トイレの中でも森田療法があった
神経症の人の自分が不安を避けるための気配りはそれこそ人並み外れたものである。他人からもそれとわかるほどの気の配りようである。父は生来の神経質で病院長としての気配りも人一倍で、1934年の室戸台風の時は大変だった。病院として使わせてもらっていた旧三聖寺(現万寿禅寺)の境内の愛染堂(室町時代の八角円堂)は倒壊した。私の小学校でも校舎が隣家に倒れてその家の人が亡くなった。そこで大勢の人の生命をあずかっている木造建築の病院としては負傷者も出なくて幸いであった。しかし父は院長としての責任感から次の台風に備えて入院患者用の待避所として使う地下室を掘って安全を期した。六畳敷ぐらいのコンクリート壁の部屋で、屋内から階段を降りて入り、外へもハシゴで庭に出られる穴が開いていた。これはふだんはまったく無用の地下室であったが、なんと戦争中東山区渋谷通東入ル一帯が空襲を受けた際には空襲警報下待避壕として役立った。いや実際には入る時間がなかった。(私は夜中に自宅で豆を沢山ころがすような音を聞いてなんだろうと言っていると、すぐにものすごい爆発音に大変驚いたのを思い出す。)翌朝は女性が運転する市電でその場所を通って通学した。私は医学生になった年の冬であった。1945年には戦争が終わり、1957年に父が他界し、私が院長になって、市の消防局の指導を受ける様になったら、防火のために貯水槽を作れという指示があった。私はすぐに二つ返事で承知し、もとの待避壕に水を貯め「はい出来ました」と報告したら消防署の人が見に来て、あまりの早わざにびっくりしていた。こうして父の地下室が見事に転用でき、意外な効果が発揮されたのである。
父の天災を怖れる様子はそばで人が見ていたら笑いものになるというくらいであった。テレビのない時代には台風は「気象通報」の時間が唯一の資料入手法であった。北緯何度、東経何度というのを聞いて地図上にマークした。私はそれをもとに中学の頃の夏休みの研究課題に『8月中までの台風の進路について』というのをやって提出することができた。
私が病院長になって12年たって、1974年に「森田正馬先生生誕100年」の記念行事が東京、京都と高知で開催され、私は京都大会の責任者を引き受けた。記念公演には森田診療所に入院経験のある大西鋭作香川大学教授が「森田先生の思い出」という講演をしてくださった。「森田診療所では夕方に八百屋が店じまいする頃に捨てられる野菜をもったいないと考えて、先生が和服の着流しで入所者を連れて菜っ葉を拾いに行かれた。」また「トイレの中でも作業があって、自分が用を足すだけに終わらなかった。そこに1冊の古雑誌があって、それを数枚ずつちぎっては、次に入る人のために揉んでおくように言われて実行した。」神経質の治療として楽になることを考える治療ばかりの世のなかにあって、これこそが他に例を見ない森田療法なのであった。これほど感銘深い話を聞いたことはない。
2024.10.10