三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


他人のような私  

 このたび私のもと住んでいた家を整理していて父がしまい込んでいた袋が見つかって、この12月2日に初めて開けてみた。父は小学校4年生の時に伊賀市の山渓寺の養子になった。その養父宇佐玄拙の届け出の書類の写しがあり、生年月日の年号は江戸時代末期の安政であった。

 そんな中に私の恵日(えにち)幼稚園の1933年の保護者あての通知簿があり、読んでただもう驚くばかりであった。私は1932年に入園し、1年保育のクラスだったので、それは卒園の年のものであった。身長は1年間で17cm伸びて134cmになっていた。「在園中の個性研究」と言うものがあって性格がこと細かに25項目にわたってそれぞれ3段階で評価されている。ここには「総評」をお目にかけるにとどめよう。「知的発達充分。気質も良く、手技もよくできるが、気が弱く、女らしい気分があり、もう少し横着に進取的に導きたいと思ふ」とある。要するにやんちゃの反対である。今まで、とっくに忘れていた幼稚園の思い出が次つぎと湧き出した。先生は着物姿の若い方で、よく観察し、指導してくださったものだと今さらながら感謝せずにはおられない。 

 今夏『日本森田療法学会雑誌』最新号に中村敬東京慈恵会医科大名誉教授の「宇佐玄雄・宇佐晋一を《よむ》」という論文が掲載されていて、父子90余年にわたる仕事が学史的研究の俎上にのせられた。こうなると、まったく他人ごとのような感じで自分を見ることになる。

 次に江戸時代になるが母の祖父斎藤玄昌は蘭方医。栃木の壬生藩で1840年に江戸より9年早く種痘館を開設した。京都の山脇東洋や江戸の杉田玄白よりは遅れたが、人体解剖を行って図譜を残している。1856年には二宮尊徳の主治医として最後の脈をとった。

 遡って1703年12月15日江戸に住んでいた先祖が折からの雪の朝、戸をあけて町の景色を見ようとしたところ、異様な風態の四十七人が静かに通りすぎるところであった。墨田区両国の吉良邸から港区高輪の泉岳寺まで11.5kmを歩いて、主君浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を見せ報告をしにいく途中だった。

 こうして語りつがれた先祖の物語は、医学史上の話題や世間を騒がせた話題のひとコマとなって、自分からは遠のいて行く。いつかは忘れられることであろうとも、自分とのつながりがあるかぎり、自己意識内容である。それを他者意識内容と混同して、いささかもそれらに留まってはならないと自戒している。

   2023.12.7



目次