三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


天に偽りなきものを 



 はい今晩は、お待たせをいたします、それでは講話をいたします。

 講話をお聴きになって、本当に治るんだろうかと思われる、その皆さんの疑問に思われることよりも早く、治ることの方がやってきますので、治すよりも先。という、これはこの講話の特徴ですねえ。

 合理的な筋の通った、わけのわかる、なるほどという世間の常識的な治り方。これは心にはまったく通用しませんので、心の世界、言い換えれば自己意識の内容というものは論理性がない、つまり筋が通らない、わけのわからない、まったくこうだと決めたとたんに脱線する、具合の悪い状況をもっておりますのはですね、そもそも最初から心というものが、皆さんの中に法則があって、それで心が生きいきと出てきているのと違うからですねえ。

 世間では、外の物事に対して、皆さんが科学者として確かな経験をもとに組み立てておられる社会についての見方がありますでしょう。学校での勉強も、その経験というものをもとにして将来を予測しながら理論化して、ますます発展させていらっしゃった人間の知能、知恵ですね、あるいは知性。そういう抽象化、論理化した物事が、今日の立派な社会、あるいは文化を生み出したのです。ところが心はそういう仕組みになっておりませんから、社会の仕組みと同じように心もまた思ったとおりに、こうなるはずだという予測が当てはまるかといいますと、まったく当てはまりませんので、一番、その真実、本物は、人間がそれをこうだと決めることのない状態のところに現われるんですね。

 ですから、ほんとに生きいきした本物の皆さんは、ついに今日まで現われることなく、どなたもご自分で、これがほんとの自分だ。あるいは自分のことは自分が一番よく知っている。という世間並みの考えでいらっしゃったとすれば、ほんとのご自分は全然わからずにいらっしゃったといってよろしいですね。

 本当の皆さん方は、どういうときに現われるかといいますと、もう、はっとして、びっくりして、ですねえ、まっ、例えば大地震で皆さんがあわてふためいて、取るものをとりあえず避難していかれるといったような状況の時に、もっとも確かに現われるんですね。

 ですから、本物でない生活っていうのは、考えた、これが自分だということをもとにした経験による生活でありまして、それは確かなように思えてはいますけれども、実際には、まったく本当の皆さん方でなしに、考えに置き換えられた皆さん方で、その置き換える前の、もとの皆さん方は論理の当てはまらない、普通の筋の通らない、常識的に扱えない論理の異なる心の世界を指しているのですから、それが、すべて考えに置き換えられた脱線、本物でない状況のもとに、人生というものについての皆さんの見方が、今日まで続いてきたわけですね。

 その中で、もうまことに当然のことながら、心の扱いは不適当、あるいは妥当性を欠いておりまして、心の正しい扱いというものが、そこにはなされることがないんですね。

 考えた心というものは本物ではありませんから、そこにさらに筋を通してその問題を解決しようなど、手出しをされますと、もともと論理性のない心の中は、夢のような、わけのわからない世界でありまして、それを、まがりなりにも分かる形にした自分というものを持って生活していらっしゃるんですね。

 ですから、もうそれは初めから考えで固めたものですので、基づく心がぐらぐらで、あやふやで、普通の論理に従わない、まったく別の論理の世界ですから、安定した、基になる確かなものはないわけです。したがって神経症、あるいは悩み、そのほかですねえ、皆さんがお困りにになる状態は、常に中から出てくるといってよろしい、ですね。

 外の世界は考え方一つでいろいろと間違いにも気づき、人に相談して、こっちのほうが本当だとわかれば、例えば試験問題でも、どうしても解けないものがあっても、後で回答を調べればわかる、というふうなもんですね。

 ところが心の問題は、人に相談してみても、他の人がそれを上手に解決してくれる。というような世界ではなくて、皆さんお一人お一人、独特の、夢に近いもやもやした、決まった法則性のない世界ですから、それを社会生活に安定した状態で臨むために、一通りの型を決めてその中に自分を安定させる。というふうなことを世間の人はしながら社会生活に臨んでいるわけです。土台、それはもう無理な話でして、皆さん方だけが失敗して、この悩みの中に巻き込まれてしまわれるという、特別の、例えば病気のような状態ということになっていらっしゃるわけではないんですね。

 ですから、皆さん方が治られますと世間の人がおかしい、世間の人の、あの本当のことが見抜けないで、まがりなりに自分をなんとかこれでいいと思える状態にしようとして努力し、それを本当の自分と思い込んでいるのは気の毒であるんですね。皆さんのほうからそう思われることは間違いないですねえ。

 じゃあ世間の人は、今どうして皆さん方ほど悩んでいないのかと、すぐそう思われるでしょうが、ですね、それは呑気だからです。

 皆さん方は、よりにもよって、大変こう、熱心なお方なんですね。物事の解決に几帳面、あるいは完全主義的、理想主義的ともいうべき、これで間違いないという心のあり方、人生っていうものを見抜いていこうとされますので、そう本来できない心のことですから、皆さん方にしてみれば、うまくいかない感じばっかり強い。これを、「自己不全感」と申します。

 で、この自己不全感は、完全主義の、きちっとした几帳面なお方でないと出てこないんですね。

 世間の人は呑気っていうのは、そんなに自分は人に比べて具合悪いところがあると、普通思わないんです。言い換えれば完全主義の傾向が少ないですから、まあまあというところで、自分自身を適当に扱っている。したがって、もっといい完全な自分を目指す。人間としての完成を願うというようなことは、まず少ないんですね。それで間違った心のあり方を平気でしながら、それを悩みとするに至らずに毎日を送っているんですね。そのほうが健康に見えているだけの話で、ああいうのはけっしてよろしくないでんすね。

 で、この、ひとたび自分というものの、思い通りにならない困った状況を、ご自分でしっかりご覧になって、これは困ったと、そこで立ち止まってしまわれた、今回のようなことを経験された方においてはじめて、生きる本当のあり方、真実が明らかになるんです。

 ですから、皆さん方のほうが、まるで、ちょっと見ますと不健康あるいは病気になりかけられたというふうに、世間の人からも見られることがありますが、実際は逆でありまして、ですね、本当の人間のあり方、真実を求めるという、その、真面目な理想主義的な努力というものをなさる方は、それだけ悩みも多いに違いないですけれども、しっかりしたものが、そこで、あるいは今晩ですねえ、この場で見抜けてですね、皆さん方が、ご自分の考えに迷わされない。という状況に立ち至られれば、これほど結構なことはないのです。私どもからすれば、もっともそれが望ましい、もっともそうお願したいところなんですね。

 世間の人がこの境地にたどり着くには、まだまだ、悩みという避けてばかりいたものを、まともに自ら徹底して、その解決の難しさを味わわないと、適当にごまかしておいて済むものではないんですね。

 世間の人は、だいたいものは考えようだと思っていますから、人生もまた考えようで、楽々といけるだろう。そういうのを幸福だと称して望んでいますけれども、実際はこの様々な悩みを心の常として、言い換えれば心っていうのは、解決しようとすると、とたんにそれは悩みになりますので、皆さんの努力の対象になさってはいけないんですね。

 心っていうものは、皆さんが自分の心だからと思って、こうしようああしようと、つい、なさるでしょうけれども、そういう相手にしてはいけないんですね。

 自分、あるいは心ですねえ、この生きているということ。それを考えの対象にしますと、もう途端に脱線して真実が見えなくなります。

 そこで、やり繰りして、なんとか楽になる方法はないかと、皆さん方なら真面目にその解決に骨折られる、考えられるんですねえ。

 そうしますと、人間の考えが自分の心や自分自身を救うということが、ありえませんので、つまり論理が異なりますから、理屈が通りません心の世界のことですから、考えを足せば足すほど脱線が輪に輪を掛けてひどくなって、こんがらかるんです。

 治そうとするという、体の病気なら当たり前の良いことですのに、自分対自分の心の問題になりますと、どこがどうして反対になるのか、ちょっと分かりにくいでしょ。

 それはつまり、体の病気なら客観的障害として、その故障している、いたんでいるところを治せばいいわけです。それは、ちょうどテレビの故障を直すのと同じことですね。

 ところが、心の問題、自分対自分の問題は、心っていうのは、言葉でも考えでもないわけです。文法も入ってないですねえ。それを治すという、自分にとって楽な状態を目指すことで、考えに置き換えるんですねえ。そこで上手くいかなくなるわけです。

 当然のことなんですけれども、最初は筋を通して、心を安心にもっていこうという真面目な努力を、なにも悪いことをしていると思われませんから、一生懸命されるんですねえ。

 努力が足りないのかもしれない。と思って一生懸命努力されますけれども、それはもういくら考えを足しても、人間の知恵というものは、自分を救うことはできませんですね。

 で、これ一つはっきりしますと、もう皆さん方、今までの努力もですが、これからの努力も、心とか自分というもの、あるいは生きることを解決しようとして考えを使うという愚かなことを、もう今晩限りなさらなくなります。これはもう人生上とても大きな変化ですね。

 これが世間の人には、まだないんですね。皆さん方が、一足お先に本物、真実を見極められるということは明らかでありまして、世間の人は、皆さんのような、生きること、自分、心についての悩みがまだできない状態ですね。

 どうしたらいいかということを真剣に考えるところまで行ってない。で、呑気ですから、それで毎日の仕事が忙しくて、そっちの方にかまけて生活に骨折っていれば、この問題は表面上は解決できるんですねえ。それで自分は健康だと、一般には思っているんですね。

 ところが、もし皆さん方と同じように、この問題を真剣に自分の中心にすえて解決に骨折る。あるいは考えつくすということを世間の人もすれば、ですね、これはもう、いっぺんに引っかかって、どうにもならないようになります。

 世間の人が健康で、皆さん方が病気であるという思い方は、いままではやむおえなかったでしょうけれども、私のように精神医学的に横から皆さんのご努力を見せていただいておりますと、これは世間の人のほうが間違っているんですね。

 ですから皆さん方が、たまたま、たいへん真面目にご熱心に、ご自分、心の問題に取り組まれたということで、これだけ苦しまれることは、なにも人に比べて悩みの解決ができない、ということで間違っている。あるいは劣っている。ということではないんです。

 必ずや、こういうところを通って、真実に目覚めるという、この道筋は、もう間違いないところでありますので、皆さん方、諦めてしまわれずに、今のこの悩みの多いあり方、生き方の続きを、今度は、ご自分の答えを今晩限り出さない。ご自分を決めない。ご自分がこうだと主張しない。ということで改めて出発し、前進なされば、立ちどころに見事な全治の状態、つまり真実に生きる姿は瞬間的に現われます。これを保証しているのが私の役割です。

 世間一般の治し方と、まるっきり違いますから、どうか、私の考えによって治そうとなさらないように。あるいは皆さん方が、なにかヒントをつかんで、ご自分の努力で心の問題を解決しようとなさらないようにお願いをいたします。

 これは、ほんとならですね、世間の学校で、そこのところを、ぴちっと指導なさればとても良いんですね。ですけども、それは先生が、皆さん方のように神経質な人とは限らないんですね、やっぱり、ものを良く見極めるには、神経質、つまり自分というものを対象に、はっきりさせようといする真面目な努力をする傾向、性格傾向の人でないと無理ですね。

 教育という事柄が、先生の方からだけ、他人を正しく導くという、それで済むかといいますと、一番肝心の生徒、あるいは学生の、自分対自分の問題が抜けてしまうんです。

 先生対生徒、学生の関係はそれでよろしいんです。自分対自分、つまり、生徒自身、学生自身が真に生きること、真実っていうものは、どういうものかを見極めかねている、できないでいるわけですねえ。そこを上手に指導してもらわないと、いつの世の中になっても、悩みはつきることがないんですね。

 多くの人が、もうとうに若い頃に悩みを解決し、そういうことはもう卒業したと思っているのは大間違いで、年をとって経験的に、すべてがわかってきたというのを、心の問題の解決であるとすれば、それは間違いです。たとえ50、60、70、80、90になりましても、この肝心なものを、年の功で、ちゃんと見抜いているかというと、私の見渡したところでは、そういうことはありませんです。歳をとっている人が、みんな、よく悟りを開いているか、あるいは真実を見極めているか、というと、けっしてそうではありませんです。

 ですからどうぞ皆さん方、この問題を中途半端に終わらせずに、まあまあ、というところで終わらせずに、ですね、ここでの生活に、あるいは日常、他の方との関わりにおいて、ですね、常に自分というもの、あるいは心を言葉で決めないという、簡単にいえば、心に関係のない生活を、今晩、今から始めていらっしゃるように、ですね、そこで初めて真の実在、ですね。本当の皆さんが急に現われるんですね。

 それはどんなのかっていいますと、なんのことはない、生まれたての赤ちゃんの時と同じ言葉のない精神生活でして、ですね、もう、言葉を知ってから後は、心は台無しでありまして、心っていう物があるかのように決めてかかって、それを自分の中心にすえる。というのは残念の極みで、心を自分の真ん中に据えては失敗なんですね。そういうことが分からない間は、心が大事である。と、世間では、そういわないと教養がないように思われるんですねえ。心のことをいうと、立派な人だというふうに思われる。ところが、だめなんです、それは。心をいっている間は、本物でないんですね。

 ですから、私どもの点数のつけかたっていうのは、心のことをいってる人はだめで、ですね、心とか自分とか生きることについて、まったくいうことなく、実際に外の世界、他人とか外の物事ですね、事柄に、じかに取り組んでいらっしゃる、皆さん方の状況であれば、ですね、これはもう、たいへん尊敬に値するんです。

 心の問題の卒業ですね、心の問題から離れている。自分を決めていない。自分に言葉を使っていない。ここまで行って初めて真実に生きる人でありますし、それから、森田療法で神経症あるいは悩み。ことごとく悩みというものは、自分対自分の心のあり方で引っかかって起こるわけですねえ、心に言葉を持ち込んで悩みが起こるわけでして、それが全部解けた人と、という尊敬すべき人柄がそこに現われるんですね。

 究極の目標は、はっきりしているのですが、それを目標とする考えが、ですね、自分に目的を向け、自分がそのために骨折るという形を作り出すために、せっかくの、その狙いが脱線してしまう、だめになってしまうんですね。

 つまり、考えておられることはいいのですけれど、自分というものから、どうしたら離れるか、あるいは症状のとらわれから、どうしたら綺麗に離れた生活ができるかというのは、自分についての考えですから、これで、せっかくの良い狙いもだめになってしまうんですね。

 ですから、その自分対自分の皆さんの骨折りを、今晩かぎり、むしろ負けて、ですね、自分に勝とうとか克服とか、世間では聞こえの良い話ですけれども、その方針をおやめになって、完全に心の問題では負けておいて、どうなろうと自分で解決しようという努力をなさらずにですね、努力のすべては外の、なんらかの目的のある仕事に早く着手されるのがよいですね。

 人のお世話など、とてもそのために立派なことです。あるいは作業と名のつくものならば、ですね、精神作業も立派な作業でありまして、ですね、ほかの皆さん方のお役に立つこと、喜ばれること、あるいは手助けになることでしたら、知恵をしぼって協力すると、つまり精神的に援助する。あるいは仕事上の誘導、導きですね、様々な作業のマニュアルが、ここに作られていますが、そういう、あとからそのことを学ぶ人、実行する人のために、手順ですねえ、いろんな無駄なやりくりを省くための手引き、というものを皆さんが作ってらっしゃるのは、とてもいいサービス。

 サービスというのは、必ず皆さん方の、ご自分の自己犠牲を伴いまして、それだけ皆さんが、そういう、他の人に役立つための骨折りをなさる、という犠牲が払われているんですね。

 この自己犠牲的な取り組みというものは、ここで皆さん方が目的を非常に、はっきり明るく、ほかの方々が余計な遠回りをなさらないように教えておあげになるというようなことは、ですね、ほんの少しも皆さん方が、ご自分の方に良いこと、得になること、あるいは報酬、そういった自分に目的のある事柄など全然考えずにやってらっしゃるんですねえ、掃除がそうです。お風呂の当番がそうですねえ。それから午後の10時に木版を叩いてくださる、ということもそうですねえ。

 そういうふうにして、自分に目的が向かないように。というと、おかしいですけれども、実際は、ほかの人のより良い生活のために。と骨折るっていうことは、もうごく普通に自分の方に内省が向かない、ですね。自分にとって、ということがまったくなくなります。

 仕事上の、これでいいか悪いかっていうことは十分、検討し、吟味を要するところで、その工夫はあってよろしいんですが、これで自分にとってうまくいくだろうか。自分にとって早く治るだろうか。自分にとって不安が消えるだろうか。というような判断やもくろみは、もうすべてが今お話したことの、一瞬にして消えてしまう後戻りですねえ。というほうに変わるんですねえ。

 ただ森田療法では、次の瞬間に皆さん方が、またほかの皆さん方のために骨折られますと、急に、そこに全治が瞬間的に現れるんですねえ。だから、いくら後戻りしましょうとも、次の瞬間によい骨折りを早速なされば、全治はもうお手のものですね。

 これを考え方による。などと思っていると、そこに手間ひまがかかってどうにもなりませんです。自分についての手間ひまは、まったく要らないのでして、心の処理は、まったく皆さんのご負担になるなんらかの事柄が必要ではないんです。

 もう実際は、考えよりも事実によって明らかですので、先に考えること、知ることが必要かっていうと、実際はまったくそうでない。

 考えるかぎりは、難しいと皆さんが思われる事柄でありましょうとも、そこに、自分にとってどうかと振り返られるために、難しいとか易しいとかが出て来るんですね。それを、自分というものをまったく描かない。言葉を使わないで、決めない状態の皆さん方で、そして仕事上は外向きの、世間の皆さんのお役に立つ、より公共的な、ここでしたらば大勢の方に喜ばれる、役立つ事柄に骨折ってらっしゃるんですねえ。そういう瞬間、瞬間、これを全治としますので、皆さんのように、まじめに庭を掃除してきれいにしてくださっていると。もうその瞬間、瞬間、ここに「歩々是道場」と書いて掲げてありますように、一歩一歩のその仕事ぶりそのものが全治、また全治と申して差しつかえないんですね。これを保証するのが、私の役割です。

 こういう保証する人がいないと、どれが本物か、どれが治ったので、どれが偽物であるか、ということがはっきりしないですね。どうしても自分を振り返ってしまいがちなんですね。自分にとってこれでいいのだろうかと、ですね。

 今日も、森田療法をしたら本当に治るんでしょうか。と、こういわれるんですね。そういう方がいらっしゃってましたんですけども、治らないでいるっていうことができない。森田療法では、治らないでいることができないっていうのは、治って治って、治っているほかしかたがないんですねえ。治そうとする熱心な努力を続けてこられた方々ですから、ほんとに治るだろうかと、こういう疑問をお持ちになるので、実行に余念なければ、実行ばっかりしていらっしゃれば、治ってばっかり。といってよろしい。

 三保の松原っていうのは、昔から、天女が舞い降りるという、その伝説がありまして、あの静岡県ですねえ、富士山が見えるという三保の松原。それで天女が羽衣を身にまといますと、それで空を舞いながら帰っていくと、そういうことですねえ。

 で、猟師が、松の木に天女の羽衣が掛けてあるのを見て、喜んでそれを手にいたしますと、天女がですねえ、それを見つけて戻ってきて、それをどうぞ返してください。と、こういうんですねえ。で、返してもらいたいために、舞を舞ってお見せしましょう。と、こういった、というんですねえ。すると猟師が、返すのは返しますけれども、返すと、舞も舞わずに、すーっと天に昇って行ってしまうのとちがいますか。と、こういうんですね。それは人間だれしも、そういうことを疑う心がありますですねえ。そうすると、天女がいいますのに、「天に偽りなきものを」と、こういうんですねえ。天に所属する自分においては、ですね、人をだますような嘘はまったくないのです。と、これには猟師も一本まいりましてですねえ、そこでその羽衣を天女に返すんですねえ。これはうたい、謡曲にあります物語ですね。

 天に偽りなきものをっていうのは、非常に良い言葉であると、そう思われますですねえ。

 この真実っていうのは、皆さん方のお考えを離れた、想像を絶する世界でありましてですね、今まで「これが自分だ」というお考えのもとに生活していらっしゃった事柄が、ですね、その、さっきの言葉でいえば、偽り多き人生であったということです。

 今までは、勝手に心とはこういうもんだ。自分とはこういうもんだ。人生とはこういうもんだ。と、皆さんが、ご自分なりに描いておられたもののすべてが、ですね、本物でなくて、皆さんのお考えに過ぎなかった。ということからすれば、ですね、心の問題は、すべて作り物であったという、間違いない事実の上に立って、これからは心に関係ない、皆さん方の本物の人生が、今晩から現われてくるんですねえ。

 ですから、ここの生活の究極の純粋さっていうのは、綺麗さっていうのは、それはもう考えによって煩わされない、考えに関係のない、皆さん方の行動、様々な行為において早速現われるんです。

 ですから今晩からは、皆さんのお考えは、外の世界、社会に対して使うことになさって、ご自分の問題には、心を作って参加させられないように、参加、心を役立てようとなさらないように、お願いをいたします。

 心っていうのは、けっして大事なものでないばかりか、皆さん方をだめにするんですね。

 心によってだめになった状態というのは、悩みがそうですし、神経症性障害というものが、その代表的なものですね。

 自分を何とかしよう、自分を助けようと思って、その自分の考えで、やりくりして失敗する。というのはまさに、心に言葉を、自分の考えを使ったための脱線で、すべて事実を誤認するんですね。

 これは、精神病の場合の妄想とまったく区別されるべきもので、言い換えれば、いま誤認といいましたが、誤想でもいいです、思い込みの失敗です。

 妄想は、ぜんぜん事実と異なる間違った考えで、その人一人だけに通用する、訂正不可能な考えを妄想と申します。

 これは誤想あるいは誤認でありまして、思い込みのために事実を見損ねたものです。

 それはどういう思い込みかというと、論理の異なる心の世界に、世間並みの常識的な筋を組み込んでストーリーを作った。「これが自分だ」という話を作った、その失敗なんですね。

 それはもう今晩、いっぺんに消えます。ので、なにはともあれ皆さんの外の実際のお仕事や生活、ここでの作業、あるいは精神作業としての勉強ですね。そこから出発されれば、ものの見事に、この誤想、誤認は解ける。つまり自分をきめることのない人生がはじまるんですね、今晩から。これはもう見事な、大きな、画期的な事柄であるといってよろしいです。

 それでその、入院という事柄がですねえ、せいぜい体を休ませ休養の目的であって、そしてこの、そのうちに考え方も穏やかに、気分の変化とともに安定して安心の状態が広がってくる。こういうような常識的なねらいは、もうまったくの当て外れで、早速皆さん方が今の生活に十分緊張を高めて、それはもう森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」と、おしゃったという、このことからも明らかなように、十分に緊張を高めた仕事ぶり、生活ぶり、応対ぶり、ですね。とくに他人に対して、この、対人緊張というのは、治す必要のある、たいへん困った状態と思われがちですけれども、ここで対人緊張、対人恐怖をしていけば、もう立ちどころに本物、つまり全治の状態が現われるというくらいに、それは皆さん方にとって最も役立つ状況、あるいは薬なんですね。

 症状を本気でする。という、その、おかしな努力は、立ちどころに皆さん方の全治を約束する。という具合に、けっしてご自分の、不十分、不完全な、自己不全感と今黒板に書きました。これを解決することを一番にお考えになってはいけないんですね。自己不全感を薬として飲んで、なにより急がれる大事な今の作業、仕事、勉強、その痒い所に手が届くほどの気の利かせようですね、それが森田療法のほかの療法にまったくない、優れた、早速の全治を導く絶対確実なあり方ですね。

 ある婦人雑誌の編集部から電話で依頼されまして、森田療法について話してほしいと。で、その雑誌社に参りましたら、ですね、なんと京大の医学部の名誉教授、つまり以前、私らが勉強してたころの教授の先生が待っていらっしゃって、その先生と対談をするという、まことに私としては緊張そのもののインタビューがありまして、先生と私、そして編集部の女性とですね、その先生が、「森田療法とはどういうもんだ」とこう私に、もう単刀直入におっしゃるんですね、それで私が申し上げたのは、「気配り人生です」と、これ一番皆さん方にも、その雑誌を読む方にも、分かっていただきやすいもんだろうと、神経症をどう治すかでは、これは、ほんとは治らないんですね。

 神経症の説明を、皆さんが何十ぺんお聞きになっても治らないですわねえ。森田療法の治し方はこうだという本を、お読みになって、お分かりになるでしょうけれども、治らないですわね。

 分かるけれども治らない。という、これは、もう今日の説明で十分ご納得がいきますように、治し方っていうものは自分に当てはめる。つまり、「これが自分だ」というものが描かれた上に、当てはめようとしますから、自分を概念化してしまう。自分を考えに置き換えてしまうんですね、そこで治らなくなるわけです。

 おかしな話で、森田先生のお話は治し方が書いてあるわけですから、それを自分に当てはめようとする段階で脱線するんですね。

 ですから、肝心なことは気配り人生で、外へ向かっての十分行き届いた細やかな気配り、あるいは緊張でもいいです。ハラハラして、その場その場を最もいい形で、世間の皆さんにお役に立つような工夫をしながら進んでいるという、それが全治なんですからね。

 こうしたら治るというのは、すべていけないんですね。こういう、こうしたら治るというと、それが、「治し方」になってしまいますから、自分に当てはめようとすることになって、治らなくなるんですね。

 ですから、森田療法の本に必ず書いてあります、森田先生のおっしゃった「生の欲望」ですね、それを裏返せば「死の恐怖」、「生の欲望」「死の恐怖」という、これは、しばしば今日でも、関東のほうでは治療のために使われます。けれども、よく吟味してみますと、これは説明概念でありまして、ですね、どうして神経症の不安が起こってくるか、恐怖が起こってくるかですね、それを説明するために、ですね、生の欲望が強い、言い換えれば理想主義的、完全主義的な、いい人間であろう、よい仕事をしようという皆さん方であってみれば、ですね、そこに自分の粗さがしのように自分の不十分、人に比べて劣等、あるいは弱い、あるいは不十分、といった感じが見えてくるんですねえ。

 よい人間であろうとすれば、それが自分の中に、あれも具合が悪い、これもまあ人のように出来ないという感じが出て来るんですね。それで極端にいえば死の恐怖というんですねえ。

 で、パニック障害でお分かりのように、この、しっかり生きようと思う時に、もしもこうなったら困るという、その不安が強まるんですねえ。そうならないように予防すれば予防したとおりの具合の悪い症状が早速出て来る。という、もうパニックほど困るものはない、ですね。で、なんのことはない、そのパニック障害の状態で皆さんが進まれますと、とたんに治るわけです。

 つまり、用心して、そうならないでおこう。あるいは治そう、と工夫する。自分に対する知的な工夫、考えた工夫が神経症をよびおこすんですねえ。

 ですから、説明概念として生の欲望が強いから死の恐怖が出て来る。という、これは皆さん方を納得させる説明にはなります。

 けれども、治療っていうのは、まともに今の辛さのままで、すぐ早速その社会、その場に必要な事柄、仕事を手始めに、身近なものからしていらっしゃる、という、それでよろしいんですね。

 ですから、説明概念を治療に使うというのは、もう馬鹿げた話でありまして、ここでは、「あるがまま」という言葉を言わなくて済む。

 森田療法では、「あるがままに症状を受け入れて、なすべきことをなす」というあれだなあと、皆さんこう思われる。そういう、分かる形の森田療法っていうのは、分かるということに終わってしまうんですねえ。

 そうではなくて、自分というものが、皆さんのお考えの中から一瞬にして消え去るような仕事、あるいは行動、あるいは表現、態度ですね。仕事への取組み、あるいは、さっきの精神作業としての気配りのように、ですね、その場その場の十分な緊張のもとに、すばやく今なにをしなければならないか、ということを考えて進んでいらっしゃる、それが、はじめて本物の全治の現われる瞬間であるんです。

 ですから、治すためのいろんな準備、あるいは計画ですね、そういう治すためのそれが、かえって逆に邪魔になりまして、ですね、自分にとっての計画も準備も、なんにも要りませんから、実際生活上の十分な取り組みをなさっていただきたい、ですねえ。

 それはもう皆さん方、けっして今予想して、たぶんこうだろうと思っていらっしゃる、そのこととはもうまったく、天と地ほど異なるもので、実行を何が何でもなさる皆さん方におかれましては、間違いない、その場その場の全治が、計画や予測に関係なく、つまり心に関係なく皆さんの生活ぶり、お仕事ぶり、勉強ぶりの真っ最中に、そこに現われますので治らないでいらっしゃることができないんですねえ。これが、ほかの療法と森田療法のきわめて大きな、格段の違いであると、いってよろしいです。

 こうすれば治りますというふうな話は、だめなんですね。そこのところを、よくお分かりいただきたいと思います。

 それでは、今日の講話はこのへんで終わります。

    2013.1.30



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