三省会

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宇佐晋一先生 講話


本当に瞑想は必要か  

 NHKテレビの「心の時代」の講座で仏教史の日本への流れを聞き勉強になった。その次に日本における展開について教わったが、各宗派の祖師方が中国で学び、また朝鮮半島を経由して伝来した仏教の各宗派を、それぞれ瞑想によって伝え、いろいろな形をとって発展したと解説された。その法灯は今日までよく伝えられ、それぞれに優れた修行のあり方として、真実を見究みきわめる上に大きな力を発揮して来たことは事実である。

 ところで私たちはまったく瞑想によらない方法で真実に生きる道を実践して、今日確かな成果を得、自分1人にとどまらず多くの人びとの悩みや不安の解消に明るい光をともして来た。その確かな事実からすれば、瞑想はもはや必要がないといえるのではないか。一番疑問に思えるのは瞑想の「想」である。悩みや不安の解決に中心的課題となるのは、そのテーマそのものの解明ではなくて、心につきまとい離れることのない葛藤そのもの、いい代えればとらわれた想念であることに気付く。あるいは先に感情的な重圧があるからだろうと思われるかもしれないが、感情的なものは長続きしないもので、実は何ヵ月も何年も続くのは、嫌な感情を早く除去し、よい状態をすぐにでも実現したいという自己防衛的な想念によって長引くのである。そこにはきまって並なみならぬ工夫が人知れず行われているが、そもそも自己意識の中を想念で解決しようとすること自体が間違いだったのである。

 この知性によるとらわれが森田神経質の人びとを、自ら如何いかんともしがたい、がんじがらめの苦境におとしいれ、解決の道が見出せない呪縛のどん底にいるように悩ませるが、じつは解脱げだつの方法は確実に用意されている。それは、知性はもともと精神の外部機構なので、自己意識内容の解決には使えないのであった。そこで悩みは放置して、そのまま他者意識の面に知性を発揮して手を出して行けば、すぐに全治の状態が現れる。さらにあなたの知性の優れた働きが見違えるばかりの知恵者として、周囲の人びとを驚かすことにもなるのである。

   2021.8.23



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