三省会

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宇佐晋一先生 講話


釈宗演老師  

 中国の現代語で「老師」といえば一般的に先生という敬称であるが、古来日本の禅宗では特別の意味をもった最高位の尊称である。それは長年の修行によって、指導を受けた師匠から、透徹した禅意識の持主であることが認められ、雲水の指導者にふさわしいと認可された人であることを示すもので、師から印可の証明を得た師家分上の人として敬われ、その多くは大寺の管長である。

 明治から大正にかけての誉れ高い鎌倉円覚寺ならびに建長寺の管長を兼任した釈宗演老師(1860〜1919)は1893年のシカゴ万博の一環として開かれた万国宗教会議に日本の臨済宗の代表として出席し、佛教や禅についての、2回の講演を行った。その英文表現の構想を練るのに協力したのが弟子の夏目金之助(漱石)であり、現地での通訳をしたのが若き日の鈴木大拙であった。この講演がアメリカへの仏教東漸の最初とされている。その釈宗演の晩年に流行したインフルエンザに罹患し、近くの東慶寺で療養中の1919年10月に父宇佐玄雄は今後の身の振り方について相談に伺った。(このことは『釈宗演日記』に「宇佐師来る。昼食を共にす」と記録されている)

 父は早稲田大学を出て大徳寺僧堂で修行し、伊賀市山溪寺住職となってから東京慈恵会医専に入学して、寺務をしながら医師となった。卒業の1919年は森田療法成立の年である。その後東大精神科に入局し、呉秀三教授の指導を受けた。

 さて療養中の釈宗演老師は、父に「寺を出なさい」と命じ、この鶴の一声で京都で三聖医院(のちに病院)を開くことができたのである。父が医師であることを聞いた老師は自ら進んで胸襟を開き、「診てください」といわれたので「聴診器を持ち合わせておりませんので」とハンカチを拡げて胸に置き、そこに耳を当てて、診察させていただいたところ、老師は「フランスの医者がこういうことをするそうじゃな」とご満悦で、「宇佐さんに食事を差し上げろ」といわれて、肉料理のご馳走をいただいたうえ「治ったらアメリカに行きましょう。アメリカはいいですよ」とまで言われたそうである。しかし翌11月惜しまれて遷化された。

 老師の慶応大学時代の友人である谷村一太郎氏が偶然三聖病院の役員であったが、その人がいわれるには「釈君は皆から偉いといわれているがいっしょに渡し舟に乗った時に、グラッと傾いただけで、すぐに真っ青になっていた。あれではまだダメだ」という批評をされたそうである。父はその意見には不賛成で、よく講話でこの話をして、老師の真青となった不安のままが本当の姿であると説いていた。父のこの解説がなかったら、世間の多くの人が誤った考えに同調したことであろう。

   2023.3.6



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