三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始め(9) 岩船寺と浄瑠璃寺

 学生の頃は戦後の不便な時代で、奈良から柳生へ行くバスに乗っても、すぐ般若寺で降りて岩船寺と浄瑠璃寺への道を歩いた。殺風景な山の小道であったが、指導者の森暢(もり・とおる)先生(古美術雑誌『宝雲』主幹)は「ここへ油絵を描きに来たいですね」と立ち止まって嬉しそうにいっておられた。

 やがて木津川市加茂町の岩船寺の境内に入った。ここには三重塔(重要文化財・平安前期)が目立つ。本堂には銘から天慶9年(946)造立という高さ2.8mの一木造りの阿弥陀如来が堂々と座っている。本堂が狭いからかもしれないが、とにかく大きく見える。平等院本尊のような優しさの見られないところに、平安中期らしさが見てとれる。しかし衣は薄くなって次の時代への傾向の予兆が見られる。

 そこから当尾(とおの, 三重塔や石造十三塔や小石塔があるため昔は塔尾と書いたそうである。)浄瑠璃寺へは山道ながら近かった。大きな池をまえに西に阿弥陀浄土を思わせる九体阿弥陀堂が建ち、嘉承2年(1107)に建てたという。池の東側に治承2年(1178)、京都の一条大宮から移築した平安後期の三重の塔(本尊薬師如来)が、朱塗りの建物に白壁がひときわ映えて美しい。寺名の浄瑠璃は薬師如来の世界であるから、この薬師如来が創建時の本尊であったとする説は妥当であろう。見学時には本堂の阿弥陀仏が並んでいる左端の須弥壇にこの薬師如来を拝することができた。衣は厚く古様式を留めるが、端麗で、きりっとした尊容は忘れがたい。九体阿弥陀堂は今日ではここが唯一の存在であるが、平安〜鎌倉の昔には京都のあちこちに数多く見られたものであった。なんといっても阿弥陀如来像が九体、横一列に並ぶ姿はそれだけでも壮観であるが、どの尊像も岩船寺の阿弥陀如来像を見た後であるだけに一段と優美そのもので、金色に光り輝く尊容はこの世のものとは思われない光景を漂わせている。それだけ新しい時代の様式を示すものであろう。

 美貌の吉祥天像は年3回公開されているが、生身の女性像のような迫真性と華麗な様式化とがよく調和していて驚かされる。『浄瑠璃寺流記事(るきのこと)』に書かれている建暦2年(1212)制作説が一般的である。作者は不明だが手塚山大学奈良学総合研究所の海老原真紀説では、貞慶上人との関係で、快慶を作者に挙げるのは注目に値する。快慶とすれば東大寺の地蔵菩薩立像の上品さに通じるものがあるからである。
   2024.1.26
[参考文献]
・『古寺行こう 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺と南山城の名刹』29 小学館、2023
・海老原真紀「解脱房貞慶上人と浄瑠璃寺吉祥天」帝塚山大学奈良学総合研究所 解脱上人寄稿集No.23


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浄瑠璃寺 吉祥天像



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