三省会

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宇佐晋一先生 講話


心に関係のない生活の前進を  

 「心なんかどうでもよい」などといおうものなら、皆からさんざんに叱られるに違いない。心の問題をきわめるということが、人間としての修養の姿と信じられていて、心をないがしろにした人間のあり方はだめだといわれる。

 数年前に『心を整える』という本が大変よく売れて、京都府と市は 秋の文化事業の共同テーマにその言葉を選んだ。それに気をよくして、その本の編集者から「数万部売れたので、あなたも心について書いたら・・・」という手紙が私に来て驚いた。そこで「私が書いたら『心は整えようとするのが間違いだ』という主旨のものになるから、あの本が売れなくなるだろう」と返事したら、それきりになった。

 ここで徹底して生命の事実に接する森田療法の立場からすれば、考えによる自分の姿、あるいは心の事実は、真の自己意識内容そのものではなく、すでに自分の考えによって概念化され、きめられたものである。生命の事実はそれではなくて無限に多様な、変化してやまない、きめられない状態である。

 森田の「あるがまま」は自分の考えでとらえようとしてもできない変容の姿そのもので、ことばと論理できめられることのない、概念化のまえの生き生きした生命の発露はつろなのである。

 恐らくほとんどすべての人びとが、つかんだと思って喜ぶ「治ったと思う瞬間」は、そのかぎり脱線のはじまりにほかならない。真に治るのは「治ったかどうか」の問いも答えもないところで、いきなり生活、仕事、勉強、芸術活動や感謝を始める働きに現われる。

 心にもないお世辞をいう、という時の「心にもない」自分のあつかいがきわめて重要なのである。もちろんお世辞よりも、世のため人のために役立ち、喜んでもらえるものを選んで早速さっそく取りかかるに越したことはない。自分の心について考えている間はだめで、他人への働きで役立つ前進こそ真の全治のはじまりである。

   2020.8.3



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