三省会

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宇佐晋一先生 講話


しゃべる人は治りません 



 昨晩、ここのスライドの時間の前、研修会がありまして、京都の精神科医会、精神科を専門にしている人、どのグループに属する人も、どの病院の人も、開業して街でメンタルクリニックをやってる人も、ですね、一堂に会して「精神医学再考」考えなおす、精神医学を考えなおすという題のO先生というんです。意識の問題を中心によく深く極められた方であります。

 皆さんに、おそらく刺激の強い言葉として、感じ取っていただけるであろうと思いますのは、その副題として、主なテーマは「精神医学再考」ですけれども、その副題としまして「『心』がそれ自体で病むことがありうるか」という、これはだいたい心が原因でみんな悩んでいると思っている人たちにとっては、びっくりするような問いかけであるんですねえ。

 すべからく相応の悩み、あるいは苦悩、苦痛ですね。心のつらい状態に、それに対応する神経基盤を有する意識の病理であるといおうとしておられるのでして、ただ闇雲にどこかわからんけれども、悩みが自分で苦しんで起こってくるというふうに、普通そう感じるわけですけれども、極端なように聞こえる、この脳のどの部分というよりもその症状に相当する脳の神経の基盤、基をつくる場所での状況が原因としてあって、それが意識を通じて病気となって現れると、こういうんですねえ。

 ですからちょっと私、言葉を足しますと、知ることっていうのが、ういてしまってますでしょう。皆さんは認識しておられる、認知しておられる、ご自分についてことさら詳しく、自分のことは自分が一番よく知っている。と思っていらっしゃるんですねえ。ところがこのO先生のですと、知ることなしに意識の状況で、症状、悩みが起こってくるということなんですねえ。

 ですからそれを意識と認知、知ることですね、意識と知ることは、認知は、区別されなければならない。ということで、そこでこの森田療法の中で皆さん方にここで、立派に体得していただける、知るということで治るのではない。というこの療法の趣旨も生きてくるのです。

 皆さん方は、知る、認知ということをもう厚生労働省のお墨付きで、今、数多い300とも400ともあるといわれています、世界の精神療法、心理療法の中で認知療法だけが、うつ病の治療に薬だけで治すのよりこの療法を同時にしたほうが、治りが良いと厚生労働省が認めた唯一の精神療法なんですが、それを否定しているわけです。知ることはまあ私どもの言葉でこれは知りぞこない。でありまして、知ることは余計な悩みを引き起こすだけの話で、知ることによって解決できると思うのは大間違いですね。

 そこで脳の中の病気である。脳が病んでいる。などというのは能のない話である。まっ、能のない話のほうの能は能力の能ですね。見当違いの見方をしているといおうとしているんですねえ。

 ですから、これまで「心因」という言葉をお聞きになっていらっしゃる。世間の人っていうのは、大方、心因論です。皆さん方も、なにかきっかけがあり、原因があって悩んでいらっしゃる。不安もただ不安というものが、ぽっと出てきたんではなしに、なにかがあったから、それをきっかけに不安を生じてお困りになっていらっしゃる。というふうな世間の人の見方が一般的ですね。なにかがあったから悩んでいると。そういうこれ心因論というのは虚構である。という結論が出てくるのです。

 皆さんにこのさわりの部分を簡潔にお話しいたしましたが、この一時間半にわたる話は、これほど難しいものはない。と、私たちに思わせるほどの意識の詳細なあり方でありまして、とても、その、O先生の話は難しいぞ。とこういわれているわけですが、とにかく皆さんも興味をもって、それを解明しようとなさる、脳と心。

 脳は見えてどのような働きをしているかどんどんよくわかってきていますねえ。それとは別に心というものがあって、それが、さしあたって皆さん方の症状の中心になっている。こういうふうに考えられますねえ。ですから精神科の医師は一方では脳の詳しい認識、つまり脳がどういう働き、どういう構造になっていて、どんな働きをし、例えば脳が脳動脈瘤破裂、あるいは脳梗塞などですね、どこがどうやられたらどうなる。というようなことを勉強する。

 もう一方は心の問題として、統合失調症、うつ病、あるいは神経症など心の病といわれているものを、いちおう脳と切り離して考えているんですねえ、精神病理学といいます。

 この偏り、両方に別れてしまったものを今の京都大学の精神医学の方の教授、M先生っていう方は、やっぱりこう広くどっちも見ていかなければいけない、と。両方、それで統合失調症の人の脳の働きの具合が、ちょうどこの目のあります奥のところから前頭前野、これから何をしようか、今なにをしなければならんかっていうことを考えて、みなさん一番、この前頭葉の一番前、前頭前野、やは野原の野、フィールド(field)ですねえ。そこのところが生活上さしあたって大事なところですが、そことのつながりの状態が病気の人、これは統合失調症の場合つながりが弱い、というんですねえ。それは、このごろ脳の働きが目に見える形で画像、テレビのように色をつけて見極めることができるようになってきたものですから、その目に見えることのなかった統合失調症などの病気、心の病気の具体的なとらえ方が脳の働きの普通と違うという点でわかってくる。ということになりましてですねえ、これは世界的な科学の医学誌であります本に、昨年の秋に発表されたものなんですねえ。

 一般には、脳と心というふうに脳は形のある、そして心は形のない脳の中から出てきました現象と、こういうふうにとらえています。一般にはそうで、なにか心に外から影響を受けた、反応めいた、脳というよりは心の変化によって症状が出てくる。こういうふうに一般には考えられているところですね。こういうのを心因論と申します。

 それでこのO先生の話の結論からいきますと、その心因は要するに虚構である可能性が高い。そういう話でありまして、心がそれ自体で病むということはありえない。と、いおうとしているものなんですね。

 ですから皆さん方の悩み、症状になぞらえれば、ですね、この虚構の事実を本気に大事なものとして取り組んで自分を守ろうとする、あるいは治そうとするということは健康であろうとするんですねえ。その基づくところが、ありえないことがらの思い違いからくるということにもなるんですねえ。

 で、これは昨日の話です。それとは別に森田先生の次の東京慈恵会医科大学の教授でした高良武久先生は、森田先生の後を受けて、この森田療法関係のとても行き届いた説明を加えられましたんですね。それで今の話に関連して申し上げれば、神経症は主観的な虚構性である。と、喝破しているんですねえ。森田先生がお使いにならなかった言葉を掲げて神経症というものがあるのではない。その人の主観でこうであるに違いないと思い込んで、そこに生じている虚構である。と、これはもうなんと昭和10年代からはっきりいっておられるんです。

 森田先生におきましては、世間でいう神経症を神経質という性質を表す言葉一つで表して、ですね、性質はもとより神経質、あるいはもともと神経質であり、それが病気の状態にかわったのを神経質、言葉はかわらない。じゃあ治ったらどうなるのかといいますと、神経質と。いうふうに一つの言葉で表されたのは、科学者でいらっしゃる皆さん方がこれをお聞きになって妙な感じに思われるでしょう。ところが、これはまことにすぐれた見解でありまして、ですねえ、なんにも変化はないんです、ほんとうは。はじめから終わりまで神経質。つまりその人の本来性、本来の姿そのものでありましてですねえ、治ったからどうなるというものでもない。で、それはなかなか一般の人に理解してもらえないんですねえ。

 それで高良武久先生は、その病態、病気の状態ですね。「神経質症」と新たに名付けられた、こうしますとよくわかるんですね。神経質に基づいて起こってきた性格的なこだわり、苦しむ状態を神経質症と呼んだんですね。ただ治った状態を高良先生は読みかえられたかどうか、私の記憶では普通に治る。治るという言葉を使っておられるので別のいい方にされたかどうか、神経症が治る。あるいは神経質症が治る。という言葉で普通に述べておられますですねえ。特に名前、呼び方をかえておられないですねえ。それだけ、まっ、普通のいい方です。

 この主観的虚構性っていうのは、まさに森田療法における大前提でありまして、ですねえ、昨晩、意識を主な課題として掘り下げられたO先生のお話の最も中心的な部分と一致するわけです。じゃ、皆さんいったいどうなっているのか、なんかおかしいと思われるでしょうけれど、普通には、高良先生の主観的虚構性っていうものは、それほど一般の医師の間には、よくわきまえられていなかった、ということですねえ。

 ですから皆さん方も、ここにいらっしゃる前、病院、あるいは街のメンタルクリニックで、この治しにくい神経症を皆さんもたいへんご熱心に治してもらおうとされたでしょうし、主治医の先生方もまた熱心に治そうとされたんですねえ。

 実に、私にいわせれば、この神経症というものは、治そうとする病気であると。私の定義はそれですね。治そうとする病気であると。したがって治すということをやめ、いきなり健康人としての生活をはじめていらっしゃるやいなや全治であると。ここの講話はそれが中心的な課題です。したがって治すという部分が見事に省かれるんですね。

 こういう講話を数多くお聴きいただいた皆さん方におかれましては、私が今日、最初にO先生のお話を持ってまいりました。それは世間一般なら、おかしい変な話だと思われるでしょうけれども、いままでここで講話を繰り返しお聴きいただいている皆さん方なら、おんなじ趣旨であるということが分かっていただけただろうと、こう思うんですねえ。心がそれ自体で悩むということはないんですねえ。

 これは意識において自己意識の中で、ここの説明では自分というものに、皆さん方がより良い、より健康な、いい状態を目指して皆さんご自身のために、そこに目的がありますね。目的が自分のために努力されるという、その姿であるんですねえ。

 この神経症というものは、一般的ないい方ではね、このごろは神経症性障害という世界共通の病名にかわって、なおさらややこしいですが、神経症性障害。森田先生の神経質で結構なんですが、一般に合わそうとするとそうなります。

 そういう皆さんのお考えに基づいたご自分の健康観、したがって不健康な状態を粗探しふうに、こまかく拾い出されるんですね、健康な心という、健康な自分というものを厳密にとらえてらっしゃいますから、ちょっとその、気に入らん、不十分な、不安定な事柄が早速目について、それをほっとけない。というので片っ端から治す工夫をしてしまわれる。そこに治そうとすることで病気の状態が現れて、それに熱心に取り組まれるという姿が、このとらわれであるんですね。そのとらわれの結果、もうぬきさしならん状態で困りきってしまわれる。そういうのをさらにこだわりと呼んでおります。これは見通しの、皆さん方にとっては暗い状態ですし、私どもにとりましては、もうたいへん明るい見通しのもとに、そんなにどう苦労、骨折っても治らないと思われている問題を一挙に解決することができるんですね。それはまさに大前提としての、この主観的虚構性。これはすべてご自分のそれに手出しをし、治そうとしてとらわれた姿から発生しているんですね。そのこだわりが今たいへん苦痛であると。そういう症状を導き出したわけです。したがって考えた皆さんご自身、自己像ですね、それが病気とみた神経症が主観的虚構性の産物であったというにとどまらず、すべての「これが自分だ」というのが主観的虚構性そのものであると。

 皆さんがここでしばらく生活しておられる間に、その毎日の仕事、骨折り、さまざまな努力の間に答えを出す必要がなくなるんですね。「あっ、これは考え過ぎだ」世間の人ならそんなもんですね。「あっ、これは考え過ぎてたなあ」とか過ぎるも過ぎないも、考えに置き換えた自分が虚構あるいは脱線でありましてですねえ、それが昨今のここの講話の中心になっているんですね。

 森田先生の場合は、症状の理解のために、症状を説明するのに、この思想の矛盾、事実を無視してこうでなければならない。例えば心は安定していなければならない。というふうに気持ちが働きますと、そこに心のあり方、お手本、あるいは標準的なものが示されて、ですね、そうでなければならない。そういうことが強まってくるんですねえ。ちょっと今言葉が足りませんでしたが、症状が起こりますと、仮にそれを不安を代表的な例にいたしますと、安心したい。それは感情です。だれも安心感情、不安感情のほうは専門家はいいますが安心感情っていうのは誰もいわない。けれども安心は感情です。

 まず、どこか痛いと、まっ、お腹が痛いと、そういう感覚ですね、そら痒いのでも、こそばいでも何でもですけども、今、体の症状が、れっきとした病気と間違われやすいので取り上げます。皆さんの場合ですと世間でいっぱい難しい問題が皆さんの周囲に起こっているそれなどは、微妙で複雑な感覚として皆さんを驚かせ、気にさせ、場合によっては怖がらせるんですね。そういうさまざまな社会的な刺激を、感覚として皆さんが受け取られるんですね、そうしますと不安を生じます。これは感情、下から二番目の感情ですね、これはたまらんとですね、これは不安でそのままほっとけない。と、だれしも考えて、なんとか安心できる道をみつけようとするんですね、それはもう考えが入ってるんです。これはたまらん。これはいかん。これは不健康だ。病気だ。こうやるところ、一番上の認知、つまり皆さんの知的な対策が始まる、考えが始まるんですね。で、知的認知と書きましたのは、厳密に申しますと心理学の人は、すべて受け取るのを認知と呼んでいるんです。したがってさっき感覚と申しましたのは感覚的認知、次に不安だ、いやだなあ、好き嫌いなどですねえ、そういう感情が出てきます。それを感情的認知と呼ぶんですね。それで普通、今、認知療法の名前で呼ばれている、知的な認知、これを知的認知と呼ぶんですね、それでまぎらわしい。ここではその認知という言葉を症状に対してどうするかっていうところ、知的な認知からしか使っておりません。

 こういうふうに全部そろえて書きますとわかっていただきやすいかもしれませんですね。しかし普通、認知という常識的な使い方、これは皆さんの知ることやお考えですね。考えて、これはこうせんならん、ああせんならん、そういうもんです。

 感覚は感ずることの世界ですね、それから感情も感ずる。さっきの話では、これは刺激ですねえ、それに対してこれは、ここに安心不安ですねえ、その好き嫌いの選り好みで安心不安がおこるんですねえ、この段階です。これは仮に最初の刺激によって気になる感じが生じていると、こういたします。それが同じ感ずることでありますが感情の場合は好き嫌い、したがって最も普通には安心不安の問題ですね。で、ここまではまったく規則がありませんのです、法則性がない。皆さんが、その今、感ずることと書きました、ひとくくりの感覚と感情、ここにご自分の今辛い状態になられた、そのもとの原因というものを見ようとされる、これは心因論ですねえ。さっき書きました心因、それでなんとかしようとお考えになる。それが一番上のご自分を知る、ということによって起こってくる認知ですねえ。

 知的な認知。もうここから先は、もう書かなくてもうまくいかないんです。これは失敗に終わるんです。あるいはきれいないい方をすれば、自分を良くしようとすることは矛盾に終わるんです。どっちでもいいですけど矛盾に終わるっていうのは、それを努力しただけのことが全然ない。というばかりか自分を良くしよう、治そう、健康になろうとすればするほど泥沼に陥る。というほど、その結果が悪い状態として待ち受けているんですね。

 ですから世間で治すというのを楽になることと思っている人たちは、そこに治療する人もですけれども、薬をもってこないわけにはいかないんですねえ、なんとか楽になろうと。先生の方からしますとなんとか楽にしてあげよう。そういうことで治療行為は薬によって楽を目指すことになる。好きとか安心とか、好ましい状態を実現しようとするんですね。もうその道しかないというてよろしいです。

 どこが失敗かというと、不安ばっかり解決している。安心という感情のもう一つの不安とならんで常に問題になっている、いいかえたら神経症の一番もとは安心と不安を比べたところにあるんですね。で、安心は良いけれども不安は悪い。良し悪しという価値的な見方が、そこに加わって動きがとれなくなってくるんですね。もうこの良し悪しの比較、価値的な選り好みが始まりますと、そこから先、見通しとしては望みがありませんです。

 薬の力を借りてやっとこ安心へ安心へともっていくという、それが日本中、あるいは世界中、一番普通のこととして正当な治し方として広く行われているんですから驚くべきことですね。

 ここまでよく見極めないんですわ。いたずらに不安、嫌なこと、苦痛は悪いものである。症状と名付けてそれをなくすのが治療であると考えているわけです。したがって不安ばっかり治し方を考え、消すことを考えて、結局、安心をしっかり治してないもんですから、いつまでたっても安心が目の前にちらついて、そっちばっかり求めてしまうんですね。

 ところが森田療法は、この不安のみならず安心を同時に解決しますから、皆さんはもう安心にとらわれ、安心を目標になさることがいらなくなってしまうんですねえ。安心と不安を比べてこっちがよい。こっちが悪い。っていうようなことを一つ一ついっていることがいらなくなってしまうんです。それで治り方が一挙に瞬間的にこの場で完成するんですね。

 で、手品のように、ですねえ、ここでは至極当たり前のこととして、ごく普通にしているというのは、心に考えを使わないからです。知的な認知と書きました一番上の、赤い知的な考えによる自分の工夫、そこから後は、自分としてはしたい気持ちが強いでしょうけれども、すればするだけ事態は悪くなりまして、こんぐらかってくるんですね。ですから感ずることと書きました感覚と感情、この状況でいきなり実際の生活、毎日の仕事ですねえ、骨折り、そのことが始まるやいなや一番上の知的な認知、これはぱっと入れかわるんですね。

 人間の意識っていうものは二つのAとBを両方、同時に認識できません。それは度々お話しました、レビンの花瓶も見ていただきました。そういうふうですから、皆さんが外の皆さんから離れた実際の生活上の仕事や勉強をなさる瞬間、心の問題、それはなにがどうなっていようと、きれいに意識の外に出てしまう、あるいは暗くなって見えなくなる。というふうですから外のことにいきなり取り組むという、その知恵が森田療法の知恵であるといっていいんですね。ですから知るっていうことへ進んでしまうと心の問題はもうだめなんですわ。こう、このまままっすぐ黒板に書いたとおり上へ、心の中の皆さんの仕事、ご自分のためにこうしたらいいだろう、とやっておられることがすべて結果が悪くなるんですね。ですからこの下の二つの感覚と感情、つまり好きだ嫌いだのところで、もう大急ぎで実際の外の離れたものに対する仕事を始められたらもうそれでいいわけです。

 非常に簡単な話で、そこに、もうお気づきでしょうけれども、心を解釈しない。自分の心はこういうことだからこうなったと、あれがいけなかった。で、こう今悩んでいるとかいう心の説明、ストーリーが全然、成り立たないんですね、消えてしまうんです。それが見事な瞬間的全治といえるもんですね。

 ですから話は外にだけあったらいいんですね。皆さんご自分を説明なさるための話は、最初の診察の時だけでもう十分でありましてですねえ、自分のことをいろいろ次から次へ説明するというような、世間でもっとも広く行われているカウンセリングですね、カウンセリングっていうのは、もうどこまでもどこまでも皆さんがおっしゃればそれをカウンセラーと称する人は傾聴、耳を傾けて聞きますからですねえ、なんぼでも自分の説明してしまう。乗せられてといったらおかしいですねえ、人が「はあ、それでどうなりました」それで「ああ、そうですか」と聞いてくれたら乗せられてしゃべってしまう。自分のことを説明したら、もうこの一番上の知的な自己像というものを明確にするだけになるんですね。ですからここは「しゃべる人は治りません」というふうに言葉や論理、つまり文法を使って考えを自分の方にまとめていくこと、つまり人に話そうと思ったらしゃべるときは自分ていうものを描いているわけですねえ。それで絶対その段階で治らんわけです。これが自分だというものを、おおまかにもせよ、ぼんやり描いたらもうだめなんですね。

 ですから実際のことの方がいきなりはじまる。それがすごくすばらしいことで、まさにノーベル賞ものであるんですね。森田先生のなさったことっていうのは、あのころは森田療法についての周囲の人の評価がいっこうに高くなかった、つまりほんとうの肝心なことがわからんかったからですねえ。こんなに優れた、悩みをあるいは神経症を一瞬にして治す。しかも完全である。というのは、これはもう絶対すごいことです。

 いまから94年前、1919年ですね、このすばらしいことが発案され、森田療法がほぼ完成したんですね、1920年という人もおられます。1919年とすれば94年というすばらしいもんですねえ、そんなに前に、その頃は皆んな今とかわらない、ただ薬の種類が違うだけで薬でしか治せなかったんですね。治すことはできないんですけど、まあ、薬でも飲んでおくということで不安を消すわけにはいかんですから、おだやかにしているんですねえ、そういうことでお茶を濁していた。ところが森田先生のは言葉によらない、この感覚と感情の事実だけでもう十分で、それをどうするこうするというところからすべて思想の矛盾である。こうありたいと願う。それはもう瞬間的にこうでなければならない。というふうにお手本ができてしまう。ところが一方、不安はちょっとも消えないですねえ、その不安という事実を考えた思想でおし曲げようとする。森田先生は「圧排」圧力の圧と排除する排を書いて圧排しようとするんですね。それで知的な一番上に書きました認知が自分の中でしきりに行われて、学問的でいえば葛藤ですね。精神的な葛藤が起こってくるんですね。

 まっ、昨日のO先生の「それ自体で悩むことはない」という、それと一致させるようにお話すれば、悩みというものが最初からあるわけでなくて、そのいわばやり繰り、意識的な面で申しますと、自分を相手取って、いろいろこうしょうああしようとして治そうとしている、そこに悩みがあるという。そうすれば昨日のお話よくわかるわけですねえ。心はそれ自体が悩むことはないと。まっ、そういうことですねえ。

 そこで、黒板の図で感ずることの段階ですぐ仕事をはじめれば、そこから上のことは、どう解決する必要もないということです。心の問題として取り組んで、一生懸命、悩みを解決しよう、不安を解決しようというような、そんなもうまったく馬鹿げた話で、そのままほっといたらよいわけですからね。あの青い線から下はもうほっといて、で、上は全然手出しをしないで、ですからいつも常に今何をしなければならないかということだけで動いていらっしゃれば、どんな簡単な仕事も皆さんにとっては、全治の瞬間でありうるんですね。

 毎朝毎晩お読みいただいています「古事記抄」古事記というのは、もう土台読みにくい、わけのわからんものですが、それを苦心して皆さんがお読みになるという、読む仕事ですね、読む作業、これが滅法すばらしい全治の瞬間を実現させるんですねえ。けっしてばかにならんです。

 今日持ってまいりましたのは、森田先生が1927年の10月にお書きになりました、漢文の詩の後半、第3句、第4句でありまして第1句は前回講話でお話いたしました「心は万境に随って転ず」というもんです。まっ、それでちょっと思いついて関連したこの掛け軸を持ってきたんですね。

 これはインドの摩拏羅マヌラという人の、この偈っというのは、詩のことですけれども、宗教的に悟りの境地を表したものについては、というのが通例です。「心は万境に随って転ず」ですね。その環境、環境で心はころころと変わっていきます、というただの事実です。で、一定しません、あるいはこうでないといかん、というふうな心のあり方などはない。というふうに捉えていただいて結構ですね、変わっていくもんです。とこういうことです。

 次は第2句「転処実に能く幽なり」その変わっていくところを見ますと、まことにその境目がはっきりしない。きっぱり、ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっと変わるわけではなくて、光を三角形のプリズムを通して見ますと七色にわかれますねえ。スペクトラムとこういいますが、どこからが橙、どこからが青、どこからが黄色とか、そんなんなくて、ずうーっと繋がってる。ああいうふうなもんですねえ、明確な区別がありません。この幽霊の幽ってのは薄暗いことです。ものの形がはっきりしないことをいいます。「実に能く幽なり」っていうのは、はっきりしない。なにもその明るさがないということじゃないですよ、この場合はその限界、きわがはっきりしない。その状況が変化していますから、これはこう、あれはあれ、というふうにはっきり区別ができないということですねえ、はい。

 そして、ここへ第3句は「流れに随って性を認得すれば」文語風に読めば、流れに随いて、ですね、まっ、随ってでもいいです。「流れに随って性を認得すれば」

 次、第4句は「喜びもなくまた憂いもなし」ですねえ。この森田先生のは、この第3句、第4句をお書きになったものです。その心の変化を流れとしていうてるわけですが、その変化している流れに随って、きめられないものを自分の性質であると認めれば、というのは「これが自分だ」ときめられないわけですね。変化して変化して定まらないんですね。その境目がはっきりしない、限定されない。という状況を自分とすれば、自分の性質と認めれば、きまった喜びと呼ぶべきものもなければ、またきまった心配、憂いと名付けるものもありませんと。簡単にいいますと、はじめから自分は、心はきめられないんですね。きめられないで変化している。その流れのとおり変化のままに「これが自分だ」としておいたら、自分をきめることがないので、心配に比べてこっちは良い。まっ、いうたら不安に対してこれは安心だ。とか、安心に対してこれは不安だ。とかと、きめていうものがありません、ということですね。これが安心と不安を同時に解決する道なんですね。ですから森田療法は、安心と不安を一挙に解決しますと、さっき申し上げましたけれども、なんのことはないこれは仏教の知恵なんですねえ。

 この摩拏羅マヌラっていう人は、禅の世界では特に尊敬する人ですね。で、もうお分かりのように禅っていうのはインドで出来たんじゃないんですね。中国に来てからこういう形の宗教になりました。達磨ダルマさんはその神髄をインドから中国へ6世紀のはじめに伝えてくれたんですねえ。

 先般、調べてましたら527年に、梁の国の皇帝 武帝と面会したと、そういうことがわかるそうでして、やって来たのは509年という、はっきりしない説がありますが、520年に洛陽にいたことは信じられているんですね。それから7年経って武帝が宮廷に呼んでその話を聞いたと、そうとう年月はたってるんですね、今まで遠いところから偉いお坊さんが来られたというので、武帝がすぐ呼んでこう話を聞いたかのように皆さんにお話してましたけれども、相当な年月が経っているんですねえ。ですから達磨さんも中国語がかなり喋れるようになってたかもしれませんねえ。それはわかりません。はい。

 はい。今日の講話はこのへんで終わりといたします。

    2013.1.27



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