三省会

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第442回三省会例会
宇佐晋一先生の講話
令和2年1月12日

 本日のBさんのお話はすばらしいものでした。かつてのBさんを存じ上げている私としましては、よくここまで肝心なものを身につけて来られたなと感心しているところでございます。皆さん方はBさんのお話を聞かれて、理屈の上での、精神医学という枠での全治とは違った、非常に生き生きとした本物がこのように身近なものとしてあることに気づかれたことでしょう。

 本日は遠方から精神科専門の先生が四名もおいでくださっています。なぜ専門の方がここにお越しになるのか皆さん方は不思議にお思いになるかもしれませんが、神経症は決して薬で本治りするものではなく、先生方がご熱心に肝心なものをここで身につけたいと思ってくださることは、とてもありがたいことです。お帰りになっての今後の治療にそれを存分に発揮していただけるものと存じます。先生方の患者さんはどなたもがご自分の状態とはまったく別の所に、にわかに本物のご自分の姿がいつでもどこでも現れますので、治らずにいようとしても治ってしまいます。そこのところは到底、他の一般の精神科の先生ではお考えにならないことです。

 その見事な全治はどのように現れるかと申しますと、理論的に自己意識の内容を論ずることを離れて、もっぱら他者の意識、外の意識の中で大いに工夫、研究をし、森田先生は「もっとハラハラしたまえ」と言われ、前の院長は「どんどんやりなさい」と申したように、理屈を離れて実生活の中で苦心して進まれることをお勧めします。ですから、言葉を使って「これだ」というふうに何かをつかむということはすべて脱線で、全治は言葉では伝達され得ないものですから、どうか私のこの話も、分かる・・・というつかみ方をなさる必要のないことを申し上げておきます。

 それは例会で常に申しておりますとおり、「知らなさ、分からなさ、決められなさ」という特色のある、言葉のない状態でありますから、筋の通ったご理解はもうこれからは必要ありません。世間でよく言われる「心の健康」というのは本物ではありません。

 皆さん方が他の方々を指導する立場になりましたら、Bさんでしたら農業やサッカーですが、とにかく責任を負って指導者として当たられるその苦心が全治そのものです。ですから、言葉では伝えられないという全治の特徴は、伝えることが難しいというよりも伝えること自体が要らない、直にこのまま、という極めて徹底した状態で、決して難しいものではありません。

 皆さん方は禅のお坊さんが言われることを難しく感じてしまいます。禅のお坊さんの趣旨というものは、分かって答えを出すことをやめさせているのです。ですから解けない、絶対答えの出て来ない問題を出して、それに言葉なしで答えさせるというやり方を取っているのです。そこをお間違いのないようにお願いいたします。

 会場から、Bさんのお話の中にありました、楠木正成くすのきまさしげの、湊川に赴く時のお坊さんとの禅問答について、詳しく話して欲しいというご希望がありました。

 楠木正成は、京都から大阪の方へ行く途中の桜井で息子の正行まさつらと別れます。正行を郷里の河内の方に帰し、父、正成はそれから兵庫の方に戦に向かうという「桜井の駅の別れ」という話があります。それからまもなく高槻に入ります。そこに広厳寺こうごんじというお寺があって、中国から渡来してお寺で指導をしていた明極楚俊みんきそしゅんというお坊さんがいました。そこに楠木正成が立ち寄り、「生死交謝しょうじきょうしゃの時如何」(生死の岐路に立った時にはどのような心構えで行けばよろしいか)と聞いたわけです。そうしますと、明極楚俊の答えは、ピッタリそれを受けたものではなく、「すべからく双頭そうとうを断絶すべし」と答えたのです。双頭は文字通り二つの頭のことで、あれかこれか、生か死かというその考える頭を断絶してしまえ、切ってしまえということで、これはもう、言葉も断絶せよ、というふうに受け取るとよく分かります。

 どっちかにしなさい、迷ってはいけない、一方にしなさいという意味ではなく、もうそれは言葉を取ってしまいなさいというのがまず最初の答えで、それに追加して「一剣いっけん天にってすさまじ」と言ったのです。これは一つの決まり文句で、楠木正成に対して特別に考えた言葉ではなく、他の禅問答でも出て来るのです。生きるか死ぬかというところでこれから湊川に進んでいく正成に対して、そんなことを言っている場合か、と一喝したのです。これが明極楚俊のすばらしいところで、実は前の院長がこの問答を大変好んでおりまして、自分の著書の序文にそれを書いているくらいで、そのことをよく講話で申しておりました。

 それから会場からのお話の中で、「一無位いちむい真人しんにん」という言葉がありました。これは唐の時代の臨済禅師の生活と意見を記録したものの中に出て参ります。偉いとか偉くないとか、悟っているとかいないとか、という位置づけ、説明がまったくない、本物の人ということです。そういうふうに臨済禅師が真実に生きる人の表現をしております。

 われわれの全治もまた、言葉にしないままの、悩んだら悩んだまま、症状があればあるまま、気になればなるまま、それでもう十分でありまして、それを薬で症状をなくそう軽くしようとすると、途端に脱線します。ですからそのまま、このとおりという状況で、実際の生活で他者の意識の方にどんどん進んでいらっしゃればもう立派な全治で、治って治って仕方がないのです。一番肝心なことは、皆さんのご納得がまったく要らないということです。

 皆さん方も今年初詣をなさったかもしれません。世間の人は初詣で、健康、長寿、家内安全や受験合格などの祈願をどうどうとしていますが、森田療法からすればそれは大脱線です。それでは本物の真実に生きる姿は到底やって参りません。

 さらに申し上げるならば、平常心は普段の生活上でのいろいろな悩み、気になることそのものが当てはまるわけでして、決して世間で言われているような、落ち着いた心、平穏な心と限定するものではなく、目指すべき心の状態でもありません。

 これからはご自分の在り方を論じる前に実際の日常生活にどんどん取り組まれればよろしいのです。

(第442回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話 会場:メルパルク京都)



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