三省会

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宇佐晋一先生 講話


味わい 



 たいへんお待たせいたしました。それでは講話をいたします。 

 2005年、平成17年の講話をはじめるにあたりまして、今までの昨年お話しましたことがらを思い起こされて、それと重ね合わせて今日の講話から何かを得ようとなさる努力はまったくいりませんので、つまり皆さんが年の瀬とともに昨年以前の講話を全部忘れてしまわれたと、仮にそういたしましても、それはなんら皆さん方の類い稀な全治と関係はありませんのです。つまり忘れてかまわないわけですねえ。で、憶えて得をするということは、心の問題、ご自分のご覧になった心については何もありませんので、心について学んでよいのは外から見た心理学、精神医学というものですね。

 外から人の心を見れば、皆さんが他人さんの心についてお考えになり、お人柄をいろいろ偲んだりされますですねえ、そういうことは成り立ち得ます。そして自分はそうおもうけれども、あの人については他の人はこういうているというふうに、大勢の方の意見をお聞きになって、その人間像をより豊かにすることができます。私どもの他人に接するあり方は、例えば私が皆さんからおりにふれて、まっ、特に最初にお目にかかる時は、詳しく伺いましたけれども、そのほか日常の生活から、あるいはお家の方から補足的にいろいろ伺えばそれなりの人間像についての考えの深まり、拡がりがありますですね。

 ところが皆さんがご自分について、あっ、よくわかったと、もう自分というものがまったく今までのは仮にですね、具合悪かったと、それで今日から本当に目が覚めたと、そういうふうにおおもいになったとしても、それは取るに足らぬことでありまして、ですね、もうはっきり申しますと、進歩も退歩も実はないのでして、心の中っていうのは、自分が、まっ、こういうふうに道を歩んできた。こういうふうに積み重ねた心の歴史があると、こういうふうにおもうのですね、勝手に。勝手にというと失礼ですけれども、そういうふうにして自分というものを、形作ってきたのが自己像、セルフイメージ(self-image)ですね。このごろはもうそのセルフイメージっていうものが、よく言葉として通用しますので使いますけれども、とにかくご自分についてのイメージっていうのはそういうもんで、外の、この60年、激動の昭和といわれてるような時代から平成にかけて、ですねえ、まっ、たいへんな歴史が、それは人為的なものもあれば天災、去年のようなこともありまして、ですね、その記録もまた膨大なもんですね。で、次々と歴史が発掘され、新たな真相が加わって、その内容も覆ったりしますですねえ、はい。とにかく外の歴史っていうものは、非常にきっちりと出来上がって、その真相が窮められなければなりません。真実は一つというていい事柄ですから。

 ところが、皆さんがご覧になった、さっき心の歴史と申しましたものは、これはまったく積み重ねということが成り立ちえない世界でして、勝手に頭が記憶によって描いているにすぎません。特に皆さんお生まれになってから記憶に残る、物心ついてからのちの歴史が要領よく、ご自分なりに組み立てられた、その背景のもとに現実の生活を送っていらっしゃる。と、まっ、そういうふうに考えられて何も不思議ではないんですけれども、それが外の昭和、平成という歴史と同じように扱われますと具合が悪いんですね。

 で、この心の問題は、問題っていうのは、皆さんがお困りになることと置き換えますと、すべてその歴史に関係にがありまして、例えばきのう悩んだことも、あるいは10年前の阪神淡路大震災で、たいへんな災難で、心的外傷後ストレス障害、PTSDという呼び方がもう通り名になった。もう一般的に使われるようになっているくらい、それは心に傷痕を残したかのようにいわれておりますが、こういう事柄は修養を旨とされる皆さん方の場合には、ですね、これはもうまったく、恥としてよいほどの事柄で。まっ、堂々という人が、まっ、PTSDというれっきとした病気があって、その困った病気に自分がかかっていますと、もうそれこそ堂々という方がおられるんですねえ。でもこれは恥でありましてですねえ、きのうのこともです。10年前のそれも同じでして、ついさっきのこともそうなんですが、そういうことと関係なく今の皆さんのこの講話をお聞きくださる生活があるんですね。 

 「心の歴史」と一言でいうて、それだけに何か非常に個人的なものですが、重みがあるように思えるだけで、ですね、それを関係ない。と、こう見抜けば悩み一般ことごとく、ですね、神経症はいうに及ばずPTSDといわれて、はなはだ治療が難しいとおもわれている事柄も、すべてその一言「心の歴史」あるいは「心の旅路」などですね、もっともらしくいわれている事柄が、その人に煩わしいおもいをさせていることなのですから、関係ない。という、このいともすげない一言でそれが解決されてしまう。それが現実生活なんですね。実はこの講話をお聞きになることは、皆さんの心の歴史をぱっと飛びこえていることであるんです。

 それは、年が改まって新年第1回の講話なので、こういうこと申し上げやすいですね。ちょっときりがよい、という感じでこういうこと話題にして、皆さんもそのつもりでお聞きくださるでしょうけれども、これ普段ですね、年末のスライドの時間にお話しようと思っていたんですが、スライドっていうのは、いろんな古今東西の作品をご覧いただいて、今、現代絵画の100年というところを、ずーっとご覧いただきまして、特にヨーロッパですね。次からは日本ということになります、まもなくそうなりますけれども、これは皆、描かれた年代、描いた人、というのは歴史的存在です。それは動かすことはできません。順番を変えるわけにもいきません。が、その多くの作品をイメージとして皆さん方が、普通の言葉でいえば、ご自分の美の糧としていらっしゃるということは、まったく順番も何もないんですね、かまわない。それはさっきの歴史的存在については、試験問題でしたらば間違ったら具合悪いですねえ。正解でなければなりませんけれども、イメージの中の歴史、それこそセルフイメージの中の歴史っていうものが、まったく順番も流派も、その印象の強さ弱さ、好き嫌いなど、まったくその中を組み立てるものが実はなくてですね。

 で、たまたま最近のスライドを見た人が、「知っているのはダリだけでした」と、そういう感想を述べてくださったんですが、もうこの100年、つまり新しい画家たちが、かえってそれはなかなか名前が知られてないんですね。というようなことで馴染みが薄いかもしれませんです。しかしそのルネサンス以来たいへん有名な、昨日のですとラファエロの名前がちょっと出てきたりしておりましたけれども、とにかくミケランジェロにしても、レオナルド・ダ・ビンチにしましてもですねえ、そのほかずうーっと皆さんよくご承知の有名な画家たちっていうのは、たいていはルネサンス以後の人たちで、明治38年、1905年に旗揚げした野獣派、あるいはその2年のちの立体派といったところでマチスやそれからピカソというのがたいへん有名です。

 それでこう組み立ていらっしゃるでしょうけれども、それらの好き嫌い、あるいはどういう順番であったか、そんなことはもうまったくいわばご自由でありまして、どうでもいいですね。で、それにもかかわらず悩みがそこに生ずるのは、歴史を組み立てるということによってであるんです。それは絵を引き合いに出しておりますのは、常に心ととてもよく似た性質のもので、違うのは、まっ、もちろんこういう作品というものが存在するんですねえ。心のイメージは、かなりはっきりしている場合もありますが、おおかたぼやけてましてですね、あと記憶にたよっているんですね。視覚的なイメージっていうものは、特別印象的なものの次に同じものや似たものを見た時に思い起こされる、ということはありえましても実際はぼやけているということは、もう皆さんがご経験のとおりです。 

 で、今申し上げたいことはですね、心の中がどうであろうと、とにかく自分で見た自分というものが、今のご自分に都合の良いように組み立られるという傾向がありますから、そこのところをただ一言「関係ない」ということで、「これが自分だ」という、誰しもよくわかっていらっしゃり、どなたも「自分のことは自分が一番よく知っている」と、そうおっしゃってはばかられない、それは、ですね、ごもっともではあるんですけれども、それとはまったく別にこの講話をお聞きになれば、それがほんとの皆さん。これだけは正真正銘の、こういう経験をしていらっしゃることのみが皆さん方の全治のすべてでありますからですね、今の瞬間を離れて別に全治というものを想定されるならば、例えば明日、明日こそ治ろうと。そういうのはすべて考えですね。予測であり、それからある意味では願いですね。願望であったりして、こう現実の話を聞いていてくださることがらとはまったく別に、頭の中で組み立られたものですね。

 そうしますとこの瞬間的にも、話の内容の種類と程度を問わず、ですね、こういう話を今お聞きくださるこの現実生活をもって、ほかとまったく違った生き生きした皆さん方らしさ、人間らしさでもあります。そういう経験を瞬間、瞬間にしていらっしゃって、たとえそれがまったく続かなくてもいっこうにかまわないんですねえ。この瞬間、瞬間に、内容は関係なく、こんなふうに話を聞いていると皆さんおおもいになります。そのおもいが生ずるより前の、ですねえ、こう現にこのようであるという、その瞬間、瞬間を私どもは全治と称している。ということは、外の歴史はともかく心の歴史は見事にこえている。歴史っていうものが吹っ飛んでしまっているんですね。そうしますと、悩みも神経症もみんな吹っ飛んでいるんですね。 

 で、常々意識というものを問題にして、この森田療法でも意識をよく見極めますと、森田先生がいろいろ説明された、例えば外の問題と心の、つまり内側の問題とが調和するというようなこと、そんなみな吹っ飛んで、ですねえ、ただ外の現実生活だけということだけに窮まるんですね。

 いつもいいお花活けていただきましてありがとうございます。花も芸術の作品です。美的な創造物ですねえ。そうしますと、心とたいへんよく似ているというのは、この作品が見える形でここにあるという点で違いますけれども、ですね、この花の由来、つまりどなたがどういうふうに活けてくださったかというのも歴史でありまして、そういうものまったくこえて、この色と形を今ご覧になる。ということで、皆さんがご自分の視覚によって、ご自分の目の働きによって、美を創り出していらっしゃる。これは確かに美しいんですが、ここにこうあっただけでは美ではないんですね。皆さんがそれをご覧になる時において美が成り立つのです。ですから、何10人いらっしゃた場合も、何10通りかの美が生じて、けっして、ちょっと普通と反対のこというてますが、普通ならばこう皆さんが褒め称えられる美がここにあるというところですけれども、何10人いらっしゃろうと、お一人ご覧になっているのと全く同じで、美のあり方はそれぞれ別々なんですね。まさかこの美しいお花を、他人が違った見方をしているとはおもえないとおっしゃるでしょうけれど、実際は、まったくバラバラにこの美しさをご覧になって、ただのお一人も同じ美を感じていらっしゃる、言い換えれば美を創り出していらっしゃる、っていう方、ただのお一人もですねえ、同じ美を創り出されるっていうことはないんですね。これが日本美術っというものが、21世紀はおろか、22、まっ、これから先ですね、将来もますます発展して終わることがないということの根拠なんですね。

 今は富士山に関係ある名前の銀行はもはやありませんけれども、ですね、その名の銀行がありましたときに、毎年毎年カレンダーを配ってきたんですね。それは上に大きな富士山が描いてありまして、下に1年分のカレンダーが印刷してあると、こういうもんでした。それがなくなってちょっと寂しいですけども、ところがですねえ、私はそれを残しておりませんけれども、毎年違った、びっくりするほどの違い方の絵が描いてありまして、ですねえ、日本画あり洋画あり、同じ日本画でもたいへんな違いがあると。富士山は一つであるんですねえ、もちろん四方八方どこから見て、見方、状況によっては変わるんですけれども、仮にですねえ、まったく静岡県の富士市からだけ見たところと、こう場所限定のものでありましてもですねえ、それは50人の方は50通りの富士山をお描きに、皆さんがですね、そこにいらっしゃったという場合に描かれるんですね。

 今日たまたま、ちょっと新年らしいものとして富士山を持って参りましたんですね。で、日本人なら誰一人富士山を描かないで育ってこられたという方はおられません。もちろん見ないで、ですね、こう、しゅっと、紙にお描きになる。鉛筆で、クレヨンで、あるいはクレパス、あるいは水彩、洋画、あるいは墨絵ですね、いろいろなものでお描きになる。で、そういうことのなかった方は、まずいらっしゃらないでしょう。小学校の時に特にそういうことお描きになりがちですねえ。ところがそれ全部、専門の画家をも含めて同じ富士山でありえない。そういうことでありまして、ですね、これも想像で描かれたことは確かですね、富士山見て描いてない。これは多分、今、三井寺、皆さんご承知の三井寺、本来は園城寺、幼稚園の園ですね、それから城と書きまして、園城寺といったんですねえ。そこで描かれた絵に違いない。で、この絵の先生は、先生って、この人の先生はですね、円山応挙の若い頃ですねえ。で、まっ、そんなことは絵にまつわる歴史ですから、これはかわらないんですね、動かない。ところが皆さんがこれをご覧になる、ということにおいて「あっ、下手だなあ」とかですねえ、「これはわりにいけるなあ」とか、まあそこらはまったく皆さんのご自由でありまして、私がこれを持ってきたからといって、これが良いということはないんです。絵というのはほんとに良し悪しがないんですね。で、なんか新しいでしょう、これは実はぼろぼろになってたのを、私の代になって表装を改めました。つまり改装といいますね、表装を改めたんです。ですから昭和の表装です。中身は江戸時代の18世紀中頃のものですねえ。円山応挙の亡くなったのは1795年、寛政7年でありまして、1795年ですねえ。で、その弟子です。で、今、皆さんのイメージとしての富士山がすでにあって、それとこの富士山とを比較してご覧いただいているというこの事実ですねえ。それはまったくの皆さん思惑どおり、感じてらっしゃるとおりでもう十分満点であるというんです。絵はまさにそこまでなんですね。それを強いていえば味わいということにでもなりましょう。で、それと絵の歴史とは別である。

 ですからこれはこのとおりの活け花作品で、そこに言葉が、「まっ、実にお正月らしいですねえ」とかですね、「これはどなたがお活けになりましたか、まことにお上手です」と、いや実際お上手でよくできてますが、こういうなんか引っ付いてくるものがいっぱいあるわけですねえ。「これはなんでしょうか」とかですねえ、菊っていうのはおかしいですねえ、日本の古い言葉ではありませんねえと、これは中国の発音ですと、菊ですねえ、松は日本の言葉で、しょうといいますとこれは中国の発音になりますねえ。菊は別のいい方はないわけですね、これはやっぱり中国から来たんでしょうとかね、そういうこといわれているわけです、実際に。そんなんは歴史、外の歴史ですね、植物にまつわる歴史。

 ところがこの活け花作品というのは、美的な作品ですから、これはもうまったく皆さんが、松とか菊とかいう名前に関係なく、この色と形をこのままご覧になるというそれでもう十分なんですねえ。実にそこに美が生み出される。なんと美っていうのは、皆さんが視覚によって目の働きによって生み出されるものでしかない。それしかないんです。それ以外ないんですね。

 そうしますと、この人生っていうのは、まさに皆さんがこう、苦しいにつけ、うれしいにつけ、この生活していらっしゃる現時点においてまさに窮まっているんですね、これを全治というんです。 

 で、私が昭和22,23,24あたり、しきりにお寺をまわっておりましたり、あちこちでお話を聞かせてもらったりしていました中にですね、あっちこっちのお寺の見学会を主催するのは会ですけれども、そこに講師としてお願いしたのは、もう古い、皆さん雨月物語、上田秋成の雨月物語の映画化された中に、老女、年とった女の人がこう出てきて、それが毛利菊枝という方でして、その劇団の主催者であったんですね。で、その人のご主人が外務省に関係して海外のことにも関係のあった美術史家でありましてですねえ、宝の雲、「宝雲」という名の美術雑誌をずーっと刊行してこられた方だったんですね。もり とおるという先生でして。で、その方がですねえ、この作品を前にして、「この作品と今の私たちとの間に歴史がなくなってしまっている」とですねえ、「これは不思議なことですねえ」と先生がいわれる。歴史がなくなってしまっている。これは不思議なことですねえ。というて、そういうこというておられたんですねえ。そんなのはもう多くの絵についての、主に仏教美術の専門家でしたから、説明がものすごくたくさんあるんですけれども、そういう説明は本で勉強しても、まっ、できますわねえ。それと違って先生がこうつぶやくように、「歴史がまったくなくなってしまっているというのは不思議なもんですねえ」とこういわれる。そういうことがたいへん今生きてくるんですね。ありがたいことに思えるんですね。

 で、皆さん方にお話ししているのは実にそのことなんですね。心もそうなんです。あの時こういうことが、阪神淡路大震災にしましょうか、それと今と、10年目だから申し上げるわけではないんですねえ。今月17日午前5時47分というようなことを思い出して申し上げているわけではなくて、まったくその記録された現実と、まったく無関係に今それについての思い出、恐怖、あるいは敏感さ、ですね。いっぺん怖いことがありますと、もうその敏感さは、ずーっと続きますし、それをさらになんとかしよう、自分なりに恐怖心を解決しようとすると、ぶわーっとこう増すんですね、敏感になるんですね。まっ、実はそれが神経症といわれるもので、呑気な人には絶対おこらないんですねえ。その、あるいはぼんやりしている人にはおこらないです。自分にもぼんやりしている、外のことにもぼんやりしているんですね。で、その、心のあり方はおんなじなんですね、ですから皆さん方が、ご自分のことにたいへんご熱心であることは間違いないんです。外のことにもご熱心なんです、本当は。ただ今はもう対象が、ご自分の心の問題の方に絞られてますし、明るい焦点、明るい意識の中心は、ご自分の方に向いていることは事実ですねえ。この一度外に向きますと、それくらいの熱心さというのは、見事に、それくらいというのは、見事なっていうことですねえ。それほど見事な熱心さが外に発揮されますから、これはもう素晴らしいことを皆さんがなさる、っていうことはもう予測して間違いないんですね。

 で、今、二通りのことを、ちょっとごっちゃにお話ししておりますけれども、外のことはますますこれから、皆さんの人に負けないお骨折りで、あるいは研究に、あるいは社会生活上の見事な責任を果たし、役割をまっとうしていらっしゃる、家庭をより安定したものに努力されるとか、それでもなお災いがいっぱいあったりして、そこをこう苦心して切り抜けていかれると。そういうその、これからの一通りではない、険しい、厳しい世間のあり方に、皆さんが立ち向かって進んでいかれるというは、それはもう予測にかたくないですね。ますますその方にお持ちになってるすべてのものを発揮される。ところが今はですねえ、いくらか、大部分かはご自分の方に問題が大きくありまして、そのことの解決に骨折られることが日常的にあるわけですね。過去はもうそればっかり、ここに入院していらっしゃる頃はもう自分の問題を優先的な課題として、先に解決しないともうやりきれませんから、ですねえ、まっ、なんとかしようと。ある場合には薬でもう少し楽にならないだろうかと。こういうことであったんですけれども、ここでの生活を続けられますうちに外の問題に重点がかかってきている。つまり心理学の人のいいます他者意識ですね。他人、外のもの、また事柄、つまり皆さんから離れた外のこと、人でしたら人のお世話もそうですねえ。それから、ものは作業として作られるものもそうですし、事柄としては出納係の方が細かい計算をしておられるという、そういう事柄がすべて外の問題に限られるようになった、これはもう見事なもんですね。

 その、さっきの、まあ森田先生に悪いですけれども、調和をとるっていうようなこというているともう具合悪いです、今の時代では。外だけ。と、こうされたらもう満点。っていうのは、前の院長から私にこう繋がってることがらですね。前の院長が森田療法でいうたら2代目で、私が3代目ですね、皆さんが4代目です。で、もう外だけ。というふうにするんですねえ。で、ご自分のものは、じゃあ考えたらいけないのかと申しますと、そうではないんです。もうこれが美であるんです。歴史をこえた、今このとおり美しいものを皆さんご覧になっていらっしゃる、そのこと、これはもう心の、もうまさに今ならではの、ここならではの味わいなんですね。 

 そうしますと外の問題は皆さんの生活の場、仕事の、あるいは勉強の場であるんですね。そして心の中は味わい一色です。味わい一色ですねえ。人生の半分は外で働き、ですねえ、あとの半分は心で味わっているんですね。その味わいの中に、さっきの歴史、PTSDなどが全部入り込んでいるというのは、まことに見事なもんです。それを仕事にしないんですね。味わいとしてしまう。PTSDという場合は解決を必要とする障害の名前です。それをいうと解決を課題としなければならないですねえ。治さなければならないということになるんですが、神経症もそうですが、とにかくそれはすべて味わいに窮まるんです。神経症が味わいになって、外に皆さんの明るい意識の中心がいつもあって、で、次は外のことをする。

 まっ、"次は外" っていうのは去年の秋からいうてることですが、次、外というたらもう今でもいいんですけども、まっ、次は外、順番としてはですねえ、いつも心は味わいながら次は外のことをすると。

 まだ節分には早いですけれども、こうしますと、ですね、福も鬼もおんなじ対策でいいということなんですねえ。福はうち、鬼は外っていうのが、そもそもこれは前の院長が申しました「選り好み」でありましてですねえ、それが神経症のもと。つまり、こう自己意識、自分で見た自分の心の中に用事があるんですね、鬼を追い払う。福を招き入れる。そういった用事があるわけですねえ。それが世間一般です。ところが皆さん方はその用事がなくて、鬼は鬼で味わい、まっ、いうたら出迎える、ですねえ。福は福で出ていこうがどうしようがご自由という、そういう、すべてがそのように流れている味わいとかわります。

 ですから前の院長は、「ばちが当たったらどうしましょう」という人に、ですね、「ばちは当たっていったらよろしい」とこういうたんです。「ばちに当たっていく」とこういうたら、もう全治なんです。神経症で申しましたらもうこれ以上のことはない。それはちょうど、不安が出てきたらどうしましょう。恐怖が起こったらどうしましょう。というのに対して前の院長が、不安、ほんとの言葉を申しますと、ほんとの怖がりになりなさい。とこういうたんですね。それは不安でいなさいとか、恐怖していなさい。ということですねえ。ですから、なんとか恐怖っていう人は実際は逆でして、なんとか恐怖しないでおこう、恐怖しないでおこうというのが趣旨なんですね。皆さんもおもい当たられるでしょう。なんとか恐怖、まっ、対人恐怖を例にとりますと対人、人に対して恐怖しないでいられる自分というものを目指しておられるんですね、こんな自分ではいけないとかですね、人に見透かされ、弱みを見抜かれるとか、こんな自分ではいけない。というようなことで、恐怖しない、もっと強い自分とか、しっかりした自分でありたいというのはよくわかりますですねえ。願望としてはわかるんですけれども、願望はただちにそうでないといけないというお手本になってしまう。というところに、まっ、世間一般の、そして森田神経質において著しい人間らしさがあるんですね。

 これ人間らしさですから、神経症というのは病気ではなくて、人間らしさの、その人の性格に表れた特色でして、ですね、お一人お一人違ってていっこうかまわないんですねえ。なんかその人の、こんなんではいかんと、もっとこうならないかんというものがまずご自分の中に組み立てられていて、それがさっきの自己像ですねえ、自分というものはこうであるのが本当だと。そういうものがお手本がありまして、ですね、そうでない現実にどう立ち向かうかっていうことに熱心になりますと、神経症が起こってくるんですね。ですからそれがすべて味わい。ということにかわってしまうのがこの今、講話を聞いてくださっている瞬間、瞬間のことなんですね。つまり治るのも一瞬である。というのが嘘のようにおもわれるんでしたらもう一つ、ですねえ、なるのも一瞬なんですね。 

 この間から特に強調しております、神経症が何ヶ月、ときには何年も、まっ、PTSDでしたら10年ですねえ。まあ、それは阪神大震災この方、長い歴史を今にひきずっているわけですが、なるのも一瞬というのはおかしいじゃないか、10年かかっていると、その人はいわれるかもしれませんけれども、それにとらわれるのは、とらわれている現実なんでして、この講話をお聞きくださる、ということがこのとおり見事に行われていれば、意識っていうものは、二つのものを同時に意識することは不可能なんですね。つまり片っぽうだけ、ある一つのことだけにほっといても集中するわけですから、それだけでいけばもう阪神大震災は、おぼろげな記憶の中にあるものの味わいとかわってしまうんですね。つまり怖いなりに、あるいは気になるままに、それがこう味わいとなって、おぼろげながら記憶の中に浮かんでいる。で、現実の生活にいつももう今も次にも、すっとこう取り組んでそこから離れないんですね。それでいくわけです。

 で、その今お話ししたことを、この絵についてお話ししますと、これは、ただの富士山の絵で、このうっすらした淡白な、あるいは瀟洒な、筆数の少ない描き方は、それなりの独特の趣があります。ちょっとこれ、やっぱりねえ、今こういう描き方をする人はない、という絵の流れがあります。歴史の大きな流れがあります。こんなんではすまされないですね、今の人は。そこに18世紀の絵の独特さがある。などといいますと、今度は絵の歴史の話にかわってくる、他者意識にかわってくる。この味わいと他者意識の美を作品を論ずるということとは別なのにですね、そんなにこう隣合わせで、すっとこうかわってしまう。感ずること、見ることは感ずることですねえ。そして今、18世紀のなんのといいましたのは知ることですねえ。ほんとは感ずることと知ることとは別なんです。それが、すっとかわってしまう。それが危なっかしい。心でもそうです。味わっているつもりが、つい自分の心を、なんやかんやと意味付けしてしまうんですね。意味の世界は、心には、実は通用しませんのですね。神経症は意味で成り立っているんです。それを意味があって当然とおもっていますと、治らなくなってしまうんですね。ところが意味とは関係ない感ずること、さっきは味わいといいました、それで徹底していく。それが自己意識の中のすべてでありまして、外の問題を皆さんが優れた知能を発揮して、いつもかも取り組んでいらっしゃる、それが他者意識へのあり方なんですねえ。そうしますと、味わいはもう皆さんこれご覧のとおり、その応挙に習った人はだれか、ですね。

 この、下に書きましたのが、筆者、円満院門主祐常という方ですねえ。普通、祐常門主というています。実はこの軸には祐常親王と書いてあります。で、そのことをめぐってその研究家でした元京都博物館の館長の土居次義先生は、これは親王ではないと、そういうふうにはっきりいわれたものですが、最近、岩波の日本史辞典をみていますと、やっぱり親王と書いてあるんですねえ。まだその先調べたことがありません。そう書かれているのは事実です。その人はですねえ、その、実は円山応挙の若い頃、仙嶺というていました。応挙と名乗る前、で、その人は経済的にあまりめぐまれない画家であったんです。ご存知のように写実画派っていうのは、相手にされなかった、当時の画壇からしたら、ですね、あんなのは図である。図っていうのは今でしたら動物図鑑みたいなものですね、そっくりに描いてあるだけの話だと、ばかにされていたんですね。で、流行らなかったんです。その時に、その応挙の腕に目をつけて経済的に援助した人なんですね。それが応挙との縁なんですが、逆にその若い円山仙嶺から絵を習ったんです。祐常門主は絵を若い頃の応挙に習ったんですね。その時の作品である可能性があります。で、この人は月の渚。今黄色で書きました月の渚、「月渚」という号をもっていたんですね。土居先生は月の渚、さんずいへんに甲乙丙丁の丁を書きます。というふうに教えてくださったんですけども、これ見たら難しい方ですねえ、さんずいへんに者という字を書いています。同じ意味ですね。  

 それで、応挙の腕を見込んで七難七福の図を描かせたんです。それが今、円満院に残っております。これはもう大したもんで、つまり人の一生、いろんな良いことも悪いこともごっちゃにありますですねえ。それを分けて、ずうーっと絵巻物にしているんです。それが不思議なことに、ここの東福寺の勝林寺、東福寺の中の毘沙門天を祀っている一塔頭ですが、そこにあるんです、また。つまり応挙は、一つ作る時に同じものを二つ作ったんですねえ。

 七難七福の図は、ですねえ、人間のいろんな行動の様子、つまり普通の言葉でいうたら、その動作のポーズが上手なんです。それはもうその頃になってくると、そういうふうでないと具合悪かったんでしょう。とおりいっぺんのポーズを描いてたんではもう流行らないですねえ。応挙っていう人は、みんなこの薄い赤、朱で、ですねえ、身体の、いうたら着物を着ていない時の絵を描いた作品、描いとくんですね、そこにこう着物を着せていくというのは、まあねえ、そういう念のいった、もちろんそれは絵には出てきません。その下絵にある。今お話したのは下絵があるっていうことですねえ。これが抜けてましたけれど、その下絵がありますからその上に紙を置いてまた描けば同じものが二つできるわけですね。そういうことです。

 で、今お話いたしましたのは、外の皆さん方からすれば勉強の方の話ですね、他者意識の中では、ますますそういうことは、今後追求していただきたいですね。一晩おきにここで、スライドで、古今東西の名画をご覧いただいていますが、その説明が、すべて他者意識の中の事柄ですねえ。そしてもっぱら作品は味わうだけのものなんですねえ。そして今、20世紀の半ばに入って、もう後半に入っておりますが、皆さんにご覧いただくということと、その説明との割合がですねえ、だんだん説明がいらなくなってきたわけですねえ、抽象絵画になってきますと、説明があったらかえって具合が悪いぐらいです。つまり、ここで本当の絵を見る姿、ほんとの絵の見方ですねえ、それが現代においてはっきりしてきたというてもいいんですね。昔は、何がどう描れててあるか、誰が描いたか、いつ描かれたか、そういうことが問題になる。ということで、そっちの方の勉強を美術の歴史、美術史として、ずいぶんとたくさんしたもんですけれども、この抽象絵画ですと、どういう成り立ちか、誰が描いたかっていう、それはまあ確かにそうですけれども、絵そのものについての、なにも知るっていうことは必要なくて、ただ感ずること、ですね。見ることあるのみ。というふうに窮まるわけです。で、これが現代の皆さん方の幸福であるんですね。昔の人は、絵はわからないといけないとおもってたわけです。つまり絵を見ていなかったんですね。知ることに重点をおいた鑑賞でありまして、ほんとうの鑑賞ではなかったんですね。今にして皆さん方はこの富士山がですね、富士だとおもってご覧になりますけれども、これは非常な抽象絵画なんですねえ、抽象性をもっている。

 円山応挙が写実派の、まっ、いわば元祖ですけれども、弟子の祐常門主は、このとおり応挙に忠実ではないんですね。これはものすごく面白いことです。ですからこれは、さっきは祐常門主が応挙に習っている頃といいましたけれども、もっと後かもしれませんですねえ、独自の画風といってよろしい。

 はい。それでは今日の講話はこのへんで終わりといたします。

    2005.1.2



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