三省会

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宇佐晋一先生 講話


頭が全治を妨げていた 



 それでは、今日はたいへんいいお話をうかがいましたうえに、どなたもが、よくよく身につけていらっしゃいますことを、壁の上塗りのように、お話しいたしますことになりそうで恐縮なのですが、十分、不必要なことを省きまして、肝心なことだけ申し上げておきたく存じます。

 常にと申しますのは、ずうっとのことですから、もちろんこの今も入りますので、「常に今」というのは、口調をととのえるだけの、まったく同じことを二度いってるようなものです。強いて申しますと、常にというのは恒常性、コンスタントであること、いつもかも恒常、それから今といえば現実性をどちらかといえば強めた言葉になりますでしょう、しかしここで申しますかぎりは同じことです。

 この、真実というのは真の実在でして、そんなら仮の、嘘の、偽物の実在っていうのが、なんかあるかと申しますと、それは、これもわざわざ比べていえばあるということでして、比べなければ、どれもこれも、なにもかも真の実在そのものですが、まっ、強いて、これも強いて申しますならば、考えた自分というのは、いつも本物から離れているという点で真実ではありませんのです。

 さっきの結構なお話の中に、昭和51年のちょうど今頃、お正月に入院しておられまして、その時の日記に「頭が全治を妨げていたのです」と、私が赤い字でお書きしたということを、その証拠であります日記をわざわざお持ちくださいまして、5年前のお話を今のことのように私がうかがいました。

 この、頭が全治を妨げていた。ということは、考えた自分というものが、病気といわれているものの本体で、その考えた自分という妨げが消え失せますと、本来の真の実在が一人勝手に現れて、つまり、治ろうとか、真実に生きようとか、わざわざなさる必要もなしに、もともとそこにありますものが現れて、それで治ってしまわれる。こういう仕組みになっているのが森田療法です。森田先生はそういうふうには説明しておられませんけれども、あるがままっていうのは、考えた「そのまま」とか「あるがまま」というのではなくて、言葉をとってしまった「あるがまま」、「そのまま」なんですねえ。

 ですから上手におっしゃいましたですが、その現在のですねえ「ありのまま」普通ならそこですねえ、それのもう一つ「まま」と、ご本人さんは、お気づきになっていらっしゃるかどうかわかりませんが「ありのままのまま」と、こういわれたんですねえ。これは、もうほんまに徹底なんですねえ。「そのまま」、「ありのまま」とか「あるがまま」とかいっていますが、考えていっているからですねえ。「それのまま」なんですねえ。もう一つ、考えたそれよりも、それをもってくることもない「そのまま」でして、それでもまだお気に召しませんでしたら、もう一つ「まま」をつけてもいいですね、どこまででも。

 そういうふうにして、そのままの徹底というものは、それがどうのこうのという理屈のないものである。それでこの治ることの実際は、本物ほど手間がかかりませんので、いたって簡単であるわけです。ちょっと難しいようなのは、みんな考えた要素。考えて、これが治ったことだ。と、いっている要素が入っているわけですから、それだけ難しくなるんですね。本物ほどやさしいんです。もうそれは濡れ手に粟といいますほど、やさしいことでありまして、しかも時間がかからないんですね。ということは、だんだんそのうちに治るということがないからです。

 ここで、日本の基本的なものの考え方の一つとして、初詣ということをなさるんですね。普段から神様にもまたお参りなさって、いろいろと幸福について祈られるということが、ご自分の今後のご幸福をおつかみになりますためにお祈りされましたと存じます。こういう試験に受かりたいとか、安定した生活をしたいとか、結婚できますようにとか、いろいろこう、たくさんたくさんたくさん、ずうーっとこう、まあいうたら、欲張ってこう、お祈りすることになるわけですねえ。それに対して神さんが、どういうふうにされるかといいますと、そんな欲張りはいけないんで、むしろこの真心をもってやるべきであると。

 これは今、1月8日の京都新聞の夕刊にあります、あるお宮さんの宮司さんのお話を、神道というものをよく表しているものとして、取り上げて申し上げるんですが、皆さん方はその、私がこう申します意味はですねえ、普段ここで、そのまま、あるがままっていうものを体得されていて、そして神社にお参りになって、どうしていらっしゃるのかということです。

 で、この宮司さんはですねえ、真心というのを生活信条にしていらっしゃる。心を通じて語り合い行動する。これが大事なことではないかと、ですねえ。で、菅原道真公の生き方が、この真心を基本にしたものであってですねえ、で、九州に流罪になりましたが、最後には真心が通じて祭神として祀られるようになりました。と、こういうことですね。ついには神様に通ずる、至誠、真心が通ずるという、こういう考え方がありますね。

 ここのは、皆さん一生懸命されますと、それがなんか最後には通じて全治されるというのではないのですから、そこが大きな違いであるんですね。

 つまり神様が、こう最後には認めてくださる。というのは、皆んながあんまり欲張りなので、その欲を持ち出さずに、真心で一生懸命、生活をしていくという、そのことを最後にその試練を経た人、これでよしということで神様が認められる。そういう仕組みになってるわけですねえ。

 ところが、ここのはそうではありませんのでして、皆さんが一生懸命なさっていらっしゃるそのことが、もう全治そのものである、というんですねえ。

 それですから、今年ここへ入院しておられる方が、八坂神社に初詣に行かれましたですね、「八坂神社の神様は、悪い心を持つ者には厳しく、清らかな心のものにはやさしい神様です」と、神社の境内で放送しているというんですねえ。

 まっ、ともかく、そういうのが普通に通ずる理屈に合った話ですねえ。こういうのが宗教と考えられているわけです。ところが、ここのはそうではなくて、悪い心を持っていらっしゃろうと、そんなことは皆さんないとして、まっ、とにかく、清らかな心を持っていらっしゃろうと、ちょっとも心についての値打ちは変わらないわけですね。あるがままとか、そのままからしますと、どれも皆満点でありまして、心の状態によって、早く治られたり遅く治られたりということがありません、というのが特色ですねえ。こういうふうに違いをはっきりとおつかみいただけましたら、全治というものは非常に確かなものです。

 で、さっきの、あるお宮さんの宮司さんのと、今のお宮さんでの放送と、両方あわせて考えますと、どちらも心がけがいいかどうか、という心のあり方が問題になっていて、それが具合が悪いのからだんだん良くなって、ついに神様に通ずるという形で救われると、こういうふうになって、めでたしめでたしと。

 ところが、ここのは、そういうふうに段階を経て、心がけが変わっていくという主義ではありませんのですから、いかにもぶっつけ。まさにその場、その状態が全治にほかならん。と、こういうんですね。

 今まで治らなかったと、長い苦しみの後、振り返えられますときに、それはことごとく、絶対例外なしに、治そうとしておられた、ということであるわけです。

 これはまったく、治そうとしておられた、ということは、その自分の状態を、もうちょっと別の状態に変えようと努力されますことそのものが、この病気のようなものの本体でありまして、いかにこの安心というものを確かにしようとして工夫されたか、ですね、それを熱心にされればされるほど、怖いことが、いろいろつぎつぎ出てきて、たいへんな辛さをなめてこられたんですね。今日のお話に明らかなところです。

 それもその、ふと始まった。今日とくに大事なのはですね、もともとそうではなしに、ふと、そういうことが始まったということをおっしゃいましたですね、ある時から。非常にはっきりしてるわけですねえ。それがその、一生懸命、念を入れて、こんなことではいかんというので、努力されますほど、その辛さがひどくなられた。

 今度は、どういうふうにして治られたかということは、もう一つ大事ですが、良いか悪いか分からないことを、直に味わわされた、ここで。その良いか悪いかは、治るか治らないかとも言い換えて、さきほどお話がありました、良いか悪いかとか、治るとか治らんとか、そのどっちも答えがないんで、それが分からんわけですねえ。分からない、どっちとも答えの出ない、不気味さを味わわされた。と、こういうわけです、ここで。これがなんと、治ることに目覚めていらっしゃる、大事なきっかけになったと、さっきお話くだしましたですね。普通でしたら、もう大丈夫ですとか、安心しなさいということで、すぐ済んでしまいます事柄を、そういう答えを出さずに、どっちか分からんままで、不気味な思いをさせられた。ここのところが大事でして、これが「そのまま」とか「あるがまま」とかいうものの、今早速にある状態です。

 これから、あるがままとかそのままが始まるのではありませんのでして、今早速に心について答えがでない状態が、これが全治なんですね。

 ですから「あるがまま」「そのまま」「全治」「真実に生きる」というのはみんな同じことでして、皆さんご自身を対象に、考えでまとめ上げない状態ですね、言葉に置き換えないとか、あるいは抽象的、観念的に論じないとか、言葉はいろいろかわりますけれど、ご自分の状態を取り上げて、さっきのお話ですと、「ひょいひょいと出てくるのを、それにこう相手にならない」という意味のことをおっしゃいましたですねえ。あとで質問された方のお答えに、「ひょいひょいと浮かんでくるもので、それに取り合わないだけです」と、浮かんでくることを、なんとかしようとしてたのが、これがその治そうとする病気だったんですねえ。

 ところが、その出てくるものを浮かばせておいて、それに取り合わないだけです。と、これで見事に全治されるんです。それは今のこの瞬間でして、別の時に治られる、ということはないのですから、もう治りっぱなしということであるわけですね。

 常に今、真実っていうのは、心がけを変えていくやり方ではなしに、心というもののあり方を、いわば問題にしない、取り合わない、相手にしない、そして実際の生活上のことに相手になっていらっしゃるんですね。

 私の拝見いたします限りでは、あの大きなお仕事を成し遂げられる、そのころ、もう大変立派に活躍をしておられましたです。もう確かなもんだっていうことは、私はよくはたで拝見しておりまして、よくわかりましたわけです。しかし、そういう、のっぴきならん、ご用があってなさるということでなくとも、ですね、こわごわで、今もうどうしようかと思っていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、その方も治りっぱなしの、ずーっと、そのままの引き続いた状態ですから、そこでもう、うんと外のお仕事に欲張って、どんどんなさるならば、もう見事なものということになります。

 そういう点で、新年にちなんで多少申し上げますなら、ここでもうしております、一体どこに向かって拝むかというそのことのない、方位という、この向きですね、ちょうどお正月にちなんでならば、それは恵方という言葉がありますね、今年の恵方はこっちだという、このお宮さんだという、そういうその救われよう、助かろう、幸福になろう、うまいこといくように、というふうなことが方角に結びつきます。そういうことがまったくないのがここの全治の状態で、いかにもその突然に全治がやってくるというふうに申します私の話がおかしく聞こえるかもしれませんけれども、それはもういつもかものことだからでして、皆さんが、わざわざそれを手に入れようとして努力なさるまでもないことであるんですね。ただ、ご自分が別の状態になろうという工夫さえあっさりおやめになりましたら、もうとたんに、そのいつもかもあります、真の実在というものがはっきりしますわけでして、それが常に今真実ということであるわけです。

 どうも、つまらんお話をいたしまして、どうも失礼しました。まっ、このへんで。

    1981.1.11



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