三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


科学と宗教 



 はい、今晩は、どうもお待ちどうさまでした。

 皆さんも科学者としてですねえ、いや科学者ではありません。と、そのようにおっしゃる方は、どなたもおられないですねえ。その上に立って文学がお好きであるとか、そのほかの部門がお得意であるとか、いろいろありましょうけれども、教育というものが、文系の方であっても、その基本に科学的な理学的なものの見方っいうのは、小学校以来もう十分に身につけていらっしゃって、それは一言でいえば実証的、実際に物事がこうであるという、そのことを基にした外のものの見方ですね、外界について、それは宇宙空間に至るまでですね。で、それは確かに私も科学者の末席をけがす一人でありますが、ここでよくお話します、大谷大学の名誉教授で文化勲章をもらった鈴木大拙っていう先生がですね、禅の先生ですけれども、臨床心理では今日とても有名なユンクというスイスの先生のところへ行って話をされた。が、それはとても重要な出会いでありましたけれども、鈴木大拙博士の「宇宙的無意識」という、ここでは非常に身近な、皆さん方には始終お話してます、「言葉のないあるがまま」その同類です。同じようなものですねえ。宇宙的無意識っていうことを話題にされたとき、どうしてもそのユンク博士にはわかってもらえなかったということでして、その帰りに、「彼は科学者に過ぎない」と、そういわれたという話をちょっとしていかれたんです。

 ただ科学者であるのみよ。という “He is only scientist.” という言葉。鈴木先生っていうのは英語でものを考える人で、長い欧米の生活、明治時代から、ずうーっとアメリカの生活を続けていた人でありまして、戦争中は日本に帰っておられましたけれども、そういわれたと。訳せば「科学者に過ぎない」という、まっ、ちょっと非常におかしな批評ではありますが、ですね、我々とて、ちょっとたじろぐような発言ですねえ。科学者であってどうして悪いんだろうと、こう思いますですね。

 ところがですね、その実証的な科学の基づいている論理っていうものは、筋が通っている、つまりどなたがそれを聞かれても同じ事柄がそこにイメージとして出る。という、誰がやっても同じ実験の結果が出るのと同じことですね。そういうものですから、話がわかりやすい、通じやすいですねえ。それは学校教育みんなそうなんで、誰かにわかって他の人にはわからんというようなことでは教育にならないですねえ。

 なにが鈴木博士をしてユンクはただ科学者だけだ。科学だけをする人だ。といわしめたのか、ですねえ、科学者に過ぎない、まあそういうこと。それはですねえ、自分の心の中までその科学の実証的な論理で見ていこうとするという、その誤ちですねえ。それは本人自身にわからない、ということを指摘してるわけです。いやほんとに大事なことなんで、おそらく皆さん方も、つい先頃まで科学万能というお考えで、これさえあれば自分の心もちゃんと解けると思っておられた。解決がつくと思っておられたのが、そうはいかないんですねえ。

 その科学の中に心理学、あるいは精神医学という科学の重要な一部分があります。それは事実ですね。それであればいいだろうと。それはですね、心理学者、精神医学者が他人を治すうえに大いに役に立つ。ところがここで問題になってるのは、必ず自分対自分ですからね、自分には応用がきかない。通用しない。という、そこまでユンク博士にはわからなかった。それをいおうとしているんですねえ。

 で、あなたは宗教が必要か。必要と思うか。と、こういうふうに問われた場合に、それは科学と宗教とが、対立しているかのように受け取っている世間の人の質問でありましてですね、いやもうそこまでお話したら講話を聞く気がなくなったと。科学と宗教いうたらもうたいへん大きなテーマであると思われるでしょう。ところがもう非常に身近な、今晩、この場所で大事な事柄なんですねえ。

 科学者である皆さん方が宗教をどうご覧になるか、受け入れられるか、あるいはもう捨て去られるか、ですね、それによって悩みや神経症が治るか治らんかの、まっ、実にのるかそるかの瀬戸際なんですねえ、それを気がつかない。世間の人っていうのはもういたって呑気でありましてですね、この宗教都市といってもいい京都でさえも、その世界宗教会議が開かれる、なんべんも開かれてるんですが、そういう都市でさえも世間の人は、宗教ってものをそう本格的に身につけているというほどのことはないんですねえ。

 で、宗教っていう、考えて捉えたその問題を持ち出してくるから、科学と対立するように思えるので、そういうことを抜きにして申しますなら、もう絶対必要なものであるんですね。

 皆さんの宗教についてのお考えは、目に見える形の、あるいは耳に聞こえる状態で、例えば壮大な建築物、お寺とか教会とか神社もですが、そういう宗教施設のことを考えられますね。そこで行われている行事、そして用いられる経典、お経ですねえ、あるいは聖書のごときもの。イスラム教でもおんなじことですねえ。そしてもう一つ、その宗教をはじめた人が尊ばれる、教祖、ともいわれるんですね。まっ、その批判はともかく、とにかくだれか中心になって、その宗教をはじめて、ずうーっとそれをまた代々受け継いでいくというふうな場合に、一番最初の人が尊ばれるんですね。こういうことを考えてしまわれるでしょう。

 ところが、ここでは全然そういうことがない。宗教色という、それらしさってものがありませんが、もうそれがなかったら神経症、悩みが解けないという、もう絶対確かなものとして、この、どのようにもきめられない言葉のない状態、それはほかならぬ森田療法のあるがままですねえ。これがなかったら治らんのです、実際。つまり、論理的に筋を通して悩みや神経症を解決することはできませんのですねえ、それ保証いたします。筋を抜き去り、理屈を捨てるということが行われた途端に治りますから、まっ、こんな見事にうまくいく、しかもインスタントにその目的が達せられる、こんな素晴らしいことは、ちょっとないんですねえ。

 で、精神療法が、精神医学や心理学の大事な一部門として、まっ、今日ほどよく認められてきた時代はない。昔は心理学の人が臨床心理という、カウンセリングをはじめとして、悩みごと相談に乗り出すということはなかったんですね。で、医学の方では精神療法といい、臨床心理学の方では心理療法といいますが、中身はいっしょなんです、おんなじことなんですね。ただ精神療法というてる方が健康保険が通用しますし、心理療法というてたら高い相談料、あるいは治療費がいるんですねえ。それだけの違いで、精神療法は厚生労働省の管轄下にありますし、心理療法は文部科学省の監督のもとにある、おこなわれるんですねえ。

 で、そういう療法をする人は、ことごとく科学者でありますからですねえ、宗教家がもうまるで手出しができんように見えるぐらいですね。ですからお寺はお寺で別の機会を設けて、大勢の人を集めて、そこで法話をされるんですね、あるいは講座という形でされる。

 ですからまるでこう別のもののように扱われてきておりますが、心の問題を解決するのに、論理的な、わかるっていうことを究極の目的にした方法を用いる精神療法、心理療法っていうものは、もう結果からいいましても、自分についての考えで止まってしまうんですねえ。自分止まりでありまして、その自分が、あっ、こんなに気持ちよくなったと、こんなに落ち着いた、こんなに上手くいった。というような場合に治ったと誤解するだけのことで、治ってはいないんですねえ、ただ気持ちがよくなっただけで。

 まっ、皆さんでも第2期になられましてですねえ、ぱっとこう気持ちよくなったりして、どうしてこんなに長いこと他の人が入院しておられるんだろうと、こう思う方がないこともないですね。そんなんは気分的なものですから、気分がよくなったら、それを治ったと思い、気分が悪くなったら、ああまた後戻りした。というふうに悲観したりされますが、だいたい神経症っていう状態は、自分にとって都合の悪い気分、さっきの身体の調子を気分の基としてよくみて、それに基づいてですね、調子が悪くなったら、それは、どうも気分がすぐれないという、そういうものを仮に病気とみたてるんですね。嫌なもの、都合の悪いもの、例えば不安などはその一番先にあげられるものですね。不安と抑うつっていうのは神経症の主な症状ですから、一つ一つは部分症状といっていいんですけれども、その組み合わせっていうものは、もう多かれ少なかれどなたにも共通しております。

 ですから前の院長は「抑うつ神経症」ってことは一言もいわなかったでんす。神経症になったら気分がすぐれないという、うつであるんですね。こういうもんだとしていましたから、わざわざ抑うつ神経症という一部類をですね、病気の一つの型としてもうけることをしませんでしたんですね。

 森田先生もそのとおりで、普通神経質、森田先生のは全部性質としてみる状態で、病気になる前も神経質、病気の状態になったのも神経質、治ったあとも神経質。という徹底ぶりでありました。これで治るんですが、実際は。それと強迫観念症、そして不安神経症。この3つ、失礼しました、発作性神経症ですね、現在の不安神経症あるいは全般性不安障害、そういうものにほぼ一致する概念ですが、こういう3分類で、抑うつ神経症というものはなかったんですねえ。

 で、抑うつ神経症とすることの便利さはですね、この気分を明るくする抗うつ剤、そういう薬を抑うつという病名をつけておきますと使えるんですねえ、ですから好んで「抑うつ神経症」とこうするんですね。まっ、ほんとに、こんな手の内を明かしてお話いたしますのもですねえ、皆さん方がこれから、どこに目をつけてなさったらいいかということを、おわかりいただくためのことですねえ。

 症状と名のつくことが、病気の部分的な現れということのように普通おもわれているのは、例えば風邪で喉が痛いとか、声が出にくいとか、咳が出るとか、みんなそれぞれ、熱もですねえ、鼻が出るとか、頭が重かったり痛かったりとか、全部これ部分症状ですねえ、そういうもの集めまして、そして風邪症候群というような病名がつくと。これは朝も昼も夕方もそして夜中も風邪をひいているわけですねえ。けれども、悩みとか神経症は眠ってる間は、絶対ないわけですから、目が覚めてるときだけ神経症と。まことに不思議なもんですねえ。これはもうけっして病気、客観的にどこかが悪いという器質的な病気というもんではありませんですねえ。こういうのは、その方の判断で、いわば主観的に、こんなに具合の悪い状態が病気でなくてなんだろうか。とですねえ、もう絶対病気だ。とこうその方がおもってしまわれる。ということで、それ以外の、もっと以前は元気だったとかですねえ、もっと落ち着いていた、イライラしなかった。あるいは何事にもこうすっと手が出たと。少しも憂鬱など考えず、明るい気分でいたと。あれが健康に違いないとこうおもうわけですねえ。よく筋が通っているんです。それをはっきりさせていけばいくほど、具合の悪い状態が病気だということになってしまうんですね。ところが、これがほんとにその説明のしにくいことなんですが、その調子が悪いというのも、心の一コマ、あるいは部分である。さっきから部分、部分ていうてますが、その明るいのも心の表れとしての一部分ですし、つらいとか悲しいとか、苦痛があるとかっていうのも心の一つのあり方ですねえ、部分ですねえ。

 心の重要な要素の一つとしての感情は、様々な感覚をはじめとする刺激によって、いや感覚だけではないんです。例えば、感情が皆さんのお考えでおこる場合があります。「どうしよう」いうたらそれだけで悲しくなりますねえ、うっとうしくなる。「めんどくさいなあ」とかいうようなのも感情ですからねえ。ですから、転んで腰を打ったとか「あ痛た、痛た」とかいうて、それでも感情がおこる。そういうのが普通、感覚によって感情がおこる。そういうふうにおもわれているんですね。例えば、あんな救急車の音を聞いても感情がおこる。消防車の音とサイレンが違いますね。それでもう感情が違う。それぞれ異なる感情がおこるんですね。それほどのことなんですから、他人事だといって、まっ、いくらかは程度が軽いかも知れませんけれども、変化が刺激によっておこるんですね。それは聴覚、音としての刺激ですねえ。

 そのほか、いつもいいお花を活けていただいてありがとうございます。こう見ただけで、はあーっと、こうおもわれますねえ。えらいもんですねえ、こういう色と形のあり方。これは自然界にないわけです。これ絶対ない色と形のあり方を創作されたんですね、創造、創り出された。ですから日本の活け花の歴史は、もう今日でおしまい。ということはないんですね。22世紀、23世紀と、だんだんこう何百年の後に、どうなっていくだろうと、これはもう無限に続くんです。そういうのが活け花の精神、活け花の今後のあり方ですね。言い換えたら、それは美をいかように創り出していくかというその苦心の成果でありまして、それはもう限りなく続くんですね。始まりはありますですよ。終わりがないんですね、芸術っていうのはそうです。日本の活け花っていうのは、室町時代に、仏さんにお花を供える、両側に立てるんですね、そういうのを仏花といいますが、仏の花。それがもとになっていろいろ工夫してこう活けだした、それが床の間の活け花になりですね、また一般の、まっ、こういうところの部屋を美しくする要素として、これも一つの部分ですねえ。

 そういう、視覚的な刺激としての役割を持つようになったんですね、刺激だらけです。言い換えたら、今日人々は、もうそれをストレスと言い換えて、もうストレスだらけっていうふうなことをいう人もいますが、この、刺激っていうのは、そのまま味わえばよろしいんですね、ストレスと称してそれを毛嫌いする必要はありませんのです。ごく一般のものは、ですね、悩みも含めて。

 ただ、温度的なストレスですね、非常な高温、また冷凍庫の中に入ったり出たりするような仕事の方、それから大晦日、京阪電車あれ終夜運転したんですねえ。どうやったんですかねえ、10分ごとに走らせるという、あれはその伏見稲荷大社があるとか、八幡、男山八幡宮があるとかね、そういうことでだっただろうとおもいますけども、たいへんなことですねえ。スタッフはきまっているのに、数を増やして一晩中運転したというのですから、たいへんなストレスですね。

 そういうものとか、それから、まっ、ダイオキシンを代表例とする、もうダイオキシンだけやないです、いっぱいあるんですねえ。そういうものによるストレスと、これはもう今あげましたものは、これはもう避けなければなりませんですね。二酸化炭素も、それから二酸化窒素もそうなんですねえ。排気ガスからくる種類のものですね、そういうものは避けなければならんと。

 ですが、特に一般にいわれている心理的な影響を及ぼすストレスっていうものは、まっ、これからはですね、そのとおりしみじみと味わっていらっしゃるということで万事解決ですね。

 世間でいう医学の説明も曖昧でしてですね、ストレスは全部悪いのではない、幾らかは刺激になってよいので、全部が全部なくさないでよいのだと、今度はどこが境目かわからないですね。そんないい方ですわ。むしろ心理学的なストレスっていうものはそのまま味わうと。そして化学物質、物理的なものなどの決定的に人体に悪いものからくるストレスは避けなければならないですねえ。

 けれども、溶鉱炉でですねえ、溶けた鉄をこの一番高いところから見てて、ずーっと動かしていって、じゃーっとこうあけて、そこで鉄がザーッと鋳型のほうに流れていくんですねえ、ああゆうことやって、まあ一種のクレーンを操作している、ですから高い。高いところは一番熱いわけですわ。その部屋の中で冷房装置どうなってるんですかと聞きましたら、クーラーなんかそんなあるわけないとその方が、ほんとにそれはもう、何をいうてるのかというような顔をして、私を見ていわれましたがねえ、鉄工所の中で働いてる人はクーラーなんか考えてないんですねえ、ぜんぜん。たいへんなもんです。ですから2時間で交代していくそうです。でも2時間てのは相当暑いでしょうねえ。

 今、まあ、ストレスの話しましたが、そういう物理科学的なストレス、極端なものは避けなければなりませんが、世間で問題にしている方の心理的なものは全部、味わっていく、その通り感じていくというそれで抵抗なく、問題になることもありませんですね。

 悩みっていうのはね、悩まないでおこうとしておこるんですね。ストレスが問題になるのはストレスにならんようにしようというその予防的な努力でストレスが増すんですねえ。で、神経症はといえば、これは治そうとする努力によっておこるんですね。もうそこまで見抜いたら、皆さんもう今晩にしてどの神経症もすべて解決しますから、あとはもう外、皆さんから見て世間、あるいは環境ですね、そういう皆さんの周囲にあって取り巻いている、そっちに対する働きを熱心になさるといい。で、それはもう今まで勉強なさった科学のお考えでよろしいんです。

 その、まっ、例えば身体の故障でも、外から見てわかる種類の身体の障害ですね、それはテレビの医学講座でお聞きになる、あのとおりでよろしいんですね。ところが自分対自分の問題になりますと、それはもうわかる形で、こうだああだと賢く解決しようとしましてもですね、それは、そういう自分、治ったら治ったという自分が残りますですね。それで考えた自分が残らない治り方っていうものはないんですね。実はその考えた自分が残らない素晴らしい治り方がここ、皆さん方がこの講話が終わるまでに体得される種類のものですから、ちょっとも難しくない。この講話は、最初お聞きになると難しいことをいうてるように思えるだけで、もうほんとにその、赤ん坊が聞いても大人が聞いても同じことなんですね、それぐらい簡単なんですわ。日本語がわかってもわからんでもいうてるんですねえ。それがもう、人を馬鹿にするなと怒られるかもしれませんけれども、言葉が、日本語が皆さん方を具合悪くしているんですね。

 ここ、何べんも申しますけれども、「言語道断」と書いてあるんですねえ。これは、今ではもうもってのほかであるとか、これはもう絶対悪いとかですねえ、人の批評をする言葉になってますですねえ。まっ、怒っているとか、他人のいうことを褒めてない。必ずそれはいかんという時に使いますですねえ。ところがほんとは、言う言葉がないことをいうているんですね。もうあきれて、もう言う言葉を知らずというので「言語道断」とこういうてるわけです。ですからもともと言葉のない状態ですね。言語ごんご言語げんごですねえ、その道が断たれている状態、その道の断絶した状態。というふうにもとれますし、道という字は、「いう」という読み方ができるんですね。それで、言葉でいうことが途絶えた状態であるというこういう解釈もあるんですねえ。

 言語学が専門の方、しかも中国語の中国語科を出た方で、特にお願いして調べていただいたんです。そしたら言葉でいうことの途絶えた状態という答えが返ってきましてですねえ、まさにそれは神経症がもう絶対成り立たない。神経症なろうとしてもできない状態なんですね。言葉でいうことの途絶えた状態は、生まれたての赤ちゃんもそうです。ですから言葉があってもなくてもといいましたその、日本語を知ってても知らなくても神経症が成り立たない状態ですね。

 それは、ある嫌な困った症状を消すことではないんです。自分にとって不都合である、だから消さなければならない。そういうふうにして消えた状態を健康とするっというのは、普通の論理ですねえ。ところが自分で自分を消す。自分の考えを消すっということが十分吟味されていないものですから、そんなん心の持ち方一つです。とか、世間の人っていうのはもういい加減なもんで、心の持ち方変えたら神経症が治ると思っているわけですねえ。で、そういうことで、かえって今度はまた私たちが騙される。皆さんも騙されるんですねえ。「ああそうかなあ」とこう思うんですけども、実際は特定の心を入れ替える。良いからこの心にするっていうようなことは、まっ、実際はできない相談ですし、心を決めておくっていうこともできませんし、ですねえ、第一この心が悪いっていうのは、自分の今の状況からして不似合いである。不具合である。不都合であると。いうことでそういうてるだけで、自分の判断、自分の物差しで決めてるだけで、頭の責任ではないんですからね。頭はなんぼでも言葉を作り出すところですので、なんぼ心の持ち方きめてみても、次から次へ出てくるわけです。で、もうここまでお話ししたら、もうピンとくるとおっしゃるでしょうけれども、どんな考えがどう浮かんでこようと、それに対応できる素晴らしい療法でなければならないんですねえ。

 まあ皆さんが、日本語だけでは物足りんちゅうて、英語とかフランス語とか外国の言葉も使われると、いうような状況におきましては、全ての世界の言語に対応できるような精神療法でなければならないんですね。

 それは、外国の人がここへ入院されるっていうふうな場合にも、それ考えたら一番はっきりしてますが、役立たないといけない。あるいは昔、ヘレン・ケラー女史っていう、まことに三重苦、目が見えない。言葉が言えない。耳が聞こえない。これどうしてあれだけのえらい学問をされましたかねえ。まあ先生が偉かったっていうこともあるんですけども、日本にもみえましたがですね、ならヘレン・ケラー女史が治せるかと。普通の精神療法ならですね、言葉でいきますから到底だめですね。講話を聞いてもらうわけにいかん。どうしますかですねえ。ところがヘレン・ケラー女史も治る。なんかあの人も悩んだそうですわ。恋愛問題で悩んだんですねえ。で、治ってもらうことができる精神療法を皆さんが編み出されたらいいんですね。それはもう森田療法になりますから、まっ、森田療法といわずに皆さんが、ヘレン・ケラーさんのために、どうしたら救ってあげることができるかと。そういうふうにお考えになったらいいんですねえ。もうその時には皆さん治っておられるんですねえ。ですから自分を治そうとする間は、神経症が成り立っているんですね、もうおわかりのとおりです。人を治すっていうことで、朝から晩まで皆さんが骨折っておられるその最中ことごとく神経症が成り立たない。神経症がないです。ないというていいんです。これで治っただろうかとおもったらすぐそこにぱっと出てくるんですねえ。いかに意識が関係しているかっということ、おわかりでしょう。どんな意識かというたら、今のヘレンケラーの方に意識の中心、明るい中心が向いてる時はおこらんわけですね。これで治っただろうかという自分を明るく照らすしだすと、途端に神経症がおこってくるんですねえ。ですから対象なんです。問題はなにを取り上げて問題にしてるか、それなんですねえ。この講話聞いておられたら、全部お聞きにならなくていいんですわ。途中の切れっ端、どっか、ほんまそれこそ部分で、もう全部治りますですね。

 その、理解でないんですからね。全部聞いてよくわかってから治るんでありませんので、理解を要しない、必要としないんですね。ですからかえって、「ああなるほど」といかう、わかったような顔をしておられると、それは治ってないことになるんですね。

 まっ、普通その、話を聞いて神経症が治るんだろうかと、こうおもわれるでしょうけれどもですね、聞いてわかる話などしている森田療法でしたら、これは治りませんのです。

 上手にわかることから離れ、知ることから離れ、そしてこうだああだとこう決めることから離れて途端に治るんですね。それは皆さんが作業をしていらっしゃる時。こういうことなんですねえ。ですからけっしてその、ぼつぼつ治るっていうことはないです。そのうち治るだろうというのは、その予測は当たりません。必ず、今日ただ今、今取り組んでいらっしゃる大きな問題、難しい作業ですね、ほかの人のお気の毒な問題、そういう時にもう治っているわけです、その時に。これから治るんではないんですね、いつも。例えばこの講話でもですね、「なんやわからんなあ、どういうことだろう」とおもっておられたら、治ってますわ、神経症は。難しい数学の問題に取り組んでいらっしゃる。あるいは受験勉強も、もちろんよろしいんですね。

 NHKっていうのは、ご承知かもしれませんけれど、日本放送、Kは協会ですねえ。昔はそういういい方で、前の院長はその日本放送協会から放送をたのまれて、戦争中ですけど、「神経戦に対する心構え」とかね、そんなんをちょっと憶えてますわ。敵側からいろんなデマが流されてですね、それに引っかかって心配するってなことは、戦争中にあればそれだけ戦力が削がれますから、そういうことはいかんと、まあそういうんですね。ところが前の院長のは、神経を細くして対応しなさいと。てんで世間でいうのと反対のことをいう放送してたんですがねえ。世間でしたら、もっとその神経を図太くしてですね、それでその、どんなこといわれても平気でいる、そういうくらいの心構えがいいと、そういうふうであったんですけれども、反対に神経を細くして、よく対応しなさいと、そういうたんですねえ。

 で、その今それは余談で、受験前の心の持ち方っていうのをたのまれたんですねえ。どうですか、1月、2月ごろ、もうそろそろ新聞に、必ずその、落ち着いてイライラしないで勉強の方に専念できるようにお母さんも気を配って、いろんな、お腹がすきますからいろんなもの作ってあげると。

 このイライラしないようにっていうことは、いつも書いてありますねえ。もうそろそろそういう記事が出てきますわ、新聞に。そういうこという先生がいるから新聞で取り上げるんでしょう。

 ところがここのやり方からしますと、受験前っていうのは心配なものであると。不安でイライラしながらやればよろしいと。これはものすごう的確ですわねえ。イライラしながら勉強したらよろしいいうてるんですから。イライラっていうのはその、こんなイライラしてたらだめだからですねえ、もっと落ち着こうとして、それでイライラが目立った状態が、それが焦燥感ですからねえ。必ず落ち着こうとしている人であるとみてよろしい。

 対人恐怖ってのはですねえ、今イライラでお話したら、そのことからいきますと、対人恐怖しないでおこう。人に会っても恐怖しない自分であろうと努力する人に起こってくるんですねえ。対人恐怖っていうものはそういうもので。ですからそのほか何々恐怖たくさんありますが、すべてそれをしないでおこう。そうならんようにしようという予防の心が強いんですね。これは世間の人はてんと気がつかない。反対におもってますわね。

 それで不安が、わかりますか、不安は安心しようとしてることですわねえ。もうこれでいけばもうよくわかりますわ。皆さんが症状、こんなんいかんとおもっておられることは、すべてそうでない状態になろうという努力の結果であるんですね。安心しようっていうことが強ければ強いほど、不安が増しているわけです。敏感になりますからね、ちょっとした不安に敏感になりますから。

 まっ、皆さん馬鹿な話とおもわれるかもしれませんけれど、美味しいものは食べない。という、それでもういいんですわ。それで昨年の11月とかね、12月とか、なんか最近えらい、皆さんに笑われますけど、手前味噌ですけどねえ、えらい病院のおかずが美味しくなったなあという、そういうふうに思ってたんですねえ。なんでそれ栄養士の人が代わったらそうなるんだろうか、それとも調理する人の味付けの上手さっていうことが増してきたのか、なんやかんやなんか同じようなものでも美味しくなったなあと思ってたんですがねえ。ようするにその、もっと美味しくと皆さんおもわれるかもしれませんが、それはなさらんほうがいいですねえ。で、周囲の人、つまり調理をする人が味付けやら、できたおかずの盛り付けとかですね、皆さん召し上がるお皿の上のこの状況、そらいろいろ美味しくお上がりいただけるように工夫すると。これはよろしいんですわ。自分でもっと美味しいもの食べようというような、これはもう失敗のもとですね。

 ある結婚式行きましてですね、披露宴でしゃべっているその人がですねえ、まっ、テーブルスピーチで何を言い出すんか、「我よけれ」とかですね。ちょうど今の私ぐらいの男の方でしたけどねえ。かなりお爺さんで、「人よけれ」とこういうんですねえ。どういうことだろうと、「我よけれ人よけれ」ですね、それで「我なおよけれ」とかいう。もう吹き出しそうになりますわね。で、その新郎新婦にそんなこというてるんですわ。なんのつもりでいうてんのか、あれ、ちょっと今もうその前後のこと思い出しかねますけどもねえ、なんか、そら人のことも考えて上げないかんけども、やっぱり自分の方がいいように努力しなさいというてるのですかねえ、それ、結局どうやったんか、そこのそれこそ部分だけがまた妙に耳に残っております。でもこれは具合悪いですねえ。絶対その自分をイメージとして留めたら失敗するに決まってますから、自分を考えに置き換えない。そういう状態ですぐもう「人よけれ」でもう立派なもんなんです。

 世間を代表する俗っぽい考えとして、そのテーブルスピーチの一コマを憶えておいていただいたら結構です。あれもし録音をこう全部書き起こして文章にして、文集みたいに残してあったら面白いもんでしょうねえ。ご承知かもしれませんけども、結婚式に招かれたらどんなにいうたらいいかというようなことは、ちゃんと本に書いてあるわけですからね。まっ、そういうのを読んで参考にしてしゃべる人も中にはかなりおられるかわからんですね。

 その、なんでもないような脇役で、普通、司会者っていうのはねえ、知り合いのその新郎か新婦のどっちかの親しい友人などがよく引き受けて上手にやっておられますけども、専門家よんでくる人があるんですねえ。なんにも関係ない、時々アナウンサーなんかよばれたりして、そういうこと士気を盛り上げるうえにいいアイデアなのかもしれません。そら上手にやりますわね、まっ、良し悪しは別として。そのたいへん苦労する人がいるんですね、それはカメラマンなんですね。それはその、今度は結婚式場の写真の方を、あれはそういう会社があってですねえ、そこの指示通りにやるわけですけれども、たいへんなもんなんですねえ。第一失敗が許されないんです、絶対に。ほんのその一瞬を逃したらいけないんですねえ。まあたいへんな苦労だということですねえ。ですから式が始まるもうずいぶん前から行って、その中をぱあーっと歩いてねえ、いろいろこう工夫してどうして撮ろうかと考えて、それで待ち構えていて、パッパッパッパッと撮っていくわけですねえ。それはその痩せるおもいで撮っておられる。それを会社へ持っていくんですねえ。そこから、ずーっと立派なアルバムになっていくところまではその会社の人がやるわけで、その内容を憶えておいてちゃんと伝えなければならないですねえ、そういうことなんです。たいへんなんですねえ。あんまり目立たないです。そしてその知人も一緒に撮ってますでしょう、パッパッパッパッと。そういうのに混じって、なかなかその専門家として撮るっていうのは、苦労がいるという話でしたです。そうしますと神経症は起こらないんですねえ。今すべて人のご存知ない、あるいは隠れた陰の場所で役割を担っている人っていうのは、まっ、縁の下の力持ちといいますけど、まったくそういうところがありますねえ。

 ここでもそうです。皆さん方がずいぶんつらいおもいを隠して、いろいろこう協力して、他の人を助けておあげになるという、これはもう最もかしこい治り方ですね。この人にどうしてあげたらいいかというそれが、皆さんの今日のテーマであればですね、それはもう絶対神経症は成り立たない。絶対出てこない。あったものも消えてしまう。と、そういうことですねえ。

 で、皆さんのおかげをもちまして私は神経症になることができませんのですね。ですから私が自分を、心の安らかさを願って、ちょっとこうしようかああしようかとかですねえ、心の持ち方を変えようかとか、そういう非常に俗っぽい考えをもってきますと、もう途端に神経症になるんですねえ。

 今の心を変えようとするんですね。今の状況に良いとか悪いとかいい出すともういけませんのですね。外には良い悪いがあるんですわ。それはもうあって別におかしくはないんです。ただそれを「自分にとって」とこうやるともう引っかかりますですね、そういうとこですねえ。 

 どうも、美味しくいただきました。ありがとうございました。

 それでは、今日はこのへんで失礼をいたします。

    2007.1.12



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