三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


あらゆる悩みを瞬間的に解く 



 講話は、目にもとまらない速さで皆さん方の間違いない全治を実現しますが、あっという間にその瞬間が飛び去りますから、あと考えで終わられますと、考えが邪魔になって全治を取り逃すんですねえ。

 ですから、治るということに考えを役立てようという、やり繰り算段はもうまったく、今から今晩もう無用でありまして、皆さん方の即この場における生活、それは人の話を聞くというこの行事における皆さん方の実行にかかっているんですね。ですから多少とも賢く、生活上のあるいは治療上のヒントを得ようというような、皆さん方の頭を働かせた治ることへの努力は、まったく無駄に終わります。

 今日もお客さんと話をしてましたら、つい向こうも森田療法の考え方。という言葉を持ち出されましたけれども、こっちは考え方で治してない、というそこが大事なんですねえ。皆さん方が考え方として受け取ろうとしていらっしゃるなら、いつまでたっても治りませんです。

 前の院長が、昭和28年に講話が難しいほどの病気になりまして、それまで週2回しておりました講話を1回減らしますと申しました。今はこうして週3回させていただいておりますけれども、前の院長の時は2回でした。それが1回になるということになりますと1週間に1回、半分に減るだけでなく、非常に間が空くんですね。そしたら、前の院長と同じ郷里の方が入院しておられましてですね、同郷のよしみで気安く「もっと講話をしてください」と、たのまれたんですね。その場に私居合わせまして講話を聞いたあと、これから講話を週1回にしますといったのに対して、もっとして下さい。と、その方がたのまれたんですね。そしたら前の院長は、「あなた講話っていうものは本来ないものですよ」といったんです。

 今にして思えばですねえ、私はよくその方がたのみ事をして下さったと感謝しております。もしその一言がなければ、私はついに、講話というものは本来ないものである。という、前の院長の大事な事柄、私に伝えようと思っていたかどうかわかりませんけれども、大事だとしていた事柄が、ついに伝わらなかったんですね。

 そのような注文をされたおかげで、講話は本来ないものですよと、こう、前の院長が申しまして、これは非常に私、今皆さん方のお役に立つ、大事なこととして、今日の講話の主題ともなるべき重要な森田療法の内容をなすものですねえ。

 で、さっきの話で森田療法は考え方でない。そして講話というものは本来ないものである。このようにして森田療法の究極、皆さんが全治なさる今晩は、ですねえ、この「治療における課題の喪失」です。

 皆さん方は、治療にとって、言い換えれば、ご自分にとって何が必要なのかと、そういうことをまずお考えになるでしょう。いらないことはやめ、必要なことからしようと。ところが、ご自分にとってという事柄は、まったくないのでして、大事なのは、その場の状況における皆さん方の生活であり、お仕事であり、勉強であるんですね。

 ですから、自分にとってということを考えていらっしゃる限り、治ることはありませんです。 

 第1期療法の方が、入院診療計画書を読んだら、自己中心性の打破と書いてありますが、私そんなに自己中でしょうか。と、ちょっと心配して質問されました。あれは世間でいう、わがまま者、自己中、つまり自己中心的な勝手な行動をするという、いわば傍若無人という振る舞いを指しているのではなくて、これが自分だというその自己像ですね。セルフイメージ、マイセルフ、ユアセルフのセルフですねえ、セルフイメージ(self-image)。これをまったく取り上げない、取り合わない。それを課題、主題としない。ということですね。まっ、こんな簡単な、こんなすっきりした完成度の高い治療はありません。ほかのどの外国の治療を持ってきても、瞬間的に治るというようなものより速く治る治療は、ありませんですね。

 京都から久松真一という先生が、この方は京大の文学部の教授で、禅哲学で知られたお方でしたが、皆さんもご承知のユング、C・G・ユング(Jung)という人ですねえ。その先生のところへ、スイスへ訪ねていってですねえ、その紹介状は、いつもお話する鈴木大拙という先生が書かれたものでありまして、ですね、そして「先生はあらゆる悩みを瞬間的に解決する方法をご存じですか」と聞いたら、「ええっ?」といったというんですね。ですからユングは全然そのことには、気がついていなかったことは確かです。「えっ、瞬間的にですって?」とこう聞いたと書いてあります。その日本語による記録が残っておりますですねえ。

 あらゆる悩みを、ときたので、びっくりしたんでしょうねえ。いきなり日本から来たお客が、そんなことをいったもので、ユング先生おおいにびっくりしたと。

 で、皆さん方には、あらゆる悩みを瞬間的に解決するという、めっぽう素晴らしい、この療法の真髄を、この講話が終わるまでに十分体得していただく時間的余裕があります。またそれをちゃんと身につけてお帰りになるというのでなかったら、ここに入院されたということは無駄に終わりますですねえ。

 そういう、たいへん目のつけどころの高い治療、あるいは生き方でありますから、どうか世間並みの、ちょっとした考え方、森田療法はこんな考え方だ。というのをつかんで、これをつかんで帰るのを「概念的把握」といいます。概念的把握におわらないように、くれぐれもお願い致します。

 で、中途半端ということがないんですね、治ってないか全治か、しかないんです。皆さん方は、その中途半端を考えておられるでしょうから、本物が身につかないというのでもありまして、前の院長の一言ですねえ。「嘘でも健康人として生活しなさい」と、もうこれ一言、もうそれ以外にない。といってもいい。皆さんが嘘だと、こう思っていらっしゃろうと、それはご自由ですと。つまり考え方ではないんですから。その考え方はいけませんと、私がいうてるわけではないんです。森田療法は考え方でないんですから。ここは嘘だと、この私のいうことを、疑っていらっしゃって、かまわないんですね。ただ、健康人として生活をするという、それが世間並以上、世間の人よりもっと立派な健康人としての生活ぶりでありますように。それは仕事ぶり、勉強ぶり、人への応対ぶり、その他社会人としての皆さんのふり、ですね。

 精神といい心といい、同じでして、別に変わりません。それは脳に対して心、脳と心ですねえ。この形ある脳と、そしてその現象である精神やもしくは心ですね、その皆さん方の存分に発揮される知的な生活の対象はすべて外の物、人、事柄です。心理学の人の言う、他者意識ですね。それに対して脳という身体のつづきである、あるいは身体の中枢であるその部分、そこにおいては、皆さんのせっかくの、すぐれた知能、もしくは知性ですね。それは自分を自分で統制することが、実はできませんのですね。なんと皮肉な話で、世間の人はなんとでもなると思ってますから、それで、心の持ち方一つだと、うそぶいて、うまくいくと思ってますけれども、自分の心を自分で調整しようと思っていること自体が、大きな不見識、あるいは認識の欠如で、間違いがもうすでにそこに始まっているんですね。

 ですから、心をなんとかしようという精神療法、もしくは心理療法は、そこから救われることはないんですね。つまり心の方は皆さん外向きに発揮され、そしてこの脳のほうの働きは、ただその成り行きのみ。ということです。

 身体に直結したものが、皆さんの精神を、その、空港の管制塔みたいに上手に操っている。皆さんの心は脳で調整されているなどと思われたら大違いで、脳は外向きの精神の現象の起こるその場所でありまして、特に、前頭前野の見事な外の状況の、把握して認識して、理論を上手に打ち立ててそれを発揮して、将来を予測しながら、今しなければならない大事な事柄に見当をつけるんですねえ、その優れた働き、外向きなんです。

 それと同じことを、自分にしたら、いいはずなんですけれども、脳が脳に命令、注文、あるいは納得、あるいは調整ですねえ、そういったことは、およそ不得手でありまして、脳は身体の続きですから、なにをどう考えようと、痛いと思おうと、好きだ嫌いだと考えようと、それを統一的に、自分の、まっ、いわば主人公となって自分を保っていく、自分を良くしていく、皆さんでいうたら治るっていうことの指導者たりえないんですね。

 ですから皆さん方は、もし治療について何かなさるとすれば、他人に森田療法がよく実行できるように、指導してあげる、ということはできるんですねえ。

 自分を森田療法で治そう。これが脱線のもとでありますから、前の院長が、講話というものは、本来ないものですと。嘘だと思うのはご自由ですから、嘘と思いながらも、実際の生活上必要なことをして行きなさい。こういってたんですねえ。

 今日そこからお話して、まあ意外にも、心の持ち方などどうでもよいことが、お分かりいただければ、たいへん結構です。

 森田先生のおっしゃったことで、私たいへん尊敬してやまないことがありまして、その一つは、僕のいうことは信じなくてよろしい。と、ただいわれたとおり実行しなさい。とこうおっしゃったということですねえ。これ、たいへん素晴らしいことでありまして、そんなこという精神療法家、心理療法家がいるでしょうかねえ、とくにその昔ならなおさらのことですねえ。治療者のいうことを信じなくて治るかと、髭をぴんとはやした、大正、昭和初年の偉い先生が、そういわれてもおかしくないのに、ですね、森田先生は、学生服を着て慈恵医大の中を歩いて、用務員の人と間違えられて、おじさんといわれたてたと。ほんとに、びっくりするような話ですねえ。ただし学生服といっても金ボタンではなくて、黒いボタンであったんですねえ、ただ身なりは学生そっくりであった。偉い教授でありまして「僕のいうことは信じなくてよい」。

 で、大事なのは、さあこういうとき森田先生は何とおっしゃるだろうか、ですねえ、というふうに、もう皆さん方が、言葉をたよりにした治し方を、こと問題にされたときに、ですね、それより先にもう火事場と一緒でですねえ、火事だ水だと。そこにすぐ消火器を持って走り、119に電話し、他の人に大きな声で連絡し、などして、それはもう今一人皆さんがいらっしゃった場合の話ですけれども、もし二人以上いらっしゃったら、もう手分けしてどんどんその対策を講じていただかねばなりませんですね。

 もう昭和のことですけどもねえ、壁に貼ってある紙が燃えたことがあるんですねえ。それはもうびっくりしました。もちろん119に連絡して消防車が来ました。まっ、たいへんなことやったんですねえ。それはもう、その晩、寝ないで警戒せよと。あれは警察の人がいわれて、まあたいへんでしたですねえ。そういう非常な事態を連想していただければよろしいことなので、何が何でも最も行き届いた万全の対策を講じなければならないんですねえ。そのためには専門の警官とか、あるいは消防署の人とかの指示に従うと、こういうことになりますね。もう病院の中はただならぬ雰囲気でありました。それはそれっきりで、まっ、問題が広がりませんで、大きな火事にならなくて幸いでした。

 今一つの例として、そういう予想外のですね、それこそ事もあろうにというような状況で皆さん方が、ぱっ、ぱっ、ぱっとこう、行き届いた工夫、気配りでその対策をたてていらっしゃる、これはもう日常的などの事柄にも通じております話で、臨機応変というですねえ。

 で、これがどなたにとりましても、自分にとってということでない。あるいは治療にとってということでないんですね。森田療法において、それがどうかというのでない話。というところに森田療法における課題の喪失というものがあるんですね。治すという課題が、あっさり消えてしまう。というそこが肝心かなめのところでありまして、そこに自分、あるいは心、生きることなどを持ってきて、確かなもの、良いもの、健康なもの、皆さん方がそれは共通して安心を求めていらっしゃるんですね。その反面、不安を嫌っていらっしゃる。というこの感情の好き嫌いの事実に基づいた生活が入院まで、そして今あるいは皆さんにも残っていることであるかもしれないですね。そういう心による生活の計画ですね、まっ、簡単にいうたら、したいとかしたくないこと、それを今晩の方針としてはいけませんですね。したいとかしたくないということから今日、今、行動してはいけません。肝心なのは皆さんから離れた外の、さっき黒板に書きました、他者の意識という、それは人でいえば他人さんです。皆さん方ですねえ。そして精神作業もそこに含めて、広くそれは生活といってよろしい。広い分野の事柄で、そのどれ一つとっても皆さん方の全治の瞬間ばかりです。

 治らないのは自分の状態が目的として、ひょいと出てきた、ということによるんですね。ところが瞬間というものは自分の中でも心の問題が、そこに大事なテーマとして出てくることはありえませんですね。瞬間に、これが自分だということを認識することはありません。自己像を描くこともありません。そういうふうに、皆さん方の瞬間というものは、完全に、自分に関係のある事柄が、見事に成り立たない状況にあるんですね。すかさず今、先ほどの火事の場合のように緊急のその場の事態にすぐ応じてですね、それこそ、あたふたと、ですねえ、あるいは森田先生流に、ハラハラと、ですね、最高の緊張状態で、その場の対策に奔走なさることあるのみですねえ。

 ところが世間の人は逆に、あまり気を使ったらいかんとかねえ。あるいは刺激を避けることの方を勧めたりする。という、いまお話してきたことの反対を治療と考える人が多くて、とかく心を問題にする、あるいは大事にするんですね。このことを入院案内で自己中心性といっているのです。自分の心を大事にして、言い換えたら、皆さん方が、どうしたら安心できるかと考えていらっしゃる、それを自己中心性と言っているんですね。自分の方に目的が向いている。ということです。ですから、それはそっちのけにして、素早く実生活からはじめていらっしゃれば、その瞬間は、申し分ない全治でありまして、その全治、また全治、全治の瞬間、瞬間、瞬間の非連続的な連続が全治の状態ですねえ。

 もうその連続の具合をどうするんかという、そんなことは問題でない、瞬間いうたらもう続かないものです。で、その瞬間、瞬間、瞬間、瞬間というものがこのようにありまして、それを皆さんの感じとしては、続いているなあというふうに思っていらっしゃるだけなんですね。

 こうして、意外な全治の姿が、皆さんのお考えよりも、やさしいというふうに浮かんできますと、ですね、昔の人のいうてたことが、何とこれであったかというふうに、はっきりとしてくるんですね。この、皆さんの左の北側の壁に下手な字で書いてあります「言語道断非去来今(ごんごどうだんこらいこんにあらず)」これはまさにそれをいっているんです。

 言語道断は、今、日本語で、それはもってのほかである。もう呆れていう言葉もないというふうに、極端な非難を強調していうときにのみ使われますね。今、黒板に書いたのはそのようなものでなくて、ただ素直に文字通り読めばよろしいので、言葉でいうことが途絶えた状態です。言語、言葉でいうことが、道という字がいうです。それが分断されているんですね。言葉でいうことが途絶えるのは、コミュニケーションがないということです。あるいは概念的把握がないということですね。わかる、知ることがないということです。言葉でいうことが途絶えて、青で書いた去は過去、赤で書いた来は未来、将来ですね。過去、未来、そして今は現今、現在です。過去でもない、未来でもない、現在でもない。それが去来今に非らず。でありまして、ダルマさんから3代目、ダルマさんはご承知のインド人、6世紀のはじめに中国に来ました。それから3代目がちょうど7世紀です。法隆寺ができたのが607年でありますが、そのあくる年に亡くなったダルマさんから3番目の鑑智禅師の信心銘という、400字近い漢字で、はなはだリズミカルに詩的に、つまり単なる文章ではなく、詩のように書かれたものがあるんですね、それの一番最後の言葉がこれなんです。

 ですから、長いその詩のような形式の禅についての見解が、ずうーっと書かれた最後に、ずうーっといってきたけども、ですねえ、言葉でいうことが、ここでおしまい。そして、事柄は過去でも未来でも現在でもありません、中途半端ですね。そういう、この、ぱっと途中で突っ放されたような論理性の喪失ですねえ。あるいは課題の喪失というてもよろしいですね。こう一生懸命ついていこうと思って、こう分かろう、分かろう、分かろうとしてたら、ぱっと言葉でいうことがこれでおしまい。そして過去でも未来でも現在でもありません。とこの鑑智禅師が、その話をやめてどこかへ行ってしまった、それでおしまい。こういう甚だ奇妙な終わり方ですね。したがってこれは普通なら結論と思いますね。一番最後の行なんですから。ところが、そういうもんでないんですね。まことに、途中で、ふわっと、立ち消えになってしまう。ふわっと、それが終わってしまったと。

 そうしますと、前の院長が「講話というものは本来ないものです」といった話ととても似ている、同じという印象をお受けになるでしょう。皆さんが、つかめない、つかめない、分からない、納得できないと日頃思っていらっしゃる。そのことは何もおかしいことはなかったんですねえ。そういうものとして、私が皆さん方に、つかめないもの、知ることのないもの、あるいは、分かることのないもの、そして、決められることのないものとしてお話している、この講話そのものがそうであったんですね。

 ですから、皆さんに信じていただこうとして、私が何かの治療の話をしている、森田療法とはこういう考え方です。と教科書的に話をしているのではなくて、皆さんが、つかもうとしてつかめないでいらっしゃるままで終わってしまう、という講話であるわけです。そこでお分かりになるのは、つかもうとしていたことが間違いであったという、この一言ですねえ。

 皆さん方は試験に悩まされ、まあ、数えきれんほどのつらい思いをしながら試験を受けていらしゃったんですねえ。それは、その必ずや、しっかりした授業内容の把握ですね、つかむ。内容をよく理解してつかむ。それを、どのような応用問題が出た場合も、ちゃんと憶えたことを発揮して解決ができる。というような記憶において、ですねえ、大変な頭の働きを発揮してこられました。

 ところが森田療法の講話は、そのように憶えること、理解すること、納得することなのではなくて、心の問題、自分自身のこと、あるいは生きるこの姿において、それはほんの一言も言葉を使って、ふに落ちる話として皆さん方が胸におさめられる、という必要がなかったんですねえ。わかる形において脱線する。知る形において違ったものになってしまう。決めることによってその自由自在のあり方が失われてしまう。というのですから言葉と論理もしくは文法が、いかに皆さん方の精神生活を、だめにしていたか、ですねえ。この日本語が、そして日本語文法が、皆さん方をだめにした。まさかそんなことはないだろうと思っていらっしゃったでしょうけども、実はそうなんです。

 ですから今晩、今から心や自分、あるいは生きる姿において、一切の日本語と日本語文法、そして英語をはじめドイツ語、フランス語、韓国語、中国語、皆さんありとあらゆる言葉という言葉を用いない、採用しない。という姿において早速今の作業、今の仕事、今の勉強に骨折っていらっしゃるという、その瞬間、瞬間において、もう全治は皆さん方のものであり、皆さん方は、治らないでいらっしゃることができなくなります。治そうとしたら治らないんですね。ところが私が今申し上げた、心の問題よりも先に実際の生活を、とりあえずなさる、その瞬間において皆さんは、治らないでおこうと思われたとしても治ってしまわれる。というほどの確かさで、広くどなたもの状態を覆っております。

 まず、その速さにおいて瞬間的であるんですね。瞬間以外にありえない。ということですねえ。それから、この、種類と程度を問いません。皆さん方の悩み、あるいは安心、不安の感情の問題など自己意識の内容のいかんを問いません。それから、この3番目にですねえ、どなたもこの真実、この肝心な真実に生きていらっしゃる。真実に生きるという姿が、だれかれなしに実現するんですね。この3つが優れたあり方です。

 他の精神療法、心理療法と比べて、どうのこうのという必要はもう全くないんですねえ。その徹底ぶりは、どんぐりの背比べみたいなものでなくて突出しているのです。瞬間より速い治り方は、どこにもありませんですね。

 そして皆さん方が、健康人としての姿を、ふりを、心、気持ちに関係なく、その場の状況に応じて表現していらっしゃる、その瞬間、皆さん方は、治らないでいらっしゃることができないんですね。つまり、お分かりのように、治そうとしたという、その真面目な、熱心な努力が、皆さん方をこの真実から引き離してしまった。あるいは真実に気づかれないような、妨げになる考えがそこに出てきていたという理由でありまして、どうしたらいいかということはもう今日から問う必要がなくなってしまうんですね。

 このような森田療法も、ほかでお聞きになりますと、とかく分かる話に置き換えられ、理解することによって、理論によって治るのだというような、もって回った方法が、筋道であるかのようにいわれておりますから、どうも手間暇がかかって仕方がないんですね。肝心なものをここで、この瞬間にこそ十分に体得されて、ですね、体得っていうのは、考えによらない身につけ方でして、皆さん方のお考えや判断を用いることがあっては、今説明してきました真に治るということは成り立ちませんから、安心できる答えを目指す皆さん方の推理に基づいた本治りの姿をですね、どのようにも決して描かれませんようにお願いをいたします。

 私の診察が午後になりましたために、看護師からこの第1期療法を概略お話して、午前中は寝ていただいたんですねえ。で、あとでお会いして、その方がですねえ、看護師の人から生まれたての赤ちゃんのようにしていなさいと言われました。と、そういうふうに私に言われました。これはたいへん的確な指示でありまして、ですねえ、今日これだけ1時間、皆さん方にお聞きいただいた事柄が、言葉を使わずに、話によらずに、ちゃんと赤ん坊はできているんですねえ。皆さん方は、できるかできないかというところで、判断に迷われるんですねえ、自分っていうものを描いて、そこに判断を加えられますと、もういけませんのです。赤ん坊は、自分対自分という形が、少しもありませんですね。「対」という字があるとすれば、対お母さんですね、お母さん対自分、この間柄が、そこで生きることが見事に成り立っております。

 けっして赤ん坊が、自分に対して、この自分は、とかね、この心はとか、この問題はとか、そういうことは考えようにも考える材料である日本語と文法がありませんですねえ。お母さんの「お」の字も知りませんですねえ、それで、やむおえず自分対自分の問題は、ほったらかし、というかっこうで、皆さん方にいつもお話する、この森田療法の「あるがまま」そのものでいるんですね、あるがままは言葉のない状態で、あるがままというものがあるのではありませんです。そして、世の中の世界の全てのものが、あるがままである他ありません。

 ところが言葉というのは不思議なもんで、ですね、そうでないものを作り出すことができる。

 もうお分かりでしょう、あるがままと言ったそのすぐ後で、では、あるがままでないものは、とこう考えてしまう。ある一つの言葉を持ち出すやいなや、それでないもの、それ以外のものが、ちゃんと考えで作り出されてしまう。これを、この前もお話しました対立概念といいます。これは外向きの頭の働きの優れた点ですねえ。ですから、その優れた点が、内向きの自分については働きますと、自分の中に安心、不安、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとか対立概念が出来上がってしまって、にっちもさっちもいかないんです。

 ですから、対立概念に縛られた姿で、ここにおいでになったといってもいいくらいですね。ですから、赤ん坊には、全然それが成り立ちようがない。対立概念がありえないんですねえ。皆さん方にはあったわけです。

 ところが第一期療法で、言葉のない精神生活を、あのように一週間、皆さんにしていただきましたんですね。そうしますと、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかですね、この皆さん方が、二つの事柄を片っぽうが良いとか、片っぽうが悪いとか、いうふうに決めつけてしまわれる、そのことがなくなってただ勝手に良かったり、悪かったり、好きなものが出たり、嫌いなものが出たり、いろいろに変わっているんですね。昔の思い出が出たり、今のが出てきたり、ですね、もうほんとに、心の中っていうのは、得体のしれないものでかまいませんわけです。

 外の状況は、皆さん方の優れた記憶力で、きれいに整った姿で時系列といいますねえ、時間の古いのから新しいのへと順番に頭の中に収まっているんですね。

 降る雪や明治は遠くなりにけり

 という俳句をご存知でしょうか。中村草田男という方の優れた俳句として伝えられるものですねえ。雪の中を、中村草田男は、出身校、小学校の門の前を通ったそうです。そしたら中で子供たちが雪を喜んで走り回ってたんですね、それを見て思いついた句だそうです。で、はじめは、

 雪は降り明治は遠くなりにけり

 と、読んでいたのだそうですが、あとで降る雪やにあらためた。

 私のいとこが、この草田男っていう先生の古い弟子でありまして、先生から直接にその話を聞いたんですね。

 というように、文芸っていうのは、外の状況、何年何月というふうな捉え方はいたしませんが、はなはだ趣のあるものですね。

 今何を申し上げているのかといいますと、歴史はきちっと決まりますが、心に関係のある文芸というものは、それが一つの味わいとして記録性を持たないですね。この、まっ、こういう一つの味わい。文芸っていうものは皆さん方の日記にお書きになることとは別な、そういう日記は記録性がありますが、そういうもんでない趣きそのものなんですね。あるいは症状は文芸性をもっているといってもいい。そのまま味わうという、それで十分なんですね。

 はい。症状の扱い方というものは何も決まっておりませんので、直ちに実生活に着手される。という瞬間的な治癒ですね、瞬間的な真実の姿を今晩、十分に、この講話に引き続き体得していただきたいんですね。

 と、いうことで、今晩はこのへんで講話を終わることにいたします。

    2014.2.12



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