三省会


目次

宇佐先生の講話
(平成31年1月13日)

 今日はBさんの大変結構なお話を始めとして、皆さんの日頃のご精進の実際をお知らせくださったことに対して、大変すばらしくうれしく存じます。
 Bさんが詩をお作りになって読んでくださったのは大変ありがたいことでした。Bさんは詩集を出されていて、普通の言い方をすれば詩人でいらっしゃいますが、詩人という職業があるわけではありません。歌人とか俳人とか申しまして、いかにもそういう職業の人であると思えるのですが、実際はBさんのように、しっかりと実際のお仕事を持って社会に尽くしておられ、それに加えて詩をお作りになるということは、生活、生きることの進展した状態でありまして、その作品はBさんのお人柄のさらに大きく発展した結構な状態と申し上げてよろしいです。

 では会場からのご質問にお答えいたします。

 私が言っております不問療法の不問とはどういうことですか、というご質問です。

 不問とはまさに宗教性そのものでありまして、言葉で自ら問うということがありません。言い換えますと、自分について、そして人が自分をどう考えているかについて、そこに考えによる答えを一切出さないというあり方です。
 神経症の範囲、つまり神経症がどういったところで成り立っているかということを厳密に見た場合、今日も皆さん方がお使いになっている自己意識というものが大変行き届いた表現であります。自分で見た自分だけでなく、他人が自分のことをどう見ているかというこの自己意識が神経症の範囲であることは間違いありません。それ以外のものは外、人、世間のことですから、他者意識ということです。
 ですから森田療法についても、その他者意識でいくら学習なさってもかまわないのですが、それを治療に使おうとしますと、自己意識の中をいじくることになりますので、大脱線です。そこのところに多くの方が気づいておられなくて非常に残念に存じております。そこで先程申しましたように、自己意識の範囲の中に言葉を絶対持ち込まないことが不問なのです。
 他人に対して緊張する、人から嫌われるのではないかという心配、不安が起こって来るというのは、言葉になる前のそういう感情的なものとしては、いくらでもあり得るわけです。ところがそれを明確に言葉で概念化、つまり考えに組み立て直すところから引っかかるわけです。「あるがまま」というのは自己概念というものをまったく組み立てない状態でありまして、これが宗教性に通じる独特のものなのです。

 次のご質問は、お孫さんが今16歳で、中学2年生の頃から不登校気味であるとのことです。その理由は、お孫さんが、周りの人からどう思われているかが気になって仕方がないことだそうです。親御さん達はその症状を治そうといろいろ工夫しておられ、本人さんも気にしないでおこう、あるいは平気になろうなどと随分苦心しているようですが、答えは非常にはっきりしていて、気になることは気になりっぱなしということです。気になって辛くてとても耐えられないと感じながら、次の勉強へすばやく取りかかるように指導なされば、すぐその場で治ってしまわれます。
 治すという手間を省いて治すことができるのがこの療法の大きな強みです。つまり、次の実行、次の生活、仕事、勉強に手をつけること自体が治った瞬間なのです。前の院長、宇佐玄雄は、すぐ健康人のふりをしなさいと言いました。それが治った状態そのもので、世間では神経症はだんだん治ると考えられていますが、それはまったく当たってはいないのです。あくまでもいきなり治るのです。日常生活を進めて行くその姿が全治ですから、心の内容の良し悪しは一切問わないのです。

 次のご質問は、神経症に陥った原因は、気持ちの良い快楽を求めたことによるのでしょうか、というものです。

 楽な感じ、あるいは幸福感を求めるということは神経症のさっそくの成立を招くことになるのです。快楽というのは、沸き起こる感情として、たとえば、うまく行ったなあという思いを感じましたら、そういう感情を結果的に味わっていらっしゃるだけでよろしいのです。求めてそれを得ようとやり繰りするといけないのです。治ることを求めることもだめです。自信を得ようとするのはなおさらいけません。自分に関することで、もっと付け足そう、もっと豊かにしようと求めることは、脱線するもとになります。
 では、森田療法で快楽の問題をどのように解決すれば良いかと申しますと、これが自分だというふうに言葉を自分に持ち込まないことです。つまり、快楽とは限らない、日常で必要な事柄にただ取り組むことです。即座にそれをなさることです。
 森田正馬先生は、道が2つあった場合、困難な方を選びなさいと言われ、前院長の宇佐玄雄は鉛筆が倒れた方を選びなさいと申しました。肝心なのは、とりあえずすぐやるということです。かつて神戸大学法学部の教授が三聖病院に入院されていて、先生が部屋でじっと考え込んでおられた時に、前院長がそれを見かけて、足ででもよろしいからちょっと布団のゆがんでいるのを直しなさい、と言ったところ、その先生はハッと気づかれたということです。足で布団を直すのは行儀が悪いですが、ちょっと何かすぐ用事をすること自体が大事なのです。

 次のご質問は、宗教が存在しないと自分にだまされると私が申しましたが、それはどういう意味でしょうか、というものです。

 宗教はその場を見事に解決し役立つ事を概念で決めないのです。つまり肝心な中心は決められないということです。それを「知らなさ、分からなさ」と表現してもよろしいのです。心の問題に関しては一切言葉で決めないことです。自分で考えた自分のことを本当だと決めないことです。思いっぱなしで外の状況に応じた肝心なことをして行くという、それでもうとらわれから見事に離れることができます。宗教がないとどうしても自分の考えに答えを出してしまいます。自分の考えを確かなものと思ってしまいます。そこにとらわれが生じます。自分の心の中を言葉で組み立てず、どんどん必要な仕事をされれば良いわけです。
(第436回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話)



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