三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始(8)「上醍醐」

 私が府立桃山中学2年(1940)の春、東北東の空に煙がたなびいて、3階からそれを確かめると山火事であることがはっきりと見えた。来る日も来る日も、また来る日も煙が立ち昇って見えたから、大変な山火事だったのだろう。新聞で上醍醐の諸堂が焼けたことを知った。

 それから8年後の1948年の初夏に古美術同好会の行事で、猪熊兼重先生の指導により山上に幸いにも焼け残った薬師堂を目ざした。下醍醐の伽藍から登ること約1時間。お堂は山上に孤立して建ち、5間の堂の前面中央3間が扉で、両端の窓が大きく、荘厳な趣を見せていた。堂内に入ると薬師如来(写真1)(10世紀、平安時代、国宝、像高176cm、平安時代)が雄大な姿を見せた。むっつりと近寄りがたい面持ちは雄威ともたとえるべく、けっして慈愛に満ちた優しさは片鱗さえ見うけられない。螺髪の部分が高さを増し、神護寺の薬師如来立像にもっとも近い趣きがある。醍醐天皇の御願により聖宝(理源大師)が造立を始め、入寂後は弟子の観賢が引き継ぎ完成した。木造で漆箔を施す。頭部は短い頸部が目立たないほど太った胸部につながり、豊満で重々しい雰囲気を増している。丸い光背の周囲に6体の小さな薬師如来がついており、本尊と併せて七仏薬師となる。脇侍の日光、月光両菩薩はやや小ぶりで119.9cmと120.9cm、ともにたおやかである。本像は文化財保護のため、2006年に山上から下醍醐に降ろされ、宝物館に移されたので、今は拝観しやすくなった。

 ここで特にご理解願いたいことは、上醍醐はけっして下醍醐の奥ノ院ではなく、平安前期の密教独特の山嶽仏教として、先に上醍醐から始まったのである。そのために修験道との関わりもあった。

 山上からの新緑の降りの坂道ほど気持ちの良いものなかった。ジョージ・ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーのメロディーが口からもれたほどだった。

 山上から宝物館に移されたもので見るべきものに、清瀧権現社の如意輪観音菩薩座像(写真2)がある。像高49cm平安時代、10世紀のもの(重文)で、その優美さはこれにまさるものはない。上体を向かって左に傾け、右膝をたて座るそのポーズが、作者のただ者でないことを偲ばせるが、名は伝わっていない。6本の腕に如意宝珠や輪宝などをもつ。そのバランスは絶妙といってよい。
   2023.12.24

[参考文献]
小学館ウイークリーブック
(古寺行こう25)「醍醐寺」2023


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