自信で生きるのは危ない
パリのオリンピックでまっしぐらに競技に臨む姿は生き生きと力強い。それらは自信にあふれていると賞賛される。しかし本人にしてみれば正直なところ不安が極度にたかまった状態であろう。でもオリンピックに出る手前、そうもいっていられないので、そこは苦しみながら競技を目ざしてパリへやってきたのであろう。なかにほんのわずかな人が金メダルをとる自信があるといって出掛けたが、作った勇気と自信がどれだけの支えになりえたであろうか。自信は裏を返せば思い込みの自己評価にすぎない。今ふりかえって、この自信の問題は、多い少ないにかかわりなく、またアスリートであるかどうかにも関係なく、わたくしたちの、じつは日常的に当面する、ごくありふれた問題なのである。それをどうやって解決しているかといえば、多くは自信のないものは避けて遠回りをしたり、人に頼んだりして、自分が背負うべき責任や負担を転嫁し、軽減して生活しているのではなかったか。
自分がこれからする仕事についての可能性の大小にかかわりなく、その見通しのあるなしや困難さの予見は、ことごとく自信に置き変えて語られているのではなかろうか。とすれば自信は自己を支える安心すなわち自己意識の満足度を自分勝手に測っているものでしかない。すなわち真実性のきわめて乏しいものということになる。つまり自信があるかどうかは人生上そう大した問題ではないことがはっきりした。
ここから話は急展開、オリンピックの選手にも教えてあげればお役に立ったことだろうが、間に合わなかった。それは今はやりの「自己を越える」という、ちょっと気の利いた賢そうな方法ではない。それは自己意識内に言葉を持ち込まないだけの話である。大いに外へ向かって緊張して抜け目なく仕事をしていくことである。いつでもどこでも生活全般に用心して、のんきを目指さないで、ハラハラ今やるべきことに着手する。それが他人に役立てば立派に真実に生きる姿である。
2024.7.8