三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


生きることと死ぬこと 



 はい、たいへんお待たせしました。 どうも、それでは講話を始めます。

 だいたい不安さえ片づきましたらですねえ、あとはいうことはない。 というふうに、ひょっとして思われるかもしれませんけれどもですね、 安心という皆さんが、これさえあればと思っていらっしゃるその安心を解決なさらないことには、完全ではないんですね。

 安心なんか解決しなくてもいいと思って、どなたも安心に対しては何もなさることはないです。それと同じように、とにかく今お話しようとしてますことは、ちょっと先回りして申しますと、どの感情もですね、安心も感情ですよ。 不安も感情。ただいわないだけですね。不安感情といいません。安心も不安も感情です。感情という感情はいずれもまったく同じ扱いをなさって、けっして依怙贔屓をなさってはいけません。そんなこといわれなくても、と思っていらっしゃるでしょうけれども、皆さんほど依怙贔屓しておられる方はありませんので、安心ばっかり大事がってですね、不安をもう毛嫌いしておられる。というようなこれは依怙贔屓以外のなにものでもないです。

 で、感情をすべて同じように扱っていらっしゃればもう森田療法をお受けにならなくても、この世界中、 日本中だれよりもすばらしくて、 お釈迦さんに並ぶほどの人です。

 お釈迦さんが偉いということは皆さんより、まっ、例えばパソコン一つできる方ではない。物理学が分かっていらっしゃる方でもない。地球が自転して自分で回っていて、それで太陽は動いていないということなど根っからご存じないですね。

 どうして偉いといわれているのかと申しますと、そんなこといわんでもいいわけですけれど、やっぱりこれは自分自身に、内向きに、つまり心に対してもう用事がなくなった。そういうところにすばらしい悟りを開かれた。

 森田先生流に申しますと、ここにも「事実唯真」もっと正確に読みますと、「事実のみただ真なり」ですねえ。それをよく今から2千400数10年前に発見された。そういうところに偉さがあるんですね。それはほかならぬ、どの感情にも公平で依怙贔屓がないということで。ですから皆さんが、この講話が終わるまでに、つまり、もうこの今の一瞬にお釈迦さんに並ぶ方になられる。つまり、そういう偉さの方におなりになるということは十分可能である。ということを私が保証いたします、ですねえ。

 普通世間では仏教徒、お坊さんでもお釈迦さんを別格扱いにしますね。ぱあーっとものすごく特別偉い人。そういうふうに、それはだいたいどの宗教でも開祖とか宗祖、宗祖という言葉はあまりお聞きになりませんか。

 京都の大谷大学へ行きますと宗祖、つまりその宗の最初の人。この場合は親鸞聖人ですけど、そういうふうにこう最初の人を非常に高く尊ぶという傾向がありますですね。 そうしますと、後の人はそのお坊さんの修行された事柄に助けられ導かれてまたその後に従う、あるいはその流れにつらなる。ということになりますとですね、ますますお釈迦さんという初代の人に対しての距離感が大きくなるんですね。つまり間にたくさん挟むほど遠く高くなってしまうということで、とても我々はおよびもつかないと、こういうふうに思ってしまうんですね。

 ですから私の今の講話のようなのは、まったくその不遜、不見識ですし、その、もっときつくいいますと不敬である。つまりお釈迦さんに対してご無礼であると。こういうふうになってしまうんですね。そうしますと、お釈迦さんみたいに偉くなったらいけないみたいに、これおかしなもんですねえ、お釈迦さんみたいになってこそ本当に心の問題が、ちゃんともう見通せたことになります。同じ体験者として皆さんが並んでいらっしゃる。にもかかわらず、そういうことが悪いことみたいに、お釈迦さんと同じだ。というと、その、なんか不遜な、驕慢とか、傲慢とかですねえ、増上慢。増という字と上そして自慢の慢と書きまして増上慢。つまり自分が偉いというふうに思う、それは悪いことである。と、そういうふうになって、 お釈迦さんよりお坊さんが至らない。で、我々はお坊さんより至らない。というように、こうだんだんだんだん離れてしまう。肝心なものがもう雲の上みたいになって、身近な手近なものと思えないんですね。

 ところが森田療法ってのは、そういうことがありませんから、ぱっとその本物が瞬間的に手に入るんですね。 そうしてよく見ますと、本当はそれはお釈迦さんの目指されたものでありまして、前の院長は「お釈迦さんは神経質者の大先輩です」はっきりそう言い切っているんです。ちょっとびっくりされるかわかりませんねえ。

  しかし、同じその不安を皆さんと同じくらいの熱心さ、いや、ひょっ としたら、もっと神経質的にその完全を期して一生懸命されたかわかりませんが、追求してですね、どうしたら不安が消えるかということに6年間を費やしたというのですから、まあ、その神経質ぶりがよく伝わってまいりますですね。

 世間ではそういうことは分かりにくいですけれども、皆さん方は「あっ、これだ」というんですねえ。つまりこの皆さんの誰にも負けないその追求の熱心さ。あくまでも完全に理想的な状況に到達できなかったら、これはだめだと。

 これは本当に尊いことでありまして、森田先生はこれを神経質理想と呼んで、普通の理想と違って非常に高級なものと考えられたんです。 だいたい森田先生以外、あるいはそれ以前はですね、この健康な人がいてその神経症、そのころ神経衰弱といってました。つまり弱いとかですねえ、それから耐えられないほうのこの脆さですね、そういうふうに置いてたんですね。で、もっとその客観的な障害がある場合は、これはまあ病気ですわねえ、精神の病気ですね。 そういうふうに考えていた。

 ところが森田先生は普通の人よりも神経質の人のほうが優秀であると、神経質優秀論といいます。森田の神経質優秀論。これはあんまりここでお話したことがない話ですが、それくらい人間の良い状態を、つまり狙いが高い。いい状態を目指すというのは、普通では気が済まないんですね。平凡というのは、なにも平凡が悪いことはないのですが、平凡では気が済まない。皆さん方はそうです。そこが神経質理想の素晴らしいところで。

 ですから尊いものとかですね、孔子風に申しますと徳とか仁とかですね。そういう人間として、はっきりさせておかなければならない、そういう道徳でいえば徳目。そういうものがはっきりしてないといけない。つまり、簡単にもうしますとね、 俗、通俗とか世俗とかいいます、俗っぽいほう、 これはもうとても耐えられない。つまり具合が悪い、ダメなことであるんですね。ですからこの頃はもうめったに聞きませんけど、達人といいますね。一般、 俗っぽいものを超えて、ひときわ光を放つような、ですね、そういう高潔な人格というものをどなたも目指される。というところに特色があるわけですねえ。

 で、それがなんで悪いかというと、悪いことはありませんので、神経症というのは、とかくその今でも変わりませんですねえ。神経症というと世間の人は病気と思っているわけですから。ほんとは病気でない。客観的障害でない。 強いていえば主観的障害。ということは、ほとんど毎回のように私が申し上げているところで。じゃあ皆さん何を治そうとしておられるか、という大きな疑問があるといえないでしょうか。

 病気でないものを治そうとしていらっしゃる。これが本当なんですね。ほんとに大きい声でいっていいことなんですねえ。しかし、あんまり大きくいいますと健康保険が使えなくなるという、痛し痒しというのがあるんですねえ。病気であるということにして健康保険を使って、治すんじゃなくて修養するという、これはもう最も賢い現代における人間のあるべき姿というものを極めていこうとされる皆さん方の進んでいらっしゃる姿であるといってよろしいですね。

 お寺へ行って、ちょっと修業したいんですけど。といって健康保険を持っていっても使えませんけれど、それはさすがに、その病院というのは名ばかりで病院の体裁をとっていますけれど、ここも健康保険で皆さん方の修養をお助けするんですね。いや、まったくこれ、その事実を申し上げ、おおっぴらにしてなにもおかしくないんですけど、神経症を病気であるという前提のもとに組み立てられている世間の考え方からしますと、ですね、やっぱりここは治すところ、病院であるというふうに看板を出してるほうが、とおりがよろしいですね。で、そこを間違えないように、ですね、病院だから治すんだ。健康保険が通用しているから病気なんだ。という意識が、非常にこの治療に邪魔する。ということはもう間違いないですね。

 どなたかおめでたく退院される。まっ、最近続々とご退院が続きまして、ですね、ほんとにうれしいことですが、うれしい半面、こうちょっと、ねたましいという気持ちもあって、ほんとに治りましたか。というような、そういうこと聞きたくなりますですねえ。ということは病気である。それは治さなければならない。病気であるのに治さないでおく手はないと。そういうお考えがどなたにも潜んでいるんです。ここのところをはっきりしないといけませんですねえ。

 うつ病は病気です。昨日も診察を受けに来られた方に、もうその、「病気でないんですか神経症は」という、そんなんですわ。ほんとにねえ、これ、「うつ病と聞いてきました」と、その人は一生懸命治すのに熱心で、あちこち回っておられる。うつ病といわれて、まあまあこんな話もほんとうに脱線なんですけどねえ。抑うつ神経症なんですねえ。神経症で悩んでられたら前の院長はね、だれもそんな明るい気持ちにならないと。そら神経症で明るい気持ちの人はないわけですねえ。だから抑うつ状態です。それは、うっとしい憂鬱、あるいは気力が低下する。なにもやる気がしないとかねえ、そこだけ取ったらもううつ病みたいです。

 ところが神経症の方は、本来の性質である神経質から理想、完全といった状態を目指されますですねえ。そうすると思うにまかせないご自分の調子の悪さ、考え方のすっきりしない、集中できない、あるいは雑念というものが邪魔になって困るとか、そういう障害になるものが目立ってくるんですね。目指すのが高ければ高いほど邪魔者が目立ってくるんですね。

 もういっぺん整理して申しますと、安心を目指せば目指すほど不安が目立つ、不安だ不安だといっておられる方は、心の中が不安でいっぱい。と口ではいわれますけれども、安心を求めることが人一倍熱心だ。ということです、裏返せば。

 ですから不安だけ、抗不安剤という薬を飲んで消してみたから治るかというと、うまくいかない。なんでかというと、安心が解決してないからです。安心を解決することが抜けているからです。

 森田療法は、そこは非常に親切にできておりまして、安心を解決してしまう。

 もうちょっと、正しい表現に変えますと、安心と不安と両方いっぺんに解決するんですねえ。これが森田療法のいいところです。そんなんありません。他の療法で。

 これはもう森田先生のころと違って数多くの精神療法、心理療法、特に心理療法は、いろんな方法が出てきて、どれもこれもうまくいくという主張を理論的にしますですねえ。

 ところが森田療法は理論を使わないですからね。これはもう私が生涯で、はっと思ったほどうれしかったのはですね、自分で気がつかなかったんですねえ。

 東京の方で、森田理論というものを組み立てて、ですねえ、それをもとにして治す。というような理論学習というようなことを始める人が出てきて、それが印刷物になって、ぱあっーとこう全国津々浦々に広がってくる。その時初めてなにか違和感を感じまして、おかしいなあと思って、それはどうおかしいのか、私自身ももやもやしてはっきりわからなかったんですねえ。

 ああそうだ、ここでは理論で治していないなあと、はっきりそれから後で気がついたんですねえ。反面教師といいますか、まっ、失礼ですけど、その反対側のものの具合悪さを見て本物がはっきりしてきた。

 理論で治すんでないんだなあと。これは皆さん方も是非はっきりさせておいていただきたいんですが、そういえば、前の院長は講話のたびに、「理屈ぬきですよ」といっていた。理屈抜きというのは、どうもそれもピンとこなかったんですが理論を用いない、ですね。逆に言葉を置き換えて論理を用いないというとなお徹底します。

 論理っていうのは、わかりにくいところもありますので、まっ、私どもは文法といって、言葉を組み合わせて考えを形作るもの、これは文法ですねえ、そういうものを使わない。

 そういう特色が、すばらしいものとしてあるにもかかわらず、理論を振り回して、ですねえ、森田理論を学習したら治るかのようにいっている。それは学習止まりなんですねえ。知ること止まり。わかること止まりでありましてですねえ。新幹線で東京を出ましてですね、大阪止まり。というふうに、それで、それが目的の、まっ、例えば大阪へ行く方ならそれでいいわけですけれども、ほんとに福岡まで行こうという方には具合が悪いですね。

 その、究極のゴール、終点とはなにか。と申しますと、今日一番のテーマとしております、あれとこれと両方同時に解決する、ということです。

 つまり不安を解決するっていうのは、片っぽうだけの解決で。昔はこういうのを簡単に言い表す言葉があったんですけども、この頃は使ってはいけない言葉になっておりますんで、ようするに片っぽうだけで両方でない。だから不十分だと、そう申しますわけですねえ。

 それは、安心と不安を同時に解決するというのでなければならない。いやそれは、まさにこの療法の一大特色で、片っぽうだけ、例えば不安だけ消えたというふうに思っていらっしゃる。それでいいんだと思っていらっしゃると、根本的に治ったことにならないですね。で、それを、もうちょっと言葉を入れ替えれば、とってもびっくりなさるほどのことになる。つまり、あれとこれというのをね、生きることと死ぬこと、ふつうは生死せいしと言いますし仏教、禅のほうでは生死しょうじと多少読み方を変えますが。

 この廊下の突き当たり、ということは突き当たりでなしに出口ですけれども、木版、木の板がぶら下がっておりますね。で、直日さんが、ぽんぽんぽんぽんと午後10時に消灯の合図として打たれます。

 あの最初のところに、生死しょうじのことは大なりと書いてあるんですねえ。

 で、これは、当院では午後10時であることはご承知のとおりですが、もし9時ごろ、通りが静かで耳をすましていらっしゃいますとね、私どもここで東福寺で鳴らしている僧堂の木版の木の板の音を聞いたものです。

 9時に枕を開くと書いて枕開かいちん、開く枕と書きますね。つまり枕がたたんでありますとこうのばしてですね。たった一畳、畳一畳が生活のスペースですから、そこで棚にのせてある布団をおろし、枕を開いて寝む。

 それでその、着のみ着のまま寝るんです。皆さんも必ずやパジャマに着替えておやすみになる。寝間着っていうのは、昔から着替えるものとなっていますけれど、そんなこと絶対してない人がいる、それは僧堂がそうです。

 昔の軍隊も寝巻きはなかったんです。こんなこと今更なにもただ面白い、そうだったかというだけの話ですけどねえ。それで布団は5月5日の節句の日に柏餅を皆さん召し上がりますですねえ。柏餅は柏の葉にこう包んでありますわねえ。それでこの布団を柏布団といいます。どいうものかといいますと、布団のですねえ、こう半分に寝て、こうやって、これは掛け布団、敷布団と掛け布団は、こう繋がっているんですね。それをこうやって柏餅のようにして間に挟まって寝る、ということです。

 それでその、軍隊の話が出ましたんですけれどもですねえ。文化勲章を受けた末永雅雄という先生はですね、これは奈良県の県立橿原考古学研究所の所長。それを創設した方ですけれども、「敵襲」敵が襲来した。というふうに声がかかったら、ですね、その先生は騎兵だったんですね、元。馬に乗るまで皆さん何分とお考えになりますか、寝てるんですよ今。真夜中で寝てるときに「敵襲」という声がかかって、そしてばっと馬に乗る。ということは、ばっと出られるんですね。その出られる状況にもってくまでにどのくらいかかるか、末永先生によりますと10秒だそうです。10秒でないといかん。まっ、そんなことを折々いっておられたんですねえ。

 ですから、そんな寝巻きって、着ていられないんです。寝巻きを脱いで、軍服を着て、なんかいろいろ装備して、それから靴履いて、まっ、靴は寝るときは脱ぎますけどねえ。とにかく、ぱっと10秒間に馬に乗ってないかんというほどの俊敏さを要求されるんですね。ここでもそういうことがあったら皆さんいっぺんに、もう神経症を離脱、もしくは解脱されますですねえ。

 戦争中にここの入院の方が今よりもっと減った。というのは、ちょっと、おわかりになるでしょう。つまり、この間も外に厳しく決められた状況で、神経症っていうのは増えない。ということをお話しましたですねえ。きちっと、いっぱい決められているという。韓国の話から、あるいは儒教的な生活から、その話の続きで申し上げたところですけども。軍隊っていうのは、むちゃくちゃに厳しいですから自分にかまってられないんですね。この靴は自分には大きすぎます。というようなことを言うたら「足を靴に合わせろ」というような、軍隊っていうのはおかしなものですけどねえ。

 で、布団なんかないんですねえ。寒い冬に布団なしでどうしてただろう。と思われるでしょうが、結局、毛布ばっかりなんです。毛布の枚数が増えるだけですね、寒くなったら。その、ふかふかとか、ほかほかとか、そんな感じ全然ないんですね。枕はありましたです。なんかわかるような気がなさるでしょうかねえ。

 ようするにね、安心と不安を同時に解決する。ということは生死の同時解決であるんですねえ。で、死だけを問題にする。ある宗教雑誌から、「死後の世界とその覚悟」とかいうね、たしかそういう題で特集をしますのでちょっと書いてください。とかいうような、そんな何年も前ですけれども依頼がありまして、生のこと、生きていることがちゃんと解決されたらいいかというと死が残る。死が解決されたらいいかというと生の問題がある。結局、どっちかだけいうてるのは片っぽうだけなんですね。あとがぬけてるんです。それではいけませんので生死(しょうじ)、生死(せいし)を同時に解決するというものでなければならないんで、いやそれしか本当は解決というたら、それしかないんです。

 ですけれども、頭で考える限りは、嫌な方だけ、不安とか死ぬことだけを解決したらいいというふうに思ってしまうんですね。ですから安心を解決するというふうなことを申しますと、「へえっ」といって皆びっくりされる。生きていることを解決するというと、また驚かれるんですねえ。死の方が大事じゃないですか、と。

 で、今ここまでお話してきますと、今から2千4百数10年前に、お釈迦さんが何を解決しようとして山に入ってしまわれたか。身分は一国一城の主の息子でありながら、言い換えれば古代インドのカースト制ですね、4種類というよりも階級ですね、非常に厳しい生まれながらの階級が決まっていた。その一番上位なんですね、お釈迦さんの場合。普通考えたら何にも困ることがない。しかも結婚して子供、息子さん一人できていると。いうふうな状況で何も困ることがない、国王の後継ぎですからね。もっともこの間お話したように府県知事に相当するぐらいのものとされてますが。で、それにもかかわらず山に入る、修行をするっていうのは不安の解決。皆さんといっしょで、これをほっといて人生も何もあったもんではないという。そうですね、これこそ大事だという。

 そうして、不安をどうしたらなくせるかと真面目に取り組んだ。それがですねえ、はじめから6年もかかろうとは思っていなかった。でしょうけれども、ついに6年間もうちょっと、もうちょっと、もうちょっと、と思っているうちに経ってしまったんですね。そして結果は挫折に終わったと、こういうわけですねえ。

 その、普通の物語では、それは崇高なお釈迦さんの修行の一貫として語られますから、ですね、そんな今ここで私が、とうとうだめだったというような話をして申し上げているのは、説明の仕方が違いますですね。やがて悟りを開くための前段階として、その6年間の苦痛に耐えた修行ってものが前提として大事であったと、こういうことになっているんですね。けれども実際は失敗している。それはそうですわね、不安を消そうというのですから。とうとうお釈迦さんも世の中のことについての不安は、それは、まっ、なんとかできると。なんとかできるというのは例えばお金で解決がつく場合もある。というようなもんですねえ。けれども心の中の不安はどうしても消えない。と、そう述懐されたという話が伝わっております。皆さんといっしょなんですね。お釈迦さんだけが、ぱあーっと、ものすごく高い、高潔な人格である。と、そういうのではないんですね。今日特にそれを申し上げておきます。皆さん、この一瞬にして、このお釈迦さんと同じ心の高さ、同じ達観ですね、ものの高い見地から見通す。ということがおできになる方々ばかりですからね。

 別格扱いしてしまうのがいけないんですね。別にお釈迦さんを引きおろそうというわけではないんで、皆さんが、ぱあーっとこう並ばれるんですね。それは安心と不安を同時に解決したということです。あるいは黒板に書きました生死を同時に解決すると。これがほかの宗教とまるっきり仏教の違うところですねえ。仏教のいいところです。

 じゃあ皆さんどうしてと、そこを知りたいとお思いになるでしょうけれども、どうしたらということを、やめたらいいんですね。どうしたらそううまくいくだろうという、それをやめる。それはとりもなおさず答えを出すことをやめる。ということは何のことはないんです。こういう比較というのは、ものを決めるところに生じますですねえ。

 森田療法をはじめとして禅の世界では、自分を概念化する。つまり言葉や文法で決めることを一切しません。そうしますと、どうしたらうまくいくだろうってことが成り立たないんですね。

 私どものここでお話していますのは、神経症の治し方、悩みの解決法ではなくて、ですね、まったく神経症成り立たない、成り立ちようのないところを指し示すというものですねえ。あるいは悩みっていうものが、つくろうと思ってもつくれないところに皆さんをご案内するというのでもあるんです。それは難しいことではなくて、この講話が、どうですかねえ、あと12分ばかり、それが時間として余りすぎるんです。たった12分もかからないと。こんな儲けものはないです。

 それは世間の人は、ほとんどそれは知らないんですねえ。ですから、せいぜい心を癒すぐらいのところでお茶を濁しているともいえるんですね。心が癒されたというたら、もうなんか最高の喜びのようにいうてますけれども、あんなん大したことはない。そんなんがいけないんです、むしろ。ある状況を目標にした、つまりお手本とか、そんなんがいけないんです。むしろある状況を目標にした、つまりお手本とか標準とか、ですね、そういうものを目指すこと自体が比べてるわけですから、これが自分だ、今のこんなんではいけない。だからこういうものを目指そうという、それより先に自分を決めてますからね、そこには言葉も文法も自分に使われている。その自己意識の中に言葉と文法を持ち込む。ということを一切やめれば、ですね、もう簡単に、いながらにして皆さん方が、どう治すかでなしに、神経症も悩みもそこに作り上げることができない方に早変わりされるんですね。これがこの療法の真髄です。

 そうしますと、死んでからのことを、まっ、たいそうにいろいろ言ってますけれども、生きていることを解決すれば、ともに両方とも、二つ別々でなしに解決が一挙にできるんですね。ですからまず不安を解決して、次に安心を解決して、そしてうまく両方が解決できるところに到達するかといいますと、そうではない。片っぽう、実をいえば片っぽうだけ徹底すれば比べることがなくなりますから、もう実は本当はそれでいいんですね。

 究極のところ不安を解決するというのは、今の世間の人が、抗不安剤を手っ取り早く飲むことで不安をなくした。と、こう思っている。それとおんなじじゃないかと。それはもう全然違うんでして、不安の成り立ちようのない状況を、今日あと10分ばかりで見抜かれました皆さん方が、安心というものを組み立てることがお出来になるかといいますと、もうできないんですね。不安も安心も組み立てられない状況にお立ちになれば、もうそこは安心不安を比べることもありませんし、解決したらどうなるかっていうことを比べることもありません、というんですね。すべてA対Bという形の比較が成り立たないんですねえ。

 で、二つがなくなったら一つかと、そう思いますね。その一つだと思われる、それも守らない。そこを大事にしないんですね。二つが同時に解決されれば一つか、一つになってしまうのか。それは考えなんですね。

 ところが自己意識の中は、考えによって組み立てられることが一切ない。というそれを、ここの講話ではまったく普通、世間の論理と違う世界。論理の異なる世界。あるいは別の種類の論理の支配する世界。いろいろ表現の仕方を工夫いたしますが、前の院長の理屈抜きの世界というのと同じです。言葉も文法もそれが役立たない世界ですねえ。

 ですから頭はいくらでも考えますので、問いは出てくるんですね。さっきは、どうしたらっというのは成り立たないと、その事実を申しましたけれども、疑問だけ出てくる。出っ放し、というんですね。どうしたら安心不安の問題が解決できるかという問いが出てくる。もうそれっきりということですね。それに対する答えが出てからではもう治らない。つまり考えがそこで組み立てられますから、どうしたら治るかという考えによっては解決しないんですね。ですから問いが出たら出っぱなしの、宙ぶらりんの、まっ、中途半端っていうことですね。

 皆さんよくよくこの現実、事実あるいは真実という、その真の実在、本物ですねえ。でいらっしゃるんですけれども、考えたご自分についてのイメージだけが余分なんですわ。余計なんです。外がイメージ、あるいは考えで上手に対策を工夫して、これだけの立派な世の中を、いろいろ文句もいわれますけれども、曲がりなりにもこれだけ平和な日本を60数年もこう守ってきているんですねえ。それはもうみんなの知恵を出し合って国会で議論して、いろんな法律を作ってというのはそうですねえ。ところが頭は全くそれとは正反対に、決して組み立てないということが、それこそが本当なんですね。便宜上、森田療法では組み立てない。禅でもそこを理屈抜きにするというのではないのでして、世間の人みんなに、自分対自分の問題で、ほんの少しも組み立てることがないように教えてあげたいぐらいですね。

 それは皆さんが今後、ご自分の問題の解決っていうことを今日で終えられますと、もう今日限りなさらないということになりますと、あとはこう、みんなにそれを拡げていらっしゃればよろしい。そういうむしろ大事な役割を自覚されるに違いないですね。

 で、そういう決められない自分をもとにした、たくさんの文芸作品が生まれてきたんですねえ。禅の世界っていうのは、他の宗教の場合と違って、その宗教の説明をしないんですわ。むしろその決められない自分からたくさんの文芸作品を生み出してきたんですねえ。たくさんの詩がありますでしょう。言葉でも優れた、中途半端で、切れっ端で、理屈に合わん、妙なのがたくさんありますですねえ。そういう数限りなく奇妙な、人になんだこれはと思わせるような言葉がたくさんある。

 京都で五山文学というものが発展いたしました。特に室町時代ですね。鎌倉にも五山、五つの本山がありますですねえ。それは京都の五つの、特に臨済宗の禅のお寺、大本山のことを指しているんですね。

 ただその順位は時代によって上がったり下がったりした。その中に入る寺もあれば、はみ出してしまう、脱落する寺もあったんですね。この隣の万寿寺っていうのは、京都五山の下の方ですけども一つなんですね。今あんな大きいんですけど、まっ、一般に大本山と呼ばれるところよりは小さくなっておりますが、ほんとは万寿寺通りにあったんですね。万寿寺通りの高倉にあったのが火事で焼けて、それでこの隣の三聖寺さんしょうじ、この病院の名前のおこりになった三聖寺、この病院も三聖さんしょう病院です。ほんとうは。で、そこへ引越ししてきたんですね。

 で、五山文学っていうのは、もうそれこそ「これが自分だ」っていうものを全く抜きにした文学ですから、特色のある室町時代の文芸作品ですねえ。そして、どうなるかいいますと、答えが出るまでのところで立ち消えなんです。これいい言葉ですねえ。立ち消えはいい言葉です。えーっ、立ち消えになるんですね。問いだけ、問いだけと。

 こういうふうにですね、問いだけが宙ぶらりんで、それで終わる。立ち消えになるんですねえ。仮に最も身近な、どうしたら治るかという、それ、ですね。どうしたらいい生き方ができるかでもいいです。答えがないんですね。もう答えはそこで、もう出てます、という。それは、このとおりという形で出てます。その次のものが出てきては困りますですねえ。つまり問答、問いと答え、問いと答え、問答、問答、問答と続いていくところに、ほんとうの解決はありませんのです。

 とこんな、これでも私、説明をしてしまってますが、説明抜きで一字で表わすんですねえ。そうしますとここに今日持ってまいりました「如々真」このとおりでもいいですね。あるいはそのとおりでもいいです。そのとおり、そのとおりが真実ですねえ。真実っていうのは真の実在です。この本物のこうあることですねえ。この「にょ」この一字で足りるんですね。

 その、皆さんが英語の方がお得意で、わかりやすいとおっしゃるならですね、この such-ness ですねえ、こんな言葉字引にありません。such だけしかありませんけども抽象名詞にしまして、such-ness こういうことですね、そのとおり、そのようなであることですね。そのような、もちろん「こと」ということで終わる概念化はいけませんのですね。言葉として表しますから such-ness ですけども、うーん、これは鈴木大拙っていう先生が、表現上こういう言葉を使われたんですねえ。あるいは、そうであること、is-ness そうであるということですね。こういうことをこの講話でお話してきた次第です。

 はい。じゃあ日記もいつも読まずに、その、こんな話ばっかりでどうも失礼しました。これで今日の講話を終わります、はい。

    2008.1.6



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