三省会

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宇佐晋一先生 講話


全治の答えはいつも「それでない」  

 どんなによい答えを出しても「よろしい」といってもらえない。他人がもっとよい答えに気がついて、さっさと治るのではないかと思えて気が焦るが、実際はけっしてだれかが賢い答えを出してめられ、涼しい全治顔をして喜んでいるわけではない。

 全治の状態を目ざそうとした長い間の苦しみは描いた自分の理想の姿を目標にしての努力の姿であった。これがいけなかっただけのことなのだ。しかし心のあり方がなにより大事がられる社会では、心をおろそかにすることはとんでもない不真面目な態度と評価される。そのためなかなか心の工夫から手を放すことがむずかしい。まったく教養とは自分の心の扱いがうまくなることにかかっているように思われる。

 禅の僧堂で修行中の雲水さんが、夜中までも熱心に座禅し「無一 む一」と唱えて無になろうとして真剣に努力するという話を聞くにつけ、どういう指導が行われているのか、気になって仕方がない。禅の修行の方式は鎌倉時代以来の伝統を今に伝えて、最高のものとして尊ばれ、批判は自他ともに許されないものとされている。私が気になるのは、自己意識内容である自分の心を対象にして、「無になろう」とするその態度である。われわれからすれば自己意識内容には指1本触れず、意識はつねに他者意識のみを働かせて、仕事にとりくむことが、全治の早道であるから、自己意識内に「無」という言葉を持ちこんでさえも大脱線なのである。

 これを書いているうちに70年もまえに聞いた前三聖病院長 宇佐玄雄(げんゆう)のことを思い出した。いままでどこにも書いたことのないもので「僧堂で修行するより森田療法を受けたほうが早く目が開ける」といっていた。父は小学校4年生のときに寺に養子にもらわれて得度し、早稲田大学卆業ご軍隊生活を経て、大徳寺僧堂で川島昭隠老師のもとで修行をした。医師になったのはそのあとである。入院者に朝から晩まで作業をさせ、「神経症になることもでき、また治ることもできるのが本治りだ」と説き、全治の状態を言葉できめることがなかったのである。  

   2021.2.3



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