三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


わかる前に治る 



 実際には、考えによる治療ではありませんので、皆さん方固有の今の考え方を改めていただく必要は、まったくございませんです。どういう思想の持ち主でいらっしゃいましょうとも、それに一切関わりなく、この神経症問題、あるいは悩み一般ことごとく、よく、きれいに、この瞬間にも治っていただくことができるという特色がありまして、むしろ考えが皆さん方の治られるのを妨げるという、思ってもみられなかった事柄が、現実の大きな問題です。考えで待ち受けていらっしゃる、そういう皆さん方を考えて、私が皆さん方のお気持ちを予測して先回りして、こういうことを申し上げて、この講話を始めさせていただきます。

 したがって講話は、ひたすらただお聴きになればよろしいものでありまして、この一般に、特に文章でも詩でも、場合によっては能や演劇におきましても「起承転結」ということは、古来重要な、その構成つまり成り立ち、組み立ての要素として、ですね、もうご存じでしょうけれども、組み立てはたいへん役立ちますね。ところが、この療法、あるいは心のあり方におきましては、まったく必要がないのです。むしろ邪魔になるくらいでありまして、こういう構成、組み立て、成り立ちは、この講話にはございませんです。どこをお聴きになりましても、例えばこの録音をあとで、皆さんお聴きになります場合に、最初から終わりまできっちりお聴きにならないと肝心なものが受け取れないのではなくて、終わりの方、五分の一お聴きにになった場合でも、まったくその効果的な役割をはたします。つまりよく効きます。

 講話が、ほんのちょっとしか聴けなかったという場合も、その効果は、まったく同じことですので、全部聴き終わって、ああ、なるほどそうだったのか。ということにはなりませんから、逆に今日の講話はよくわかった。と、今まで全然わからなかったけれども、今日ので納得できた。という種類のものは、本物ではありませんのです。

 そういうふうですから、学校の授業とまるっきり、その役割が違いますので、何らの心理的な受け渡しという、皆さん方のほうへ私からお伝えするという趣旨のものがありませんので、世間でコミニュケーションの理論で申します媒体ですね、メディア、コミニュケーションメディアですね、メディア、そういう媒体というものが、この私の言葉でありながら、ですね、それが役割をはたしておらないのです。つまり、ないに等しいですね。そういうことを申し上げている、というのはおかしな話ですねえ。この私の言葉が役立ちませんというふうに今お話しているのですから、まったくおかしな話であるといわなければなりませんですね。

 したがって講話は、お聴きになればなるほど、考えで受け取られる皆さん方の、今までの教室、講義室での先生のお話、授業の受け取り方とまったく違いますので、ぜんぜんわからないですね、あるいは納得がいかない。いうふうに思われようが思われまいが、どっちも治られます。つまり皆さん方の、この講話に対する反応として、どういうふうにお感じになるか、どう受け取られるか、その皆さんのお聴きになった上での感想は、ですね、つまり、どうであろうと皆さん方が治られることにまったく関係がありませんです。という趣旨のものですから、日本古来の心に働きかける、心を唯一の大事な精神修養の中心的課題である。とした生き方と、これからの講話とは、まったくその趣を異にするものであるんですね。

 その点、ほんの少しも分かっていただかないようにしようというところまでになっていますから、いささか取りつく島もない、ですね。

 本来、心の問題の真の解決は、皆さん方が、ご自分の頭の中の働きを、ご自分で変えようという、考えてみてもおかしな話でありましてですね、そういうところに、いわば無理なもっていき方がありましたわけですね。

 きょうここに、「養神ようじん」という、おそらくどんな機会にもご覧になったことのないだろうとお察しいたしますが、こういう掛け軸を持ってまいりました。

 この「しん」から先に申し上げますと、これは精神そのものです。けっして、神を養うではなくて、精神を養う、言い換えれば修養ですね。この修養、精神修養というのも、近年ますますその影が薄くなりまして、およそ使われないようになってきているかに思われますけれども、ですね、これはすべての人に、まっ、絶対必要なことがらでありまして、ですね、皆さんが、宗教なんか用事がないとお考えになることもあろうかと思いますが、それは宗教に関連していろいろな、それぞれの宗教の行事や、それから経典、ですね、尊い内容の本など、それに関連して独特の宗教的行事ですねえ、そういうものが目について、そこに魅力を感じられない。むしろ嫌がられる傾向があろうかと存じますです。

 ここは医学、精神医学に関連した治療施設ですから、宗教には関係ありませんけれども、内容的にまったくぴったりな事柄は、その趣旨におきまして、皆さんのご参考になることが大きいので、宗教に関連した話を話題にいたしますけれども、趣旨はあくまでも森田療法あるいは皆さん方の、本物の皆さん、今までお気付きにならなかった、これが自分かというもの、ですね、それをこの講話の終わるまでに発見していただくという狙いがあるものですから、ですね、それに役立つものでしたら、まっ、たとえ昔の宗教に関係のある話も役立つものはなんでもいたします。しかし趣旨は、実は皆さん方のお考えによらない、本来の生き生きした姿を、この場で実現することそのものでありますから、ですね、どれもこれもその共通の狙い、あるいは趣旨として簡単に言えば、何ものにも関係がないということを申し上げればいいのです。

 最も皆さんに関係の深い言葉で申しますと、治るのと治らないのと、その二つを比べることがまったくない。治る治らないの両方に関係ない。という趣旨の話ですから、皆さん方多分、もう何がなんでも安心が必要だ。不安はほんのちょっとでも残っていたり、また顔を出してきたりするということが嫌だと、こう思っていらっしゃる。そういう方々にこの講話は、一挙に選り好みをやめていただいて、まったくそれらに関係のない、皆さん方のご自分に対する見方、捉え方、評価ですね、そういうものの良し悪しという、価値的なことの捉え方が、この一瞬に消え去れば、ですね、この療法の趣旨は、この瞬間にも、もう皆さん方のものでありまして、話を聞いてわかってそれから治るという順番は、まったくありませんのです。極めて速い、あるいはこの一瞬のことであると、そういう見方からすれば、とても現実的であるんですね。架空の話をして、遠い将来いつの日か治りますというのではなくて、この現実をおいてほかに、皆さん方が全治なさる、最高によくなられる瞬間は他にありません。という話をしているんですね。

 これが精神を養った状況です。心を磨いたり、心を丸くしたり、明るくしたりする。というのが精神修養ではなくて、ですね、皆さんご自身に、今までのお考えにまったく関係のない、そしてこれからも、なんの関係もない、なにかに関係づけてご自分を良いあり方にしようとなさる工夫のまったくいらない。という皆さんが、にわかに誕生されるという瞬間は、ですね、その機会は、あまたありまして、もっと平たく申しますと、いつもかも皆さん方は、全治していらっしゃるほかありませんですねえ。

 治って治って治ってばかりでしかいらっしゃることができない。治らないでいらっしゃることができないのです。ただ、それを残念にも、見逃していらっしゃるんですねえ。なにによって見逃されるかといえば、ご自分の考えによって、ですねえ、その素晴らしい瞬間を見逃しておられますので、治らない治らないと嘆いていらっしゃるに過ぎませんです。

 この今の話は、万に一つの、あるいは千に一つのですね、とても貴重、珍しい、難しい機会ではなくて、いつでもどこでものものですから、ご自分についての、ああだこうだと決めていらっしゃる、これが自分だというその決め方を、この瞬間にもやめてしまわれる時には、ですね、そこに、思いもよらん、まったく今までと異なるご自身が、見事に現れて、ですね、今まで考えた自分、考えた心、考えた人生の中に生きてきていたなあと、そういうふうに、つくづくと思われる、そういう瞬間が、いつもかもあるということですね。

 もう一度ひとたびそれを見出されますと、真っ暗な部屋で、例えば停電による真っ暗になった時に、まっ、どなたかが、ちょっと柱に備え付けてあります電灯を、ですね、こうぱっと付けられる。と、その大体の見当がついて、まっ、例えばこういう机にぶつかることがありませんですね、片隅でぽっと明るくなれば、大体の検討がつきますね、ああいう検討のつき方が、どの場所でもどこでもですね、起こる可能性がいっぱいありまして、ひとたび検討がつきますと、今までの皆さんの苦心、やりくり、治そうとする努力はことごとくいらなくなります。

 治すということは、皆さんの良いと思われること、好きなことのほうに全面的に変えていきたいという感情の自然、あるいは人情によりまして、目指す良い心の状態が、はっきりしておりましたんですね。そのために、考えた自分を絶対離れることができなくなっていらっしゃったんですね。

 その考えた皆さん方、考えた心、考えた人生という、それ自体が、もう本当のものをきれいに離れてしまって、架空の描いた皆さんであり、心であり、人生であった。ということが、ひとたび明らかになりますと、もう改めて自分を描いて決めるという、わざとらしいことはもうなさらなくて済むのですから、至って手間の省けた、用事のない、ご自分という変化がありますですね。

 今は、皆さんご自分のことで、とても重い気持ちになっておられるほど厄介なお荷物でありますけれども、ですね、それが、まったく手間の省けた状態。どうすることもいらなかったものとして、手出し無用という言葉がありますけれども、そうする必要がないという意味の、手出しのいらなさは、ですね、めっぽうすばらしいです。どうする必要もない皆さん方が、はっきりそこに現れるんですね。ほっといても現れるんですね。いや、ほっとくと現れるんですね。そこに神経症、あるいは悩みの状態における、ほっとけない事情というものが、どなたもの良くなられることを妨げていたということが、あとではっきりいたします。

 考えた治った状態、それは必ずや今の皆さん方にとっては良い状態。あるいは段階的には高級な状態でして、それを心の向上、あるいは治療の狙い、となさるということは、まことによくわかる事柄です。よくなりたいということですねえ。ところが外の社会の事柄をよくしようというその努力は、この国家的にも、あるいは世界的にもですねえ、それはよくなる方向へ向けてのみんなの努力というものが必要ですけれども、内側へ向けて、自分自身によくなる努力というものは、その自分で見た自分の世界におきましては、思いもよらないことに、まったく、その基づく論理が異なりますので、なに一つ皆さんの分かっていらっしゃる通りのものはないんですね。筋の通ったお考えが、そのまま通らない、通じない、役立たない世界なのですけれども、まさかそこまでは、変わった世界とは思われていませんですね、ご自分の中ですから筋書き通り、理屈通り、どんな理論も通用すると思っていらっしゃるでしょう。それは外の世界に役立つ、皆さんの優秀なお考えが、自分の中にも通用するという、一人勝手に思い込んでいらっしゃるだけの話で、外の事柄を、心の中にほんの少しでも持ち込んで役立つことは何一つありませんのです。

 心の中はまったく筋書きの異なる世界、というその見方が、世間にはまったくありませんので、自分の心ですから自分でなんとかすればよいと、そう思いがちなんですねえ。

 皆さんも、ごくお小さい頃に、自分のことは自分でしなさいと、お父さんやお母さんから、しつけられてこられたんですね。そういう教育を受けていらっしゃれば、学校のことはよくわかりませんけれども、とにかく自分で自分の心をしっかりとよく保ち、明確な「これが自分だ」という中心をいつも保ち続けるということが大事であろう。というふうなお考えは、かなり共通して皆さんお持ちのことです。

 その自分というものをはっきり安定した状態に、あるいは明るく保つというその趣旨の事柄が、もっぱら修養と考えられて、日本ではそれが古来、神道、神様の方、神社の方ですね、の思想として受け継がれてまいりました。これは思想です。私が講話でお話するのは思想ではありません。私の考えではありません。森田先生のお考えでもありません。神さんの方の思想は、改めて申し上げるまでもありませんけれども、明き、浄き、直き、誠の心ということを主張して、明きっていうのは、英語のレッド(red)ではなくて、ぱっと明るいということです。直きっていうのは、もう説明するまでもありませんね、神道では、穢れるということをきらいますので、穢れのない、あるいはこれを純粋と見ていいかも知れませんが、浄い、汚れてない心ですね。直き心、直きっていうのは、直しというのは、この素直さです。簡単に改めて論ずることのない素直なあり方をいいます。で、誠の心っていうのは、そのぶっつけに今あるそのままが誠ですけれども、しばしばそれは誠意。人に対しての心ずくし、という趣旨を含みますですね。明き、浄き、直き、誠の心で生活をするのが、かんながらの道である。もう今の皆さん方ですと、かんながらの道っていうのは、どこにあるのかというほど縁遠い言葉でありましょう、また、お聞きになってない方もいらっしゃるかも知れません。3年ほど前に、医師で神主でいらっしゃる方が、日本森田療法学会で、「かんながらの道と森田療法」という、そういう趣旨の発表をされました。で、後でまた私もご挨拶したんですけれども、それはその、さっき一つ直きですね。明き、浄き、直き、誠の心。直きというその素直であるというそれは、確かに共通しているんですね。つまり心の問題を論じないという趣旨ですが、どうも、ほかのは森田療法と関係がなさそうだなあと、思って私は聞いておりました。しかし、かんながらの道っていうのは、この自己意識のなかで、この自己像、自分を描いている皆さん方の、これが自分だというイメージですね、それを表に出していかないものなんですね。そういう趣旨が、かんながらの道であるとすれば、森田療法的ではあります。

 で、そういうふうに、心の問題として修養をとらえるという大きな流れが、この古い日本にはありましたんですね。日本にはそれだけかといいますと、それよりは、ずっとわずかではありますが、鎌倉時代以来、自分をこうだと描かない。自分を決めない。自分というものがあるとかないとかさえもいわない。そういう精神態度というものが伝統的に、伝統的っていうのは、教わっていくということで、教える人と教わる人がいる教育ではなくて、まったく言葉で伝達することがない、コミュニケーションがない、という心のあり方で伝わっていく。そんなおかしなことは普通はないですねえ。伝わるっていうのは、コミニュケーションによることは間違いないんですけども、なんにもないものを伝える。なにも教えることがない、あるいは教わることがない。というその間柄、それを尊ぶんですね。先生から弟子へ、また教える人から次の弟子へというふうに伝わっていく、とすれば、それは思想ですけれども、そこになにも決めない、なにもそこに描かれない。「これだ」というものがない。そういうものが伝わっていく。これは言い換えれば、普通の表現なら、まったく伝わらない素晴らしい道と、こういうことですねえ。

 たびたび講話でお話を最近はいたします、大燈国師ですが、その弟子の人たちへの戒めた遺言に「不伝の妙道」というのが、自分からあなた方へ一番伝えたい大事な趣旨であると。そう述べておりまして、この不伝の妙道を身につけていない人は、自分の弟子とはいわせないぞ。と、こういってるんです。自分の子孫、児孫というてますが、児は、児童の児です、それと孫ですね。児孫と称することを許さじ。自分の子供や孫、まっ、それは弟子ですね。弟子と自分からいったりしてはいけない、とこういうんですねえ。この「不伝の妙道」を、ちゃんと持っていないことには、自分の、大燈国師の弟子ですということを許さない。と、そんなに書いているところです。これははっきり、コミュニケーションがない心のあり方を明らかにしたものですね。

 今日持ってまいりました、精神を養う。修養ということはまさにそれでありまして、何かの今まで気がつかなかった思想を、皆さん方が、新たに私から教わり受け取って、それを実行するようにという趣旨のものではありません。まったく自分を何かである。何か、例えば森田療法を受けました。というふうな、皆さん方ならそうおっしゃりたい、ですね。受けましたけれどもなかなか治りませんでした。というふうなことになるかもしれません。受けたのでよくなりました。とおっしゃるかもしれませんですね。それ、どっちも具合が悪い。ほんとに治るという状態は、自分がAの状態からBの状態に変わりました。という、その経験にまったく無関係のことです。皆さんが描かれる、治る筋道、経過ですね、そういったものが治ることに必要なのではありません。

 ほかの療法のことなんか、もうどうでもいいのですけれども、計画、例えば10回の面接で、あるいは10回のセッションで、とこういうふうにいいます。その段階的に進んでいく、療法が進んでついに治る。ちょうどこう、階段を登るように治っていくというふうに考えられた療法の系統的な組み立てが、行われておりますですね。ここにはそれがありませんです。

 今日初めてこの講話をお聞きになった方も、本治りされます。10回お聞きになった方も同様です。早く皆さん方が、本物の皆さんでいい生活を始められ、それでここでの生活を何10日か過ごされるっていうことを私は一番期待しているわけですね。40日たてば治ります。とか、20日たてば半分治っているでしょう。とかいう経過というものを重んじませんです。皆さんが毎日のご気分が良かったり、悪かったり、という普通の言葉では波があるとしますね。あるいは進んだり後戻りしたり、一進一退であると。というふうな経過ですね、そんなん全然関係ないです。

 その、今までのやってこられたことが何だったのか、つまり無駄であるとして、もうこの瞬間に治られるということほど素晴らしいものはない。

 世界で瞬間的に治るもの以上に速く治るものはないです。で、また、治るのは、決してだんだん治るのであってはならないのです。瞬間的に治ること以外にありえないんですけれども、それは、ここにいらっしゃる方々以外の、ほとんどすべての方はお分かりにならない、だろうと推測しますですねえ。

 瞬間的全治以外にありようがない。治りようがないのです、本当は。だんだん治る。その治った状態は禅の悟りに等しい。と、認知療法のある先生が、東京からみえて、京都でそんな講演をされましたけれども、それは全然おかしい、全くおかしいんですね。

 悟りに近いんじゃなくて、今日皆さん方が、本物の悟りと何ら変わらない素晴らしい状態を、ここで座っていらっしゃりながら体験されることほど素晴らしいものはないんですね。

 もう、お察しがついていらっしゃるかもしれませんが、比べたらいけないんです。悟りと悟りに近いものと悟っていないのと、この三つを比べてはいけないんです。

 ここまでお話して、言葉で表現するっていうことは、もう脱線であるという、心についての、もう、ほんとのところを申し上げた上で、悟ったのと、つまり皆さん方は、全治なさったのと全治なさっていないのとは、全く比べることができない。言い換えますと、同じっていうんですね。皆さん方は、治りたい一心から、何が何でもこの講話でかなりなところまで治りたい。と、今日ご希望であろうとお察しいたします。けれども実際は、比べないということですねえ。で、比べるのは、必ず言葉や文法、つまり論理を使いますですねえ。

 それは、その瞬間に皆さん方が、本物の皆さん方でない、考えた皆さん方、あるいは心、というふうに置き換えられてしまっているんですねえ。この講話の趣旨、この「養神」というのは、考えに置き換えられない皆さん方、どのようにも言葉で決められない皆さん方、教育的な伝達が行われていない心のあり方、ですね。それを指しているのです。したがって、心の問題、治る治らないの問題など、一切の言葉による比較は、本物、全治、あるいは真実に生きる姿においては、ありえないんです。

 ですから、治ったのと治っていないのとが、全く比べられない、同じという、同じというのは、概念、考えですねえ。それよりも全く比較がないというのは、言葉のない状態ですねえ。ですからそれは、皆さん方が、生まれたての赤ちゃんのとき、等しくそのようでいらっしゃって、「お母さん」という言葉もご存知なかった。そういうときに、どなたもが真実、もしくは本物でいらっしゃったんですねえ。ですから赤ん坊にできて、皆さん大人の人にできないってことは、ありえないんです。

 あるいは、ちょっと例えが悪いかもしれませんけども日本猿、あるいはチンパンジーが立派にそれを成し遂げている。一生やっているんですねえ。心の健全というのは、そういう言葉のないところに歴然とあるんですね。

 で、一方、外の世界、社会に生活をしていかれる皆さん方には、言葉と論理は大いに必要です。したがって、これを他者の意識におけるあり方として、人間の知能、知性というものは外向きの仕組みと捉えることができます。

 それに対して人間の知能、知性は、自分を守ったり成り立たせたりするには不向きである。まして、治すということには絶対よろしくない。役立たないんですね。

 これは心理学的な事実として、すでにいわれている事柄です。人間の知能は外向きの仕組みである、外部機構である。ということを、改めて申し上げないことには、皆さん方は自分のために、心のために、人間の知能、ご自分の優れた頭の働きを、役立たせようとして努力していらっしゃったんですね。これは使い間違いであるんですね。これからは言葉や文法、すなわち論理を、外へ向かって大いに発揮していらっしゃれば、もう全治疑いなしです。

 じゃあ心をどうしたらいいか、これは言葉なしの、ただこのとおりというだけのことです。このとおりというのを森田先生は「あるがまま」といわれたんですねえ。それは論理をわざわざなくす、というふうに思われたかもしれませんけれども、本来、論理のない世界なんですね。というのは心とか頭、まっ、皆さん方、心と脳と申しますと、その二重のあり方ですね、脳は見えるもの、心は見えない脳の生み出した現象ですが、いずれも外界に対応する仕組みとして発達したものです。したがって外界をしっかり把握する、社会に生きていくために、子供が教育を受けて、脳を発達させてきている、ということはお分かりのとおりですねえ。つまり外向きに発達した部分で、自分自身が先に論理化されて育ってきたわけでもなんでもなくて、ですね、あくまでも身体は、言葉のない世界。で、その優れた外向きの働きとして脳が、大いにその知能を発揮するわけです。

 ところが皆さん方は、嫌だ。とかですねえ、気に入らない。辛い。苦しい。という好ましくない状態において、その脳の働き、つまり心を自分に役立たせようと使われます。それが方向として使い間違いであるんですね。

 で、それを昔から見事にやめた人たちが、ほんの、この日本でも限られた少数の修養生活あるいは修行をした人が、それは多く宗教家ですけれども、自分を考えに置き換えない状態の立派にあることを実現し、それを書き残しましたんですねえ。その一つが、この大燈国師の「不伝の妙道」です。心の問題は、全くそれを分かる形から出発してはならない、ということですねえ。

 道元という曹洞宗の禅をはじめて普及しました、鎌倉時代の優れた坊さんは「心を先とせざれ」といったぐらいです。「心を先とせざれ」心から解決しようとしてはいけません。心を問題にしてはいけません。ですから、明き、浄き、直き、誠の心っていうのは、本物ではありませんですねえ。

 戦争中は神道、神さんの方が大事でしたので、こういう話はできませんでしたんですねえ。けれども今となって公平に批判すれば、心を問題にしない、たいへんはっきりそれを表明した禅の人たちの功績は、まことに大きいです。

 心のあり方を、一切決めないということからすれば、ですね、心は変化のままでいっこう良し悪しがない。この良し悪しがないというのが、まったく値段をつけることのできない、素晴らしい宝物である。「無礙むげ宝」というんですねえ。

 東福寺にいらっしゃって方丈を見学された方は、その最後のお堂から離れる手前の、そのお堂の高いところに「無礙宝」という額が掛かっています。何か特別の心の拠り所、心のあり方を示すものがあるのではありませんと、明確に物語っているわけですねえ。

 昭和25年に東福寺に管長としてこられた林恵鏡、恵鏡というのは恵、鏡と書きますが、恵鏡老師は、そのお部屋の名前を「無礙室」この無礙と、部屋の室ですねえ。「無礙室」と称して、そんな字を書いた木の板が、その部屋の前にありましたですねえ。

 こんな扇形の木の板が、お部屋の入り口の側に置いてありました。「無礙室」と書いてありました。心の問題に価値を問わない、良し悪しがない「心に良し悪しなし」ですねえ。皆さん方は、良い方を望まれるあまり、あまりっていうのは、それの影響として好ましくないのを嫌われますですね。安心を好まれるあまり、不安を嫌われますですね、安心好みの不安嫌い。ということですね。これを言葉をなくせば簡単にやめられます。一切、自分で見た自分、あるいは人から見られているであろうという自分。これを自己意識といいますが、自己意識内に言葉を持ち込まない。つまり身体の続きですから、身体の中に社会的な仕組みが元々あったわけでもなんでもないんですね。ちょうど手に持って歩くライトのようにですねえ。

 仮に身体と心、あるいは脳と心と、こういう平たいいい方にしました場合にですね、それは必ず外へ向かって照らす仕組みです。それを皆さん方は、自分を照らして使い間違いをしていらっしゃる。こういうふうに図示することができるんですね、本来は外向きのものですどこまでも。したがって、これが自分だ、これが心だ、これが人生だ。といっているそれは、ことごとく脱線でありますから、そこに治った状態を描く努力をしていらっしゃるのは大間違いですね。

 こういう基本的な心のあり方というのが、世間では間違いも堂々としてまして、ですね、あまりにも間違ったことを平気でいってるもんですから、それが正しいと思われがちであるんですね。明き、浄き、直き、誠の心が大事だと。いうようなのは、悪いですけど、それは具合の悪い、本来の心をよく見抜いたものではないんですねえ。ですから心は変化しどうし、したらしたまま、そしてまったく言葉のない心のあり方からしますと、よいも悪いもありませんと、こういうことですね。

 江戸時代の初め、17世紀に、盤珪というお坊さんが、禅のお説教を今でいう口語でしたんです。みんな漢文をもっともらしく書いて難しいですねえ。それに盤珪禅師ばかりは仮名法語といいまして、この方は「すべては不生で整いまする」と、その仮名法語でいっておりまして、ですね、これが日本的な禅の神髄を見事に踏み外さないあり方として有名ですね。これで盤珪の不生禅といういい方があるのはお分かりいただけるでしょう。盤珪の不生禅といいます。私はそれを昭和19年、1944年、学生のころに聞きました。よくまあ、あの戦争末期にそういう話を、まっ、哲学、西田幾多郎哲学教授のお弟子の方でしたが、そういう話をされたんです。友達に聞いても誰もそれを憶えていませんが、私、禅の話だったんで熱心に聞いたのかもしれません。

 不生禅。不生っていうのは、要するに言葉を生じない、持ち出さない。ということをいうてるわけですねえ。生ずるっていうのは、概念化あるいは考えが、皆さんの頭の中で始まること、それが生じているということですねえ。で、それに対して全く言葉が生じない、何かが始まらない、何かがそこに出来上がっていかない状態ですね。その皆さんのお考えとか心に、こうだああだという、その意味が生じない状態が不生です。それでうまくいきます、とこういう。

 ですから雷で怖くてどうにもなりませんとですねえ、これは修養ができてないためでしょうかと聞いた人がいて、その人に、驚いたら驚きっぱなしでよろしい。「驚きなばそのままにてよし」と、こういうてるんです。もう森田療法を先取りしたようなもんですねえ。これが本来の心の素晴らしいあり方ですね。ですから森田先生よりも前に、もう鎌倉時代以来、日本にはそういう、自分を決めない、心を決めない、という趣旨の修養をしていた人が禅の方にはいくらもいたということですねえ。わずかではありますけれども、それが森田療法となって現れた。こういう見方もできるんですねえ。

 皆さん方が、この瞬間に、見事に、講話がもうじき終わりますけど、終わるまでに治ってしまわれる。というのは、ものを比べるっていうことの絶対ありえない瞬間の体験ですね、経験というてもいいです。今この瞬間の純粋な経験、純粋経験ですねえ。それをたっぷりなさることができるからです。皆さん方はもう、治らずにいらっしゃることはできないですねえ。こう瞬間、瞬間、それが考えによって覆われて、全然隠されてしまうんですねえ。考えで物事、心を、あるいは自分を描き始めますと、それは使い間違い、やり方の間違いということを気がつかずに、どんどん自分の興味のある、皆さん方でしたら治す方に努力をされますから、その言葉を使って出来たもので自分をだめにしてしまうんですね。言葉は外向きの道具ですから自分を良くするため、治るために使うというのは、使い間違いなんですねえ。

 中は不生で整いますると、盤珪禅師がいうとおりで、心がどうなろうと、その変化のままに、ただほっておくのが今日の「養神」という趣旨、あるいは森田療法の「あるがまま」という神髄です。意味、良し悪し、価値的な見方というものを、心の中に自分の中に持ち込まないようになされば、今日皆さん方は見事に全治なさる。その瞬間は、たっぷりありますですね、かく、それぞれの瞬間すべてが、皆さんの全治の瞬間です。瞬間に、AとBと二つをけっして比較することができないんですね。したがってその瞬間を見逃さない、比較することのない皆さん方が、治らないでいらっしゃることはできませんですね。

 もう長々お話しましたが、ご自分の中を振り返る必要は全然ない。という簡単なひとくくりのこの表現で、今日の講話は、まったく壺の中、皆さんのお持ちの入れ物の中のように、ですね、その壺の中がどうであるかは、もはや問題になさる必要がないんです。これは心の話をしているんですが、ご自分の心の中を、どうのこうのと概念化して考えに置き換えて論ずる必要はもうありません。ということですね。

 はい。それでは今日の講話はこのへんで終わることにいたします。

    2013.12.15



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