三省会

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宇佐晋一先生 講話


初期仏像文化の諸仏像の裳のひだについて

 さきに誕生仏の由来に関連して、小牧正眼寺の誕生仏の年代観について述べた際に、図らずも飛鳥時代諸仏像の裳のひだの表現にも時代による変遷があることに気付き、その形式学的変化が時代判定の物差しになるのではないかと提案した。

 その観点から飛鳥時代と、それに続く白鳳時代の諸仏像の造像上の変容を詳細にみて、年代判定のみならず造形理念の変遷の考察に役立つのではと気付き、繁を厭わず、観察することにした。飛鳥、白鳳時代の仏像は、けっして少ないわけではなく、この時代の特徴的な半跏思惟像だけを見ても現在世界で50体が知られている(年代の降るものも含む)。本論では裳のひだまで明瞭にわかるもののみを対象とした。

 法隆寺の諸仏についてはすでに述べ、裳懸座のひだとひだの間にできる特徴のある褶曲の間にイチョウの葉の形の偶然の出現が見られ、飛鳥後期にはそれが消失して、ハート形に近いものに移行するのが見られた。

 さて、わが国の仏教文化の源流であった百済や新羅ではどうであったであろうか。韓国の国宝78号銅造半跏思惟像(6世紀後半)においては明瞭にイチョウの葉形が整然と並んでいる(写真5 図5)。ところが韓国国立中央博物館(旧李王家徳寿宮博物館蔵)韓国国宝83号銅造半跏思惟像(写真6 図6)においてはイチョウの葉形のひだは見られず、様式化から脱却しようとしているのが目立つ。しかも、「そっくり」とまで評されている広隆寺木造弥勒半跏思惟像(通称宝冠弥勒)(写真7 図7)に比べて、その差異は顕著で芸術性において広隆寺像が優れている。広隆寺像のほうがイチョウの葉形をよくとどめている点で、先行性を認めたい。次に中宮寺の木造半跏如来像(写真8 図8)においてはわざとらしいひだの文様化が緩く、ハート形の崩れた姿と見ることができる。すなわち様式化よりも流麗な線のほうが好まれるようになったことを示している。次に能登薬師寺三尊像の中尊薬師如来(写真9 図9)になると独自の簡略な様式化が進み、やや現実離れをした装飾性は他に類を見ないもので、中央の仏師集団を離れた人の手によるものと考えられる。次に大阪羽曳野市野中寺の銅製半跏思惟像(写真10 図10)には丙寅の銘があり、その実年代については長い論争を経て今日では666年とみなされている白鳳前期の基準作例である。その裳のひだはわずかにハート形の名残をとどめているが、型式学的見地からすれば著しくない。最後に広隆寺のもう一体の半跏像(通称泣き弥勒)(写真11 図11)を取り上げよう。聖徳太子から秦の川勝が仏像を伝授されたという伝説のなかにあって、先述の一方が優れたアカマツで作られた半跏思惟像であり、この材質の判定は1948年京大で研究中の小原二郎博士(のちに千葉大学名誉教授、筆者はしばしばご自宅や古美術同好会でお目にかかった)の検証による。それが韓国製とされる今日、このクスノキで作られた像は頭髪の様式は奈良時代的で、多くの謎に包まれている。その裳のひだから見ると、強いていえばハート形と見られないこともないが、明確な様式化が見られない。これは新しい時代の到来を示すものであろう。

 以上6世紀後半の韓国の半跏思惟像からわが国の飛鳥〜白鳳期の仏像の裳のひだも型式による再検討を論じてきたが、それはある種のファッションの歴史的変遷であった。仏教伝来の当初は韓国仏像の様式に導かれたが、やがてそれはわざとらしい類型化を来たし、その規範性が緩んでくるとともに、ひだの要素で飾ることの分離散漫化を来たしつつ白鳳時代に入り、その新たな流麗化を喜ぶ風潮のなかに、その姿を消していったのである。

   2023.5.12

写真(1~4は「花まつりに思う」を参照) picture1-2 picture2-2 picture3-2 picture4-2

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(写真5)韓国国宝78号
銅造半跏思惟像
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(写真6)韓国国立中央博物館
(旧李王家徳寿宮博物館蔵)
韓国国宝83号銅造半跏思惟像
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(写真7)広隆寺木造半跏思惟像
(通称宝冠弥勒)
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(写真8)中宮寺木造半跏思惟像
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(写真9)能登薬師寺銅造薬師三尊像
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(写真10)大阪羽曳野市野中寺銅造半跏思惟像
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(写真11)広隆寺木造半跏思惟像
(通称泣き弥勒)
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