょっとその面白くいうてみるというふうな、あれは歌舞伎のセリフですかねえ。そういうふうなことがありますけど、もう一切聞かない。ということにされたらいいんですわ。なまじっかその誰かに聞いたら、もうちょっとよくわかってうまく解決がつくんではないかと、今度は森田療法でいこうかと、そういうふうなことになったらもう残念ながらうまくいかないですね。まっ、今、例えばね、森田先生が生きておられたらよいのになあ。とこうおもわれるかもしれんですねえ、そんなことはないんですわ。森田先生が生きておられたらこの私が今申し上げてるのと同じことをいわれるんですね。だから聞いてわかって治るという期待をなさらないようにですねえ。とにかくね、頭が皆さんが治られるのにどのくらい役に立つかというと、実は役に立ちませんのですね。それは世間の人は絶対わからないです。その多くの治療をしてる人も考え方やと思っているんですね。

 まっ、認知療法ってのは今、たいへん多くの精神科クリニックでやっているところです。それは頭でわかるだけでなしに行動化されることが望ましいですから、で、行動療法と引っついて認知行動療法と申しますですね。それが日本の神経症の治療としての精神療法の中では大きな顔をしているわけですねえ。ところがこれみんな認知、つまり知ることなんですねえ。今まで知らなかった、気がつかなかったことを新しく知る、わかる、気がついた。と、こういうことで、「はっ、治りました」と、こういうようにいわれて、「そうかなあ」と思うかもしれませんですねえ、その人は。

 けれども知ってわかって治るというようなことはないわけですから、そういう認知に関連したことがらから離れて、今日の今晩の大事な生活を、ビクビク、ハラハラですねえ。これが森田療法の面白いとこですねえ。平気になって、どんなことも恐れないぞ。という心になってからやるんではなくてですねえ、ビクビクしてやる。それはもう薄氷を踏むおもいでやるんですね。それで治るんです。だからけっして別の心にはじめなってから、ぼちぼち治そうかっていうような方針は間違っているんですね。今ぶっつけにこの、なんとも頼りない、ときには怖い、そのビクビクのままでですね、それでこうすぐ今、次は外のこと、まっ、仕事といえばいいですね、あるいは生活というてもいい。次はそれをするというその着手された瞬間が全治なんですね。

 今こう動きを見ていただこうと思って、そうお話してますけども、頭の、考えの作用として申しますと、どんな仕事が急がれているか、どれが大事かというふうなことを考えるという外向きの知的な考えは、これはもう見事な精神作業です。他の治療施設で、森田療法でも精神作業ってことを学会であまりいわないんですねえ。これはもうとっても素晴らしいことで、自分を知る認知療法よりは、外のことを探す。例えば仕事が見あたらんけども、こうなんとか探すというんですね。人に聞いてでも教わってでもすると。これは外向きの立派な頭でする作業です。

 で、自分の心は知ったらいかん。教わったらいかんのですね。あるいは伝達があったらいかんのです。ところが外はまったく反対ですから、十分教わって手抜かりなくですね、目的にかなったやり方を見つけて素早く。心は別ですからね、心は仕方なしにいやいやで満点でありましてですね、とりあえずやると。これでおわかりのように森田療法っていうのは、心を先に建てなおしませんから心はほったらかしでですね。それでこう、「嫌やなあ」とこうおもいながらやる、仕方なしにやるとですねえ。つまり、ぱっとせんわけですわ。世間の人はもっとこう、「しっかりやれ」とこういう。もうそれだけで、あたかも精神療法であるかのようにおもわれているんですねえ。

 私の聞いた一番ものすごいへんな、へたな、というたらなんですけど、まっ、その精神療法はですね、神経症の人が京大で、るる自分の不安を訴えておられた。「そんなことは忘れちまえ」と、そう教授がいわれたんですねえ、これも精神療法ですか。といいたくなりますねえ。そういうことがあったということを申し上げて、いかに森田療法ってのが、皆さんのお気持ちをいじくらないかとですね。こうかえましょう。こうおもいましょうと。こうもっていきましょうとか、そんな心をですねえ、知ってどうのこうのということは、もう一切いわなくていいわけです。今の心で十分足ります。十分間に合います。それが薬です。と、こういくわけですからね。今の心が皆さんの神経症を治す中心的なものなんですねえ。

 不安をなくす薬がずいぶん出回って、もうなんかそういう薬がなかったら、外出もでけんとかねえ、まあ、そういう人に出会いますからね、毎日のように。まあこれはもうたいへんなことですねえ。

 症状、例えば不安を忌みきらいですね、不安があたかも神経症のその中心的な原因、そのいい方、まっ、これほんとはそうでないためにですね、私日ごろ考えてないわけです。原因ではないんですねえ。まっ、不安が原因ではないんですけども。どういうたらいいか、まるで不安が神経症を引き起こしているように、まっ、皆さんも時としておもわれるかもしれませんですねえ。

 ところが不安が原因なんではないんで、神経症の原因は、今の自分の心の状態を都合が悪いもんで、それを嫌って、思い通りの心にしようというその内向きの知的なやりくりですね。自分を変えようとする努力ですね。それは真面目ということで褒められそうです。熱心だということで、はなはだその見上げたもんだといわれそうですけども、これはいち早くこの瞬間にもやめてしまわれないといけませんですね。自分を変えようという、中から変えようというのはもう今晩限り、8時半になろうとしますが、もう、ぱっとかえないかんのですね、それはやめる。

 で、人間ていうのは、外のものは価値的に見ますですね。よいとか悪いとかというのは価値的に見てるわけですね。つい自分も自分の都合でよい心、悪い心っていうものを考えてしまいますですね。ところがそれが引っかかりのもとなんです。心に良し悪しなしと、この言葉をお聞きになるだけで、ここで生活なさるそれが見事、真実に生きる姿であると。と大袈裟なようですけども、いうてよろしいんですねえ。心に良し悪しなしっていうようなことは、どう考えても思いつかんわけですわ。必ず、不安が悪いとですね、安心が良いと、そういうふうにおもってしまわれますから、安心も悪い、いや、安心も良くないとおもわないけませんかとかね、不安も悪いと思ったらいかんのですかとか、そういうふうに聞いてみたくなられるんですね。

 ところが私どもの方は、感じ方を変えよう、不安を安心にしようとかいう、そういうことをしないわけですから、ただぶっつけに今あるその心で名前をつけないだけです。それを不安といわない。あるいは安心といわないですね。

 言葉のないところに、あるいは文法のないところに神経症成り立たない。これを「心に良し悪しなし」のその背景として裏側として聞いておいていただくといいですね。神経症が成り立たない状況なんですね。ですからもうよいも悪いもありませんと、こう申すんですね。神経症はそのよいも悪いもないところに、自分の都合で目についた嫌な心をなくそうとされるんですね。まっ、不安が代表的なもんです。恐怖とかとにかく嫌なものですね。嫌な方を早くなくしたい。そこからはじまるわけです。

 ですから、ぶっつけに今持っていらっしゃる心が一番薬というてよろしいですね。それ以外の心にしようと思って薬を飲んだりするっということは、非常に合理的に考えられた、神経症を病気と見たててそれを治す。という言葉にぴったりの方法ですけども、それをしてますと、いつも今もっている心のですねえ、批評、つまり今のはいい今のは悪い。というふうなことばっかりを基本にして、よい心になりますとそれを持ち続けたい、長く続けたいですねえ。悪い心、不安とか恐怖になりますと、早くそれを消さんならんと、こうなって、まっ、窮屈なことになってくるんですねえ。ところが、このぶっつけの今の心を鵜呑みにして、ですね、もう私申し上げたい通り、言葉は十分考えて練ってはおりませんので荒っぽいですけれども、今の心を心として、今の心を薬としてですね、それで、どのような状況、心の状況にもぴったりなんですね。こんな簡単なことはないです。別の心にしようとするところに難しさがあるんですね。薬もいるということになるんですね。ですから不安を薬とするというふうに置き換えて申しますと、ちょっとおかしな感じがしますけれども、症状を薬とすると。それですね、これはもう一番よう効く薬なんですね。かつて私は、おなかで飲む薬というのを、という文章を書きましてですね、それをちょっと冗談めいてですね。

 3月の14、15、16日に涅槃会というものが各お寺で行われます。それは涅槃というのは消えるということですね。ですからお釈迦さんが消えるということは、お釈迦さんが亡くなるということで涅槃会という法要をいたします。ところが消えるということですから、安心と不安の違いが消えるんです。よいとか悪いとかの違いが消えるんですね。

 で、この涅槃という言葉は、もとはインドの古いサンスクリットという言葉では「ニルバーナ」ですね。そのニルバーナを中国から勉強に行った坊さんが漢字で訳したんですね。それでこう涅槃と。よく似てますでしょう、ニルバーナを涅槃というふうに訳したんですね。

 で、おなかで飲む薬というのは、つまり症状なりなんなり、今皆さんがお持ちになっている心を鵜呑みにされたらもう治りますっていうことですわ。それで名前を「ニルバナール」とこうしたんですね。

 そしたら「それ売ってますか」いうて病院の窓口に来られた方がおられまして、えらいわるいことしたなあと。そんな、おなかで飲む薬なんですねえ。口から飲むんと違うんですから、そんなん売ってるはずがない。誰がどうするかいうたら、ようするに皆さんがおなかに持っておられるそれを妙薬として、そのまま鵜呑みにしていらっしゃればよいわけです。ですから良薬は口に苦しっていうのは、そんなつまらん経験は何もいらないんですね。どんな心にもニルバナールと。ちょうど今日3月ですので、まっ、ひょいとこう思い出しまして、昭和30年代にそんなことを書きましたんですねえ。こんなん長いこと講話でお話したことはなかった。たまたま3月、涅槃の月ですので申し上げた次第です。

 じゃあ、今日の講話はこのへんで終わりといたします。

    2005.3.4



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