三省会

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宇佐晋一先生 講話


「私の信心」というものはありうるか 

 2023年1月23日のテレビ(NHK京都)で、文化財防火デーに当たり左京区のお寺の防火訓練が放映された。見れば壇王法林寺である。懐かしいことにここの先々代住職信ヶ原良文師と京都仏教会議のお世話で「市民寺子屋講座」が毎月開かれており、そこへ1975年(昭和50年)11月8日「私の信仰」という題が与えられて、私に話を依頼された。

 その頃臨済宗関係の正眼短期大学で「医学と宗教」を講義し、また浄土真宗本願寺派の大谷大学で学生相談員をしていた私は、禅宗と浄土宗に深い共通点のあることに関心を持っていたので、喜んでお引きうけした。もちろん言わずと知れた森田療法の究極の全治とは何かの問題が宗教とのかかわりにおいて、おのずから明らかになるであろうという思いがあったからである。

 科学者の世界においては「誰だれの理論」は、その輝かしい発見の歴史とともに明かされる。山中伸弥博士のiPS細胞のごとく、その研究の成果は治療実績として発展を見つつある。こうして他者意識上のものは客観的評価の対象として、なんら問題はない。

 一方、自己意識に関するものはすべて、なんでもないように思っているが、本当にそうかどうかは十分な検討を必要とする。

 ①言葉による自己像のずれ
 自分に言葉を使って、概念化すると、自分のイメージを生じ、それを本当の自分のように思って、そこから抜け出られなくなる。(実は自分のイメージによらない生活をすれば早速の全治なのだ)

 ②見られる自分しか分からない
 これが自分の姿だ、心だと言っているのは、見られた自分でしかない。デカルトの言葉『我思う、ゆえに我あり』を持ってきても、考える私があるというものが、もうそれ自体がイメージであり、考えているというところがぎりぎりのところで、それ以上つかみようがない。要するに考える対象として見られる自分しか分からない。

 ③言葉で捉えても変化する
 自分というものは一生懸命つかんでいると思っている最中にもどんどん変化して行くので、その実際の変化をどこまでも追いかけて行くというような芸当はできにくい。まるで幽霊の絵を描こうとする難しさのようなものである。それを言葉では捉えられない。

 ④言葉には限界がある
 日本語のほかに外国語を援用して、その足りない所を補おうとしても、その外国語に独特な微妙な言い回しや意味があって、うまく当てはまらない。言葉にも限界があって、自己意識内容を表現するには不十分であり、筆舌に尽し難いなどというように逃げないと仕方がない場合に直面することも起こりうるのが常である。

 ⑤思い込んだ通りにしか考えられない
 自分については思い込んだとおりにしか考えられないという、やむを得ない事情がある。自己暗示にかかり、ものごとの解釈や判断にひずみやバイアスがかかるのだが、他人のそれはよく分かっても、自分については絶対に気がつかない。〝釣り落とした鯛は大きい〟という笑い話は、必ず他人を見ての話である。

 上記のような自分についての判断のミスが日常生活に伴っていつも私たちの判断を迷わせている。それは反省という自己批判さえも逸脱をまぬかれず、真の自己は自分でも見抜くことができないのである。私が把握できない所に〝私の信心などありえない〟というのが当日の私の話の結論であった。こんな話では聞く人々も面白くなかったに違いない。ところがこの自分とは何かが成り立たない所に真の宗教が成り立つことを知って私も驚いた。主催者信ヶ原師が「森田先生はいい字を書かれますね」と感想を述べられたのである。スライドで映し出される森田の明瞭な書風が如何なる自己意識内容の思想よりも深く、直接体験の美として伝わったのである。

   2023.3.12 



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