三省会

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宇佐晋一先生 講話


毎日の生活が全治  

 皆さん方からそれぞれのご経験と、それを超えた大事なものについて、結構なお話を次々とお伺いして、非常に感銘を覚えた次第でございます。三省会は他の森田療法の集まりと違いまして、まったく論理を持たない自己意識の在り方というものが特色です。ですから肝心な心の問題は言葉で伝達されることはなく、したがって私が何か肝心なものを申し上げても、皆さん方に間違いなく伝わることと治ることとは関係がありません。

 また、森田先生の思想がこの療法に特に大事であるということもないのでして、この三省会におきましては、まったく論理性を持たない自己意識の在り方が大きな特色になっております。

 最近、NHKで京都国立博物館において開催中の「親鸞 - 生涯と名宝」という展覧会の広告めいたものを繰り返し放送しておりました。その中で親鸞聖人が直々に記した書、教行信証の「行」の巻の終わりに正信偈というのを書かれています。その真ん中のところに「煩悩を断ぜずして涅槃を得」という肝心なところがテレビで映されておりました。実は昨日博物館へ行って見て参りました。

 前の院長である私の父、宇佐玄雄は大徳寺で修行をした禅の僧侶です。親鸞聖人は浄土真宗ですから関係はないのですが、肝心かなめの根本のところでは、論理性がないというところで一致しています。1944年にある真宗のお坊さんが診察を受けに来られまして、「この頃気分がすぐれない、お経を読んでも砂を嚙むようです」と訴えられました。すると前の院長は、「あなたをお見受けしたところ真宗の方であろうと思われます。親鸞聖人が正信偈に『不断煩悩』」と言いかけたところ、全部言い終わらないうちに「いや、お恥ずかしい」とその真宗のお坊さんは言われ、それでいっぺんに治られたのです。父が申しますには、そのお方がこれまでで一番早く治られた言わば見本です、とよく講話でも話しておりました。

 真宗で親鸞聖人のおっしゃっていることに、すべて阿弥陀如来にお任せするというのが南無阿弥陀仏です。南無というのは言うならば負けた状態で、自分は他者意識である阿弥陀さんにすっかりお任せして、もう何もかもあなたのなさる通りという表明になるのです。そのことが実に詳しく教行信証に述べられているのです。そして肝心なところは正信偈に極まっているのです。不断煩悩得涅槃はこうしたら涅槃、安楽の境地を得られるというように、一見論理性があるように見えますが、実際は、もう不断煩悩というそれだけで立派に本来大事なものはそこに現れるわけです。それが診察室で見事にその実際の姿が、その診察におられたお坊さんの中に現れたわけです。もう何も説明ということなしに治られたことが大事なのです。

 そこで父はそのお坊さんがどういう人かを聞いてみると、大谷大学の教授であったのです。専門は陽明学で、父はその後、近くの医師、医師会の方々に呼び掛けて、先生の陽明学の講座を三聖病院で継続しておりました。その先生の師匠が大谷大学初代学長清沢満之きよざわまんしでありまして、有名な言葉に、「自己とは何ぞや、これ人生最大の問題なり」というのがあります。清沢先生は哲学者なのです。ですから親鸞聖人の不断煩悩得涅槃とは相容れないものでありまして、私も大谷大学の学生相談委員を何十年も従事しておりましたが、今、大学を離れて批判的に申しますなら、「自己とは何ぞや」とやっていたら解決することがないのです。いくら哲学面で追及が行き届きましても、自己という概念が邪魔をして本当の南無阿弥陀仏にはなりません。親鸞聖人は日常生活がそのまま極楽往生ですと説法されました。普通、偉いお坊さんが亡くなられると、紫の雲がたなびいて、阿弥陀如来が迎えに来られたというふうな絵で表現されますが、親鸞聖人絵伝を読んでおりますと、そういうことが一切なく、修行者であった親鸞聖人は普通の亡くなり方を絵伝でも描かれています。

 森田療法と浄土真宗とはもう十分立派に通じるものがあります。父は「森田療法の全治は、お釈迦さんの悟りと一緒ですよ」とよく言っておりました。父は大徳寺でどういう体得をしたかと言いますと、理屈抜きという体験をしたのです。「理屈抜き」という禅の極意が森田療法の中にしっかりと生かされているわけです。ですから、皆さん方にとっては、この毎日の生活がもうまったくぶっつけに全治そのものであり、自己意識を問うことがまったくないのです。いきなり他者意識、対象が外なのです。

 目の前のものを見て、それで次々と全治して行くのです。例として、今、机の上にあるノートとかお茶碗とかペットボトルのお茶を一つ一つ見てそのありがたさ、その発明者の苦労に対して次々と感謝して外向きの考えが出てきましたらもう早速の全治です。父は仕事、勉強を行動に移すことをやかましく申しました。ですからもう一切自分がこれから解決の対象になるということはないのです。

 どうか皆さん方はこの理屈抜き、脱論理性、したがって、非伝達性、分かるということがない治り方をしっかりとつかんでいただきたいと存じます。

   2023.5.14



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