三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


心は掃除しない、磨かない  

 ギリシャの昔デルフォイの神殿に「汝自身を知れ」というソクラテスのことばが書かれていたという。その流れは近代哲学の祖とあおがれるデカルトの「我思う故に我あり」という思想に受けつがれて、心身二元論を明確に打ち出している。私が三聖病院の院長であった頃、役員会といえば、臨済宗東福寺派の管長の林恵鏡老師以下七名の僧侶方が席を連ねておられて、他所では見られない雰囲気であった。役員会のあと、いろいろな世間話が出るなかで、一人のお坊さんが「掃除をすることは心の掃除や」といわれたのが印象に残っている。これは普通、一般受けのする機知的なことばで、表現を変えれば「心を磨くべきだ」という考えに共通しており、だれもが賛成して、反対する人のほうが変な目で見られるだろう。

 ところが心とか自分とかという自己意識内容は存在するものとして論ずることは、ものごとの根源的な事実を十分に見極めたものではない。あるように思えるから、あるにきまっていると勝手に思っているだけである。そういう場合、自分の責任において心を理想的にすることが精神修養の効果として期待される。「心を磨くこと」が何時いつとはなしに義務感をもって、人格を高めるよいことだと思われてしまったのである。「これが自分だ」という自己意識内容はよく見極めると、じつは絶対不成立のものであって、心を自分でよいものにしようというのは、不可能なことであり、まったく無駄な努力なのであった。心に手出しは無用であり、どうなろうとおかまいなしにほっておいて、他者意識の社会生活に向って善行のかぎりを尽していくことがあるのみである。日本では鎌倉時代に、このことに気がつく人が二人現われた。一人は身心一如(しんじんいちにょ)を説く曹洞宗の開祖 道元。「心は仏の方(かた)より行われる」として、論じなかった。もう一人は「不断煩悩、得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん----煩悩を断ぜずして涅槃を得)」と正信偈に説く浄土真宗の開祖 親鸞聖人である。両者とも「目ざす心」という対立概念をもたないところに真の宗教者といえるものが共通して見られるのである。森田療法における「あるがまま」の意識も、まったく同様で、不安のまま、ただそれだけなのである。

   2021.3.1



目次