三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始め(5)

<高野山にのぼる>
 講師は古美術専門誌『宝雲』主幹の森暢(とおる)先生。この方のおかげで明王院の秘仏「赤不動尊像」が拝観できるというから、その嬉しさで、南海難波から高野山の下の極楽橋終点まで立ちっぱなしなのも苦にならなかった。深山幽谷に分け入って、しかも登り続けている時に、森先生が「この鉄道を敷いたのは親父なのですが『こんな怖い電車に乗れるか』といって、一生乗りませんでしたよ」と笑われたが、学生たちは急に恐怖をおぼえて、皆おし黙ってしまった。終点からはケーブルカーとバスで山道を走り宿坊明王院に着いた。

 明王院は本堂や根本大塔に近く、その北北東にあった。やがて夕食になると、学生の身分には不相応な本格的な精進料理で、旅館なみであった。吸物にはしめじが入っていて、森先生が「これはしめじですね。どこであがる(生える)のですか」と訊かれると、すかさず小僧さんが「ケーブルカーであがります」と頓智のきいた答え方をして皆を笑わせた。

 このお寺の赤不動尊像は、前の晩から宿泊して早朝に拝観することになっていて、翌朝は厳粛な気分で朝食前に本堂に坐った。

 そこはまだ薄暗く、何事が始まるかという緊張がみなぎっていた。まず住職の方が、塗香(ずこう)という粉末の香を手に少量ずつ配られ、「これを手のひらでもみなさい」といわれ、やがてなんともいえぬ香気がただよい出した時に、正面の画像が明るく照らし出された。赤不動は斜め左向きに、直接岩の上に腰かけ、左足を踏みおろし、右脚は曲げている。全身は燃えるように赤く、顔面だけは血液の乾燥した赤さのようで異様な成りたちをおぼえる。異様といえば、額の三環状の金色の飾りがにぶく輝くのもそうである。背後にメラメラと焔が立ちのぼり、多くの火焔の間の暗さとの対比が絶妙である。普通は明王の左右に制咜迦(せいたか)と矜羯羅(こんがら)の童子を従えるが、これは明王の左側に重なって立ち、無表情で精悍さに乏しい。明王の右手には倶利伽羅龍王の巻き付いた剣を膝に立て、左手には人を救う絹索を輪にして持ち、それが異様に白い。口から小さい牙が上下に一本ずつ出ている。眼は瞳孔の虹彩の周囲に朱色の輪を施している。衣服に梅花形の黒点を散らし、華やかさに飾られる。本像は寺伝によれば智証大師(円珍、三井寺の開祖、814~891)が比叡山の横川(よかわ)の岩の上で修行している時に、目の前に赤不動が現れたのを感得して、頭を岩にぶちつけてしたたる血で写しとったものとされてきた。実物を前にして顔の色だけは、他の体躯の色とは異なるのは血液が混入しているのではないかと思わずにはおれなかった。すさまじい不動明王の怒りの場面であるにもかかわらず全体におおらかな気分がただよい、けっして鎌倉時代の美術の宋風リアリズムの影響を受けていない暖かさが感じられた。

 のちに濱田隆氏の鎌倉時代説が出てくるが、少しも鎌倉リアリズムの冷徹さが見られない点を見落としているのではなかろうか。私は平安時代説に賛同するものである。
   2023.9.23
参考文献 - 濱田隆、堀内末男『日本古美術全集13、金剛峯寺と吉野・熊野の古寺』集英社 1983

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不動明王二童子像<赤不動>明王院
    



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