三省会

目次

宇佐晋一先生 講話

今なる


 はい。今晩は、お待たせをいたしました。
 この広い院内をきれいにしていただきまして、もうほんと皆さんのおかげで、磨きたおしていただくというほど美しくなりました、ありがとうございます。また病院の車までもきれいにしていただきましたご親切に対しましてあつく御礼申します。これで良い年を迎えられます。
 さて講話ですけれども、こうして社会的理由だけで、年末にお帰りいただき、新年をお家で迎えていただこう、ということになっておりますけれどもですねえ、大きな病院に、内科や外科その他ですねえ、入院しておられる方っていうのが、そういうことはどう考えてもありえないですねえ。帰られる方っていうのは、ほんとに皆さんにしてみたら、あれどう思っておられるんだろうというふうに思われないでしょうかねえ。実際、普通の勉強、仕事、その他、どうもこれではできないというので、ご入院いただきましたんですねえ。ところが、暮だお正月だということになりますと、さっさとこう外泊されるという、これは確かにもう珍妙な、どう考えてもわからん現象であるんですね。
 で、それはとりもなおさず人間の悩みというものが、事と次第ではいくらも変わりうるんですね。それはまさに自分にとってという、その観点で、ころっとかわるんですね。
 この神経症問題というのは、医学的にそういう言葉を使ってますだけで、広い世間なみのいい方をすれば、昔なら煩悩ですね、今でしたらこれは悩みです。その原因がストレスであろうとなんであろうと、そういういろんな説明が、まことしやかにいわれているのは、いかにも科学的といえばいいような話ではありますけれども、現象として、いったいこれはどういうものかという、その最も深いところを見ればですね、人間が自分にとって具合の悪い、あるいは都合の悪いことがらを自分の力、あるいは考えで解決しようという、そこまではよくわかる話ですけれども、その結果は必ず、その人の思ってるとおりにならないんですねえ。皆さんはもういやというほどそういうことを経験していらっしゃって、なおかつ、もう一息だ、とこう思って努力していらっしゃる。という点で共通した生活をなさっておられますが、いつしか、その毎日の目的が、周囲の、あるいは環境、世間、ここならこの施設内の、皆さんが目についた、あるいは責任のある、しなければならないような仕事に取り組まれるときにですね、それが目的になっているということですね、ただそれが、ずうーっと続く、あるいはそればっかりというんです。
 そうすると、なんにも治そうとしていないじゃないかと、その、ふりかえって答えを出すことすらもういらなくて、ごみひとつ拾って全治する。あるいは柱を一本きれいに拭いてくださってその場で全治なさるという、この本物の真実に生きる姿が実現して、それをもって全治とするんですねえ。
 ですから、その次にまた自分にとってとか、自分の都合の良し悪しなどを、ちょっと振り返ってみられますと、もうさっぱりいけませんですね。
 これでおわかりのように、悩みにしても神経症にしても、悩みといえば一般的、神経症といえばごく特殊な、えてしてそれは病気と考えられがちなことですが、その根、ルーツっていうのは根っていうことですねえ、それから原因といってもいいですねえ。きっかけも含めまして、そういうものが長く複雑にあるのではなくて、その場で起こるんです。
 世間でほんとにだれも考えてないんですねえ。皆さん方にだけ、こういうはなはだご熱心な、年の瀬も正月もなく修養に努められる皆さん方にだけ申し上げればですね、神経症というのはルーツに関係なく、きっかけに関係なく、この場で成り立っているんですね。これほんとにだれもいわないでしょう、皆さんもお聞きになったことがなかろうと思うんです、つまり今成り立つんですね。
 こんなことほんとにこれ、いうてみたところで、感心する人がないんですわ、あの人は偉いことをいうなあと、ほめてもらうことがない、ほめてもらえない、つまり皆んなにわからないからですねえ。
 ですから私から皆さんに申し上げ、それを素直に実行してくださるってことは、世間で、そのまま皆さんがおっしゃったところで、誰も感心してくれないんです。あまりにもおかしい。というふうに世間一般は普通の論理で考えてしまいますから、心の中も同じ論理で割り切れるものと考えて、こういった話を、筋の通らない奇妙なこと、というふうに思ってしまうので、だれもそんなに感心しないんですね。
 神経症ってのは、この瞬間に成り立って、そして、それと同時に治るのもこの瞬間であるんですねえ。これはもうほんとに世紀の大発見ですよ、ほんといいますと、なるのもこの一瞬。これは今申し上げた、非常に世間でわかってもらいにくいことですね、したがって、治るのもこの一瞬なんですね。
 人間の心で変わるもの、心変わりなどという言葉がありますけれど、それはテレビのチャンネルを切り変えるぐらいのあざやかさで変わるものは、なによりも意識です。それから、ちょっと時間がかかりますが、そうかなあとかね、そうかもしれないというぐらいのテンポでですね、ボチボチ変わってくるのが考えですね、やっと自分の間違いに気がついたというのは、かなり時間がたっている時です。
 ところが、自分が試験で答えが間違っていたとしますねえ、それがどうしてこう間違ったんだろうと考えるのは、これは早く変えられます、教われば、さっさとわかってきますですねえ、自分が間違ったというところから出発すれば、それは早く変わりますです。けれども、なんかわからんけど間違っていると人がいう、というような場合は、どうにも変えにくい。
 で、今お話したことは、そのことに世間は期待しているわけですねえ。皆さんのお考えが、たぶん変わって、いわゆる心の持ち方一つだと、世間の人はそう信じていますから、皆さんのお考えが変わってきて、それでだんだん治ってこられるというふうに、皆さんのところにお見舞いにいらっしゃる方々も、そういう期待をしておられるんですね。皆さんが、おそらく、だんだんよくなってきましたと報告されるのを、楽しみにきておられるに違いないですね。ですから、今日治りました、とか、昨日治りましたとかっていう表現は、とてもお見舞いにみえた方には、突拍子もない妙ないい方としか聞こえないんですね。
 これで本治りというものが、だんだん治るというものであってはならない。ということが、うすうすおわかりいただけたことと思います。
 人間の心で、あざやかに、テレビのチャンネルを変えるぐらいに変わるのは、それは意識であるんですね。これは森田先生の頃よりもずっと今の方が、はっきりしてきて、森田先生の本をお読みになったらわかりますけれども、外に向いてる心と、自分に向いている心との調和であると書いてあるんです。ということは、だれしも自分のことが一番大事で、そればっかり解決の対象にして、今もいらっしゃる方がおありでしょうけれどもですねえ。
 今日も、私が往診してる時の車の中ですから、ラジオですねえ、年が終わる時に、「何が大事だと思いますか?」と、そこに数人いる人にきいている、そのスタジオにですよ、街頭にじゃなしにね、そこに何人いるかよくわかりませんでしたが、聞いてると、「あなたはどうですか?」ゆうたら、やっぱり、「自分が大事だと思う」というている人がおりましたですねえ、そんな人は必ず来年も悩みがたえませんです。また神経症にひっかかる、とらわれる。神経症ってのはとらわれですから、けっして病気と思って解決を、治す方向に向けてなさってはいけませんですねえ、そういう人は神経症にひっかかるんです。
 もっと大事なものを、外に目的のある形で見出したら、もうその廊下の小さなゴミを拾うということで素晴らしい来年が開けてくるんですねえ、それがわからんのですねえ。で、自分を大事にすることが、「何が大事と思いますか?」といわれたら、「自分です」と、そういうこというてたんですねえ、まあそんなもんです、皆さん方はもう卒業ですねえ。
 で、人の心には、ご承知のように癖があるんですねえ。今までやってきたことの習慣で、ついそれをしてしまう、前の院長は神経症さえも、癖であるというふうに、面白い見方をしていまして、で、著書を出す時に、『癖の治し方』という題名にしたんですねえ。私が、まだ中学のころのような気がします。『癖の治し方』っていうのは、とても神経症の治し方という感じがしない題名ですから、ほんとに売れるんだろうかと心配しましたですねえ。
 で、序文に書いてるんですねえ。人の心っていうものは、アイロンかけて、さっと皺を伸ばすというようにはいかないものだ。ということやら、なくて七癖あるということやら書いておりましたが、アイロンをかけるよりも、もっと早く治せる方法を今晩お話しているわけですねえ。前の院長の頃よりもそれだけ進歩した。そう喜んでいただけたらありがたいです。
 癖は、それがそれに終わらずに、生活習慣にまで発展して、個人的なその人の悩みに終わるということは少ないですね。側の人が見てそれとわかる、あるいは迷惑するっていうふうなことさえもあって、癖も一とおりではありませんです。とかく心を、そういう少ないと見ても七癖あるというふうに、性格傾向として、何かを気にするということを、癖と呼ぶならば、ですね、その一つであれ七つであれ、治し方は一緒なんです。まったくいっしょなんです。
 それを、意識の明るい対象、つまり自分が今取り組んでいる対象、これは、意識の方向であり、その中心が明るいんですね。ですから自分の症状、例えば、不安を、皆さん方が問題にしていらっしゃった、そこが一番明るいんですね。明るいものをなんとかしようとしておられますから、例えばそれは、不安という、多くの方に共通した、神経症の主要な症状ですねえ、それを、なんとかしようとする、その知性、人間の知的な考え、あるいは知恵、知能ですねえ、それが自分の方へ向いている、自分が目的になっている、というかぎり治らないわけですから、したがって、明るい意識の中心が、自分に向くような、これをどうしたら良いか、つまり、どう治したらいいかですね、治すにはどうしたらよいかという、これから出発したら治らないわけです。どこまでいっても。
 そうしますと、治った状態っていうのは、今どうしたら治るかというお話をしないのは、ここの講話の特色ですねえ、治った状態を示すんですねえ。
 この前の時間は、月を指す指という話をして、いつもいいお花をありがとうございます。こういうふうに花を示すという指先まで、講話はこの指の先までである。とそんなことをお話ししましたとおりで、心の問題にとらわれて、この指先っていうのは、自分自身につながってるわけですねえ、自分の方に目的があっては治りませんので、必ず皆さんから外にある、なんでもいいんです。
 それは、さっきは廊下のゴミを申しましたですねえ、それは皆さんの立派な作業、あるいは精神作業として、何かをどうしようかという、計算もそうですね、勉強もそうです、それから、皆さんが外注作業とよんでらっしゃる、外からの注文のある、大事な作業はもとより、ですねえ、そうでない、仕事がまだ見つからなくて、それを今探しておられる最中、探すという作業で全治するわけです。対象が外に向いているからですねえ。
 で、皆さん方が、外からのいつもの作業が、年末でもう入ってこない。頼まれない。という時に、この病院の中に上から下まで、いろいろこうあちこち仕事を探してくださって、大掃除というかっこうにまでそれを発展させられたのは、立派な作業であったというてよろしいですねえ。
 第一あの、外からの作業っていうものは本来ないものでありまして、いや事実、前の院長の時はなかったんですからねえ。いくら大勢の皆さんが入院してらっしゃても、外からの作業が入ってこないのは、なかったわけです、全然、そうしますと皆探さんなりませんですねえ。それはどんな作業がいいでしょう。どんな作業がよく治るでしょう。と、そういうことをお聞きになりたいでしょうけれど、それは関係なしですねえ、作業の種類に関係なく、ですねえ、今その場に必要なことでしたらば、それを皆さんが探し、あればする、なければ探すという、その外へ向かっての取り組みが、意識の明るい中心を、外の目の前に向けるんですねえ。
 ちょうどこの昔、鉱山でですねえ、昔、炭鉱があちこち、その採掘がさかんでしたころ、こういう、なんと呼ぶのか知りませんが、頭の額の上に電灯をつけて、掘ってましたですねえ。ですからいつも照らしているのは目の前なんですねえ。それから耳鼻科の先生が、あれは真ん中に穴が開いてるんですけどね。こういう鏡、凹面鏡です。真っ平ではないんですね。凹面鏡でこういうところ、穴から見てるわけです。そうすると耳の穴がよく見えるわけですね。 そういうふうに、こう前を照らしている。という皆さんの意識でしたら、もういたるところ、言い換えれば、いつでも治ってばっかりで、治らないでいらっしゃることができませんのですねえ。
 今までは、どうしたら治るだろうということについて、たいへんご熱心な、探究心をおもちであったと思いますけれども、治らないでいることができないというのがほんとうですから、どうしたら治るだろうというのは、ほんと昔の夢、夢物語ですねえ。
 で、それを今晩以後、お正月もですね、お正月はもちろん外からの作業はないわけですが、だから入院している意味がない。などというのはおかしな話で、前の院長の頃は、外から作業が入ってこなかったんですから、もういつもかも皆さん方が仕事を探して、それに取り組んでいらっしゃるという、それが、ずうーっとこう一日中続いているというかっこうで見事な修養の完成となるんですねえ。
 自分のことは解決したいと思うのは普通ですから、ぱっと、この自分の方を見てしまう、そこに、見たら最後もう答えを出さずにはおられませんですね。答えをせめて出さなければまだましです。答えは必ず、自分から出るんですから、自分の確信を持った回答であるという点で、ぬきがたいものがあるんですねえ。答えは、自問自答というあの言葉のようになってはいけませんので、やむおえず自問、自分で自らを問うというところまでは行くとしても、自答という答えを出すまでのところで宙ぶらりんに、それを質問だけというかっこうでほっとくというふうになさればもうしめたものです。
 ほっといても、問いは、あるいは次から次へと心をかすめるかもしれませんですね。そうしますと、世間の人の心というているものは、とてもあいまいで、なにが曖昧かといいますと、それは自分のことをいうているんですねえ。おおかた自分のことを心というているんです、それは間違いない。
 ただ、その、何かをしようというのも心だと思っています。心がけという言葉が示しますように、これしてあれしてと、あの人のためにこうしようとかいうような、対世間的な計画も、心がけの名で申します、心のはたらきの一部ですから。つまり同じ心という言葉で、多くは自分で見た自分の心えを捉え、その外側に、外、つまり環境、あるいは他人といってもいい、そういう外のものを見るのも心というているんですね。それを曖昧だというているんです。広いんですねえ、いい方はいろいろあります。
 考えていることすべてを心といえば、それは精神生活というてもいいですねえ。自分を見てるのは精神内界を見ている。心理学の人はなかなか上手に、それを自己意識といい、外を見てるのを他者意識といいます。
 これは私の、1993年に第9回日本森田療法学会を京都で開いた時に、特にお願いして、みんなで森田療法について議論し合うシンポジュウムを二つしました、その一つに、森田療法に近い領域、周辺領域の先生方にお話いただくというのを設けましたんですねえ。それは私の考えでは、たいへん宗教に近いというので、禅宗関係の方、それからもう一人は、浄土真宗の方、それからもう一つの近い領域としては、臨床心理がありますねえ、心理学、その心理学の先生。そういうふうにおよびして、そのとき心理学の先生が、そういうことをいわれた。あたりから、わかっているようで自分も案外わかっていませんでしたので、そのお考えを使わせてもらって、自己意識、他者意識というものを考えて、意識して使うようになりましたら、とても森田療法というもの、その他宗教の問題が、はっきり皆さんにお話できるようになって、森田先生がおっしゃった調和どころの問題ではないんですねえ。他人と自分との、どっちに心が向くかを、調和をとるんではなくて、もうただもう自己意識のなかにおきましては、なにも組み立てないんですね。
 「これが自分だ」というものを、一つ残らずもうやめにして、ただ外の皆さん方の離れた対象の工夫だけを、これから熱心に続けていらっしゃればもうそれで最高ということがはっきりしまして、そうしますとですねえ、森田先生が廊下にお書きになってる額があります、「努力即幸福」というのは、それではっきりしてくるんですねえ。いくら努力してても、その目的が自分のための努力であったとしますと、それはとても幸福とはいえませんのです。森田先生もそれは、そうおっしゃりたいということはあったんでしょうけれども、この「事実唯真」という、この事実このとおりあるだけだというなかに自分も入ってきますから、自分の心も入ってきますからねえ、なかなかそこのところすっきり表現なさりにくかったんだろうと思うんですが。
 今はもう外と中とをはっきり、そういうふうに区別して、中のことはもうほったらかしですね、外の実際の生活上、それは生活の場所はもとより、広くいって社会ですねえ、あるいは地球上、また宇宙空間にいたるまでですね、これはなんぼでも広がるんです、はてしなく広がるんですね。そういう世界に皆さんが前進なさるという、その瞬間瞬間が、まぎれもない全治なんです。
 ひとたび自己意識のなかに、解決を必要とするがあるかのように思って、それを優先課題とされるならばですね、もうそからはにっちもさっちもいきませんです。それは私とてご同様、まったく皆さん方にだけ言うて、私はうまいことやってますというのではなくて、自分の問題、例えば不安もですねえ、なんとか解決しようと、この私が骨折った場合もおんなじ結果が起こってくるんです。これは広くいって人間らしいこと、人間であることの事実を申し上げてますので、もう私の下手な経験の二の舞いは、皆さん方にしていただきたくないと、こういうことですねえ。
 人間としてはみんな、一から出直しということはありますけれども、出直しじゃなくて一からっていうのは心の問題の、まったく原則、客観的に見て原則でありましてですね、このことばかりは、教わったからといって今晩ですね、私から聞いたからという治り方はないんですね。つまり伝達という形をとりませんから、いつも皆さん方の一から、その場その場で一からなんですね。
 しかしそれは、いうところの、「初心忘るべからず」という、たぶん明日多くのテレビで、「一年の計は元旦にあり」というふうにいう人が多く現れるでしょうけれども、初心とか元旦に計画を立てるとかいうことではなくてですね、いつもその場のことを最高に皆さん方が工夫、苦心なさって、つねにその場における計画を立て直し立て直しして進んでいらっしゃる姿です。初心というと、この心のほうになるんですねえ。「初心忘るべからず」てこの心の方はどうでもいいわけです。
 いつも初心に立ち返って、そこから出発するというのは、聞こえはよろしいです。しかしそういうことはなんにもいりませんので、今の状態から出発すればそれでよいわけですねえ。これは事実ですねえ。
 今度は外のこと、これはさっき申しました一年の計、つまり計画は元日にたてるという、そういうふうに外の問題になりますですねえ。 
 たいへん趣のちがうことではあるのですけれども、初心というものは、もうしっかり固定的に決めて持つ必要はありませんし、一年の計というのも、外のこととしては、これも固定的なものではなくて、いろんな災害がおこれば、どうにもならんので、どんどん計画を変えなければなりません。元日に計画を立ててもどうにもならんですものね。いろいろ変えていくと、きのうたてた計画も今日変えればよろしいわけで。
 というわけで、内外ともになんにも決めないで、ただ状況に応じた皆さんの取り組みですね、それは普通、臨機応変と、機に臨み変に応ずるですね、これがもう極意なんです。そういうことを、修養のじつは中身として、ことごとに実行の間に、つまり仕事の実行の間に修正、軌道修正して進んでいかれたらもう満点ですね。
 で、この今のことでおわかりのように、初心をきめないというのは、心はもうすべてきめないんですね。きめたらこれが自分だというものが明確になって、それが基に、つまり核、一種のかたまりの中心になって、それで破綻が起こるんですね、それも問題。
 外の問題も、きめてしまいますと、それで動きがとれんとですね。で、内側の問題は、まったくきめない。外の問題もきめないというんですが、そこは臨機応変に状況をよく判断し、情報を上手に整理して、それをもとに皆さん方が努力してですねえ、実際のたぶんこうなるだろうというとおりにいかないかもしれませんのですが、そこはなんとか一生懸命やっていらっしゃるという、その骨折りをしている場所が全治の場所ですね。
 骨折りをしていらっしゃるその時が全治の時、というのですから、こんなにはっきりしたことはないですね。そしてわかってきますことはですね、幸福というものは、目標にしているために失敗しているんだということですね。それは十中八九、自分というものを目的にした追求ですね。幸福というのを、ほかの皆さんのための幸福、それだけの幸福。というふうに考えている人は、まず少なくて、どうしたら手に入るだろうと、こういうふうに考えて。まあ例えば、今日はたいへん高額のジャンボ宝くじの、何組、何番というのが発表になりましてですねえ、そういう偶然の幸運を射止めようと考えているのも、それは自分のためと考えている。そういう幸福追求のしかたのあらわれです。
 ところが、ここで皆さん方が、こうも見事に協力して、ご自分以外の目的のために、それぞれが知恵をしぼって、いままでの人が気がつかなかったことまでなさるっていうのは、これはもうたいしたことでして、それが全治にほかなりませんのですね。明るい意識の中心が、いつも皆さんの外にある、目の前にあるというのは、これはもうたいへんなことです。それを続けていることが修養であり修行なんですね。
 はじめ修養も修行も自分のためだと思ってられたかもしれない、世間ではそういう考え方がいまだにありますですね。こんな苦労するのも、のちのち大事なことに目覚めるためである、悟りを開くためである、といういうふうにですね。あるいはこの苦しみがある。ということは、それを厭わずに生活に骨折っているときに、楽な状態がやってくる、ですねえ。「苦あれば楽あり」という昔からいい古された言葉はですね、よく文法を考えてみればいい、文法、これはもちろん文語の文法です。そうしますと、「苦あらば」とはいうてないんですね。「苦あれば」ですから、「苦労があるので楽もやってきます。」と、どっちも公平に見立てているんですねえ。苦労があったらそれだけ将来それに見合った楽がやってくるというのではけっしてないんですね。
 地獄一定、一定って一つの定まると書きますが、もうそれに決定的であるということですねえ。「地獄一定と定めていれば地獄極楽用事なし」とこういう言葉が、これは浄土真宗のほうですねえ。ですから、目的が自分に向いてないんですね、自分がちょっと楽になる、安心する、ほっとする。という方に向いてない。
 地獄一定とこういう。ですから、平たく申しますと、もっと苦しまねばならないというてる人にとっては、地獄も極楽も用事がないと。これは見事なもんでありまして、・・・・・・・極楽っていうのは、普通の楽とちがうんですね。あれは楽の極み、あれはほんとはここで全治というてる状態、あるいは一般に幸福というてる状態といっしょです、苦楽とならぶ言葉ではないんですね。
 極楽というのは窮極の安心、これは古い仏教の言葉ではあんじんといいます、大安心(だいあんじん)というたりします。これは安心、不安という比較をしているそれではなくて、大きな安心、大安心(だいあんじん)なんですね。ですから、極楽というのは、そういう場所、地理的な場所ではなくて、まさに窮極の皆さん方の今晩の姿でしてですね、そこはもうご自分のためにどうするこうするというものがもう一切ないところですね。
 つまり、地獄一定というのは、自分にとってよかれかしと、ちょっといいことがあってほしいという、治りたい一心からいい状態を考えていらっしゃるという目標が、まったくないときそれが極楽なんですね。
 地獄一定と今書きましたこれが極楽でありましてですね。これは心とはまったく関わりなく、皆さんが、その場その場の、工夫に工夫を重ねた苦心の取り組み、この苦心の取り組みですね。苦労の多い取り組みをなさる、その状況にほかならないですね。
 神経症の治し方っていうのは、病気の言葉、例えば症状、病気の表れが症状ですね、症状という言葉を使いますと、その奥、もとなどに病気がある。例えば、喉が痛い、咳が出る、鼻もつまってる。とその症状の奥に風邪という病気があるわけですねえ。そういうふうに、症状という言葉を安易に、今皆さんが嫌っておられます不安、例えば不安に使いますと、もういけませんですね、不安の背景に神経症がある。っていうふうなことに合理的になってしまう。
 自分を、そういうふうに、だれもが納得する仕方で了解する。今、自分を了解するって、初めて申しましたけれども、いつも申します、納得のいく形で自分を考えてることですね。これは心理学でいいませんね、自己納得、自分で自分が、そうだと自分なりにわかった状態でいること。わかっていることはそれなりの安心がありますですね。ほんとうの安心はやってこないにしましても、とりあえずさしあたって自分はこういうふうなんだと思ってることはより安心ですね。
 そのときにそうきめない、どのようにもきめないんですね。まったくこれが自分だというきまった形に自分を描くということをやめてですね、いきなりこの人の手伝いをなさるとですねえ、人の苦心してることに参加する。あるいは向こうに調子を合わせる。これは前の院長がいいましたんですねえ。人に調子を合わせるとか、お相伴をするとかいうてましたですねえ。これはおもしろい、皆さん方に、きっとご参考になると思いますねえ。人のほうに調子を合わせる。それはもう道徳的に申しますと、人に役立つ、人のお世話をするとかいうことと同じことでもあるんですねえ。
 はい。どうも今日の講話、年末で最後の講話ではありますけれども、なんにも憶えていただくことはなくて、ただいきなり、それも時をうつさずパッとその仕事に生活に、あるいは勉強に取り組んでいただくという、ただそれだけのことだということをはっきり申し上げておきます。
 はい。ではこれで終わることにいたします。

   2004.12.31



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