あの東の壁の瓢箪は掛けてからどのくらいになるだろう
本日はAさんからたいへん詳細で皆さんのお役に立つ、良いお話を承ることができまして、大変喜んでおります。
Aさんは三省会で行事係としてお骨折りくださり、かつて奈良市の西大寺や秋篠寺、大安寺のそばにある塔頭など、奈良時代のものを短時間で効率的に見せていただき大変感謝しております。
天竜寺の管長、平田精耕老師が三省会に来られた時、管長さんと二人だけになりまして、「森田療法というのはどういうものですか」と尋ねられました。私は「安心、不安に関係なく、その場の必要なことをするという治療です」と答えました。すると管長さんは少し驚かれて「ほんなら禅とおんなじこっちゃ」と言われたのです。「ただし、禅はそれを言葉を使わずにやるのです」と付け加えて言われました。私は他の皆さん方にもAさんのように、自己意識を明るくせず、外へ、外へ、他者意識のみを明るくして進んで行っていただきたいのです。それで十分でありまして、禅かどうかは無関係に、とにかく今何をしなければならないかということに気を配られるようお願いします。
実は私は現在、三百ページほどの本を書いている最中です。日本の弥生時代の末から古墳時代にかけての日本独特の直弧文と名づけられた文様の成立と歴史の本を井上さんという方との共著で作成しております。でも最近はいろんなこと、地名や人名がなかなか思い出せないことが頻繁で、娘に調べてもらったりしております。
前の院長、私の父がまだ医師になる前に早稲田大学を卒業しまして大徳寺の僧堂に入りました。そこのお師家さん、つまり指導される老師が川島昭隠老師という方で、父が最初によろしくお願いいたします、と申し上げましたら、「どこの学校を出てきた」と質問され、「早稲田大学を出て参りました」と答えますと、老師は「その学校を捨てて来い」とおっしゃられたとのことです。要するに賢く考えをめぐらして何とかしようとするな、ということです。このことは私どもにとって非常に役立ちました。どんな答えを出しても、いつも本当の答えはそれでないのです。本当の答えは目の前の大事な、急いでしなければならないことにさっそく手を出し、考えを巡らすという、身体作業、精神作業です。心理学的に申しますと、他者の意識、外向きの、他人に向いての意識です。
それでは会場からのご質問にお答えして行きます。
最初は間違い恐怖の方からです。「間違っているのではないかという意識が出てきてもそれを無視してやり続け、実際に間違いが発覚した時点でそれを修正するということで正解でしょうか」というご質問です。
無視という言葉は要りません。気になりっぱなしで、とにかく無視はやめてどんどんやって行く、というのが極意です。
次の方は、「先生は心を概念化してはいけないとよくおっしゃいますが、心を形として捉えてはいけないということでしょうか」というご質問です。
まさに分かる形にしない、自己意識としては真っ暗ということ、まったく取り合わないことです。これは徹底してそうなさるとよろしいです。
次の方は、「自分の心に用事なし、そのまま前進、ということを忘れて、自分の心をやり繰りしてしんどくなってしまいます」というご質問です。
それに気がつきましたら、すぐ次の急いでしないといけないことを、次から次へと、今何をしないといけないかということばかりを考えてなされば、その瞬間、見事に治ります。先ほど会場からMさんのお話にもありましたが、南無阿弥陀仏というのは、今、ここが極楽、あるいは幸せな所ということでありまして、南無阿弥陀仏で救われるとか、阿弥陀浄土に生まれるということではなく、南無阿弥陀仏と言っているここが浄土そのものなのです。まさに今が幸せ、本物の皆さん方そのものなのです。
次の方は、「森田療法では『田の草を取ってそのままこやしかな』ということを説かれますが、その格言はどういう意味ですか」というご質問です。
意味ということには関係なく、今の症状、気になること、答えがなかなかでないこと、それらすべてそのまま、とりあえず手を出すということです。
今日、「趙州東壁掛胡蘆」と書かれた掛け軸を持って参りました。八世紀、中国の唐時代に趙州禅師が趙州観音院におられたのですが、修行僧が老師に、真実とは何か、悟りとは何かを尋ねる時の常套句として「いかなるかこれ仏」という文言があるのですが、趙州禅師がそう聞かれた時に、「あの東の壁の瓢箪(胡蘆は瓢箪のこと)は掛けてからどのくらいになるだろう」と答えられたと、「趙州禅師語録」(普通は短く「趙州録」)に出てきます。趙州禅師は話をパっと壁の方、瓢箪の方へ向けたのです。何のことはなく、他者意識にパっと向きを変えてくれたということですから、何の意味もありません。要するに、「田の草を取ってそのままこやしかな」をわけのわかる意味のある言葉に置き換えて、解説を聞くというようなことは必要ないということで、「瓢箪掛けてどのくらいになる」と答えをそらせたように、どんな答えを上手に言っても、答えはいつもそれではない、ということです。その場での、すぐ必要な大事なことに取り組んでいらっしゃるということが肝要なのです。
2025.3.9