三省会

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宇佐晋一先生 講話


興福寺宝物館の旧山田寺仏頭

 猪熊兼繁先生(当時京大法学部講師のちに教授)が古美術同攷会で、当時を思い出し、興奮の面持ちで語られたのは興福寺東金堂における昭和12年(1937)の旧山田寺仏頭発見の実話である。

 月日は聞き忘れたが、その時興福寺東金堂の修理事業に関わっておられた先生が仕事を終えて奈良駅に向かっていたところ、同僚の古建築技師黒田昇義さんが走って追いかけてきた。「大変だ。須弥壇の下から古い金銅仏の頭部が見つかった。すぐ見に戻ってほしい」と興奮していった。ただごとでないと感じて急ぎ足で戻ってみると、その仏頭は薄暗い須弥壇の下ではあったが、古いものであることは間違いない印象で、言葉を失ったという。その後専門家の間にも年代に関する意見が一致せず、白鳳時代(奈良時代前半)から平安時代まで諸説入り乱れるなか妙珍恒男氏が「鼻と耳の間の隔たりが大きいほど古い」という説を出して「これは白鳳時代だ」という見解を述べ、皆が納得したのであった。

 その後歴史上の探索が進展し、意外な事実が浮かびでた。それはこの仏頭は飛鳥の北部にあった山田寺の本尊で、天武天皇が宮廷の臣蘇我倉山田石川麿が讒言にあって死を賜ったことが後に判明し、そのことを悲しまれた天皇が彼のために685年に一寺院を建立し、山田寺と名づけられた。その時の本尊がこれであろうと考えられるに至った。

 ではなぜそれが奈良に運ばれたのであるか。実は治承4年(1180)平重衡の南都焼打ちに逢い興福寺は焼亡したが、ようやく復興した本堂には本尊が間に合わなかった。それで文治3年(1187)山田寺の本尊を僧兵が押しかけて奪いとり興福寺の本尊にしたことが判明した。しかし応永18年(1411)に堂と共にまた被災した。その時に残った頭部が応永22年(1415)に再興された東金堂に納められたのである。このようにして制作年代までも判明して、だれも異を唱える人はいない。

 明るく爽やかな尊容は飛鳥彫刻のもつ古拙の堅さをすでに脱して、若々しい溌剌さに満ちている。日本仏教彫刻も7世紀後半にはここまで進歩していたことを明確に示すものである。「昭和の人間は法隆寺の壁画を失ったが、興福寺仏頭を得た。」と評されるのも如何にももっともといわざるを得ない。
   2024.7.25



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