三省会

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宇佐晋一先生 講話


理論離れのすすめ 

 森田正馬先生の偉いところは「僕の理論を学習せよ」などとはいわれなかった点である。それどころか、感情には「普通論理ニ従ワヌモノアリ」と洞察されて、主観的な感情に起因する神経症には理論的解決の及ぶところではないことを明らかにされた。このことはきわめて重要な森田療法の根幹をなす事がらであるにもかかわらず、今日森田療法の解説書からは無視されているのは、はなはだなげかわしいことで、私はこれから書くことができるかぎり理論学習に反対して、正しい森田療法を伝えて行きたいと決意を新たにしている。

 森田療法が成立をみた1919年に東京慈恵会医学専門学校を卒業した宇佐玄雄は、入学前に臨済宗大徳寺派大本山大徳寺に掛塔かとうして、雲水としての修行をし、論理的なことばによる自己概念を捨てることの体得を経て、森田の精神医学を学ぶ幸運を得た。彼は森田の治療法の優れた脱論理性にいたく敬服して、この療法のなかに流れる理屈抜きに現実生活に手を出して神経質の症状の不成立に導く妙法を、三聖病院で実施して好成績をあげた。

 それは実に鮮やかなやり方で、一切の症状の説明や解釈はもちろん、不安をはじめとする症状の経過さえも患者に語らせず、日記に書くことも禁じて、ただひたすら第1期から第4期に至る療法の遵守と、昼夜を問わず作業へのとりくみに余念のない生活を実行させたのである。そこにもし療法の極意を問われるならば、ただ「理屈抜き」の一語をもって趣旨としたのである。昭和28年ごろ真言宗の僧侶である方が入院された。私はいっしょに庭で麦刈りをした。この方ははなはだ悟りがよく、大きな木の板に「如々真にょにょしん」と自ら達筆で書いて彫刻し、文字の所を白緑びゃくろくの絵具で塗って、院内に掲げられた。如々真とは、ことばに置き変えないもともとの今の姿が真実である、という意味である。

 禅僧が主治医になって真言宗の僧侶の心の病いを治すということに森田療法がどうかかわったか、という点に皆さんも関心を深められたであろう。森田先生が「僕の治療法は不問療法だから」とおっしゃったことはあまり知られていないが、維摩経ゆいまぎょうに伝える文殊菩薩の「不問不説、もろもろの問答を離る」の話のとおり、立ち所に真実に生きる道、すなわち森田療法の全治が実現するのである。症状のままの作業ほどすぐれた妙薬はない。

 それでは前院長の全治とはどんなものであったか、はっきりと記録に留めておきたい。前院長においては一切心の状態の如何いかんを問うことはなかった。普通ならストレスが解消され、不安が消え、悩みも解決された状態が全治と考えられやすい。ところが前院長の治癒像は「神経症になることもでき、また治ることもできるのが全治ですよ」であった。この不問と呼ぶにふさわしい心の無条件のあり方は、全治とは何かという究極の姿をまったく決めない所に特徴があり、あらゆる状態のまま働く時に、つねに如々真であり、全治なのである。

   2021.11.14 



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