夫婦喧嘩でも森田療法
熱海の私立高校長の井上常七(じょうしち)さんから直接聞いた話である。この方は昔大学受験前に森田先生宅で治療を受け、医学部を受験することを勧められたが早稲田大学へ進み、後に森田旅館の番頭を勤めて森田の晩年の熱海時代の側近者として貴重な存在であった。治療を受けていた頃は森田も大学の仕事があり、森田宅ではもっぱら奥さんが生活指導に当たられ、料理、掃除、風呂、寝具に至るまで生活のあらゆる場面において中心存在であった。ところが先生が帰宅され夕食がすんでからは、先生のご指導がある時には先生が奥様の方針と正反対のことを言い出されることがあり、困っていると夫婦喧嘩になるのは当然のことであった。
しかし問題はそこから始まった。先生は居合わせてた井上さんに「ここでは夫婦喧嘩も公開じゃ。ぼくのいうことと家内のいうこととどちらが正しいか、いってみろ」といい出された。狭い部屋である。至近距離の奥さんがこちらを睨んでおられる。「先生のほうが正しいです。」とは義理でも言えたものではないが、さりとて目のまえの先生から問われているのだから、先生のお考えを間違っていますとは到底いえない切羽つまった状況であった。後年「あんな困ったことはなかった。」と述懐されるように、まさにいたたまれない状況になってしまったのである。そこで井上さんはどうしたか。困りぬいて、もう判断をやめて、その場から逃げ出したそうである。
しかし、これは賢明な答えであった。後で森田先生からお叱りはなかったそうである。精神療法の立場からいっても、先生も森田療法ならではの妙技であり、井上さんも先生ご夫妻のどちらも傷つけないよい方法を咄嗟に見出されたのである。
井上さんは京都に来られる用事があると必ず三聖病院で森田先生の思い出話をしてくださった。医師とは一味違う森田直伝の話に真剣さがあって、例えば先生を腰かけふうの乳母車に乗せ、井上さんがそれを押して熱海市内のよその家の梅見に行かれた話などには感心したものである。
2024.11.10