三省会

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宇佐晋一先生 講話


見ることの創造  

 精神医学において心とは表現である。感情を伴うので表情といい換えてもよい。京大の精神医学の旧教授室には初代今村新吉教授以来、能面の若女が掛けてあった。しかもその年の新入局者に与えられる最初の研究テーマはきまって「表情」であった。

 普通考えられる表情は客観的に見た表情についての種々相である。一般的な教育現場では割り当てられた時間数からしてそれで精一杯であろう。しかし厳密にいえば表情の成り立ちには、それを見る人が予想されねばならない。一つのものを見るといってもさまざまである。漱石の虞美人草のはじめのほうで宗方君が比叡山を見て、「まるで動かばこそ、といっているようだ」と批評する場面がある。私はつくづく文芸を読む力の無さに困り切って、ここで立ち往生した思い出がある。あらためて調べてみると、「ば-こそ」が動詞の未然形についた場合 [(中世以降終助詞的に用いて)強い否定の意味を表す。…ならば,…などするか。…絶対ない。] それはさておいても、一つの場面を一人ひとりが異なった見方をしているということが今の私にとっては重要な事実である。文芸の成立もそこにかかっていると思われるからである。

 文芸がものを観察することの不安定さの上にたって成り立つという事実はその元になった不安定さのなかに論理をこえたものがあるからではないか。美の無限の広がりのなかに脱論理的なものがあって無限の創造性が発揮され、美の創造がとどまることなく進展してやまないのではないか。人の精神を知ろうとすることが無限に美を生み出してやまない事実を見て、知ろうとすることのなかにひそむ「見ること」の作用が、意外な美の論理を超えた創造者であったことに気付かされ驚きを禁じえない。心を診る診察の場面において、思いもよらずまるで絵画を観る時と同様な美の創造者になっていたのである。

   2023.3.12



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