三省会

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宇佐晋一先生 講話


理論学習で治った人はもっとよくなる  

 入院によらない森田療法の普及に尽力された長谷川洋三氏は水谷啓二氏のあとを受けて、森田理論を学習する方式を創案し、自助グループに対して新しい道を開かれたかに見えた。

 しかし森田先生は皆に「ぼくの理論を学習しなさい」とおっしゃったであろうか。それどころか、日本最古の古典「古事記」抄をわざわざ印刷して、治療の一環として、起床後と就寝前に10分間ずつ音読させられた。これは面白くもなんともない古文で「天地初発時(あめつちのはじめのとき)、高天原成神名(たかまのはらになりませるかみのみなは)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次高御産巣日神(つぎにたかみむすひのかみ)、次神産巣日神(つぎにかむむすひのかみ)。此三柱神並独神成(このみはしらのかみはみな、ひとりがみとなりまして)、身隠(みをかくしたまいき)」といった読みにくく、わかりにくい文章を声高らかに朗読するのである。これで全治するのだから、理論学習など余計な話なのである。

 理論学習だけについていえば、他者意識に属することがらであるので、健全な行為であるはずだ。それがなぜいけないかといえば、「これで治る」といっている点である。理論学習をする人も、治りそうな、もっともらしい話につられて期待がふくらむわけである。ところが「治るという考え」は自己意識に属するので、そこに知性をもちこんだらどうにもならなくなるのである。ここで賢明な皆様方はなぜ古事記抄を朗読することで全治するのか、もうおわかりになったであろう。それは「これで治る」とはだれも思わないからである。

 森田療法の4時期とも、治そうとするとらわれから完全に離れて、自己評価のまったくない他者意識の世界での生活である。それは治そうとしないことの徹底である。入院外とはいえ森田療法に理論学習を組みこんだのは、実をいえばなくもがなのしむべきことであった。理論学習を離れた所で日常生活に骨折れば、その場の意識は間違いなく「あるがまま」で、その心境は「純な心」にほかならず、どなたももっとよくなられるのである。

   2021.3.19



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