三省会

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宇佐晋一先生 講話


珍皇寺(ちんのうじ)の薬師如来

 1947年 "六道詣り" で有名なこの寺にたのまれて筆で経木に戒名を書くアルバイトに行った。白いかたびらを着て、5人で横1列に並び、参詣客が戒名を紙に書いてくるのを写せばよかった。中には書いた戒名を持たずに来る人がいて口でいうのを書かされたのには難儀した。はじめから「適当に書いてくれ」という人がいて困ったが、隣にいるお坊さんに相談すると「何々家霊位」でよいとのことであった。黒くすすけた本尊薬師如来はそれでも眼をパッチリと開き、やや微笑んで座り、親しさを覚えた。

 そういうご縁で当時の住職坂井田仰山師は学生の私に寺史の編集をゆだねられた。その奥様は大阪女子医専の第1期卒業生で、のちに関西医大教授の坂井田いづみ博士である。またご住職は臨済宗の慰問僧として1942年父と東福寺光明院住職横幕適泉師と3人で朝鮮東岸に寄道しながら遼東半島から北京に同行したご縁があった。

 さて珍皇寺には寺史の記録が残っておらず、全て江戸時代以前の古記録から読み解かなければならぬ。判明している記録を整理すると、

 ①『三代実録』(平安前期)によれば仁明天皇崩御後の五七日(三十五日)忌法要を深草陵の近隣七ヶ寺で行った記事の中に寶皇寺がある。寶の略字が珍であることからすれば当寺のこととなり、平安前期(仁明朝)かそれ以前に始まったことになる。鳥辺野寺とも呼ばれていた。

 ②江戸時代の文献(『山州名跡志』や『都名所図絵』など)では千観内供の建立と伝えているが、この千観内供の出自がわからない。

 ③東寺の長者慶俊僧都が入唐する時に、この寺の鐘を地下に埋め、「自分が帰国するまで撞かないように」といい置かれた。しかし寺僧が内緒で掘り出して撞いたところ、それが唐まで響いて慶俊僧都に知られたしまったという。この話が当寺が東寺に関係があったことを予測させるのである。

 ④考古学的には当寺出土の平安前期の唐草瓦の中央にたて書きで「左寺」と記したものが「日本考古学講座」の『瓦』関野貞(1933 雄山閣)に出ている。左寺とは東寺のことである。(のちに同氏『日本の建築と芸術』に収録)

 ⑤今回薬師如来像は修復をうけ、頭部のみが平安前期とわかった。明快な眼の表情が東寺講堂の諸仏像に似ているのももっともなことである。
   2024.4.25


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