三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始め(7) 室生寺に参る

 受験勉強中の現代文に「読書は体験を予想する」というのがあって、その解釈のしかたに難儀したが、室生に来て正にこれかと思った。近鉄に古寺参詣のシリーズ本があって、古美術同好会の指導者猪熊兼繁先生(のちに法制史の教授)の書かれた『室生寺』が手ごろなよい本だったので読んでいた。そうすると期待も大きくふくらむのである。当日の指導に同行してくださったのは、もちろん猪熊先生で、はなはだ幸運だった。昭和23年(1948)のことだから近鉄室生口大野駅から約4kmを南へ歩くほかなかった。そのまえに駅の北の川べりに降りて、川向いの崖に彫られた大野寺の磨崖仏を拝んだ。といっても10数mの巨大な釈迦如来像を仰ぎ見て、鎌倉時代の感覚に感じいったのである。それは今ほかならぬわれわれの視覚が巨大な尊像として生きいきと眼前に描き浮かばせ、拝むことで仏像の美が成立するのだと改めて感じたのである。

 室生寺までの道は遠かった。門前に到着した時にはもう夕刻になっていたから、室生川を挟んでお寺のまえの橋のそばの昔風の参詣者のための旅館に入った。その夕食が豆の煮物と汁物と漬物だけの至って簡素なものであったのが好ましかった。夜中に少々夢うつつで、なにかの鳴き声に目がさめると、午前4時で、もう夜は白々と明けそめて河鹿がさかんに鳴いているのだった。私はこの簡易旅館の夕食と夜明けの河鹿とに、室生河畔にねているという思いがけぬ満足をおぼえた。

 朝はまず北に橋を渡って右に曲がり、山門が西向きに建つ手前に「女人高野」の大きな石の門標に迎えられた。そこから先は左折して北向きの石段となり赤い金堂が見えて来る。傾斜地に基段をつくり前1間は流れ造りとなり鎌倉時代の後補。金堂本体は平安時代、中央に釈迦如来が粛然とたち、左から十一面観音、文殊菩薩、中尊から右は薬師如来、地蔵菩薩と平安前期の大立像が並ぶのは壮観である。しかし仏教の教理から見て、この五体の本尊の顔ぶれは如何とも説明できないものだった。猪熊先生は当寺と興福寺の関係、ひいては春日社の古記録にある五祭神の本地仏にあたるという説明をされ、敬服せざるをえなかった。そうとすれば鹿島の建御雷神、香取の経津主神、枚岡の天兒屋根命、同比賣命、若宮の天ノ押雲根命の五神ということになる。この説には衝撃をうけた。現在もなお異説は出ていない。

 すべての本尊の板光背は仏画がよく遺り、意外なまでにあでやかである。いくらか素朴な本尊たちの表情とあわせて印象的であった。右端に座る釈迦如来は平安前期の飜波式衣紋の典型、十二神将(鎌倉時代)とともに目をひいた。

 五重の塔へはさらに山を登った。修円が竜をとじ込めて、弘法大師が神泉苑で雨請いをしても降らさなかったという九輪の上の宝瓶と傘が珍しかった。

   2023.11.24


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