三省会

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宇佐晋一先生 講話


まったく意外な本治り  

 世の中では、ものごとはわからないようなのは話にならない、とされ、確かな認識が求められる。ところが森田療法では、そのわかる話が邪魔になって、治るものも治らないのである。実に森田療法におけるとらわれの苦しみからの本治りは「わかること」からまったく離れた所に現れるものだったのである。

 多くの解説書が手近かにある現在の状況は喜ぶべきことではあるが、「わからせて治す」という趣旨が森田療法の場合に限っては、究極の全治を成り立たなくさせるのであってみれば、まったく余計なおせっかいというほかはない。私が今日の森田療法に、一番心配しているのはこの点である。

 悩みは自分についての、よいものを求めてやまない人間本来の、自己意識のなかを論理化する所に発生することは間違いない事実である。そのことからすれば、自己の安心を目ざして自己意識のなかを論理化するような心理療法が、治療どころかつねに新たな次の悩みの火種となっているのは明らかであるが、ちょっと気がつきにくい。

 森田療法は森田神経質の人のみならず、すべての人びとの悩みの真の解決の道を、ともに達成せしめる公開された方法である。悩みといい症状と呼ぶも、どちらも矛盾に終わるほかのない言葉と論理の使い方を自分のために向けて用いた出発点の誤りに気がつけば、事は容易に解決する。それに気がつかないのは自己意識は自分の考えの世界なので、間違いがおこるはずがないと思っているからである。そこで忠告に従って、「これが自分だ」ということをすべて離れて、ひたすら外界の用事や勉強、あるいは芸術作品の制作、ならびに鑑賞などに骨折ればよい。他人や社会のために骨折ることは、その他者意識内のはたらきの徹底である。不安やストレスを口にする人は、そういう他人のための骨折りで喜ばれる仕事をすぐに探し始めるとよい。その探すという精神作業がもう立派な本治りであって、なんと全治は難しい心のやりくりではなくて、意外なまでに身近かで確実なものであったことが身にしみてわかるであろう。

   2021.5.18



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